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「宿舎でもなく、屋敷でもなく、使用人もいないで、一人で暮らせるの」
「暮らせるさ」
フレディは笑む。あまりの自然な返答に、問うたルーシーの方が変なことをきいた錯覚に陥った。あんなお屋敷に住んでいた人が、使用人一人いないで暮らせるものなのか。想像もできなかった。
「その方が楽だし、夜遅くても歩いて帰れる。いざとなれば、王宮の馬車で送ってもらえばいい。その辺は融通がきくんだ」
「そんなに遅いの」
ルーシーの驚きに、フレディは苦笑する。
「殿下の雑務は多いんだ。王が倒れられてからは特にね」
「二人で仕事されてても、そんなに遅いんですか」
ルーシーはおずおずともう一度聞きなおす。
「ああ、仕事量が多くてね」
だから王太子はどうしてもフレディをそばに置いておきたいのかもしれない。政務を負う王太子とフレディならではの理由だろう。
王太子妃はまだのんびりとかまえているため、夜勤以外で帰れない日はない。
「殿下の補佐も大変なのね」
「馬車にゆられて帰る時間さえ、寝る時間に当てたいんだよ。王宮から徒歩で帰れる方が、俺には都合が良い。実家だとなにかと人もいて、煩わしいんだ」
フレディが面倒くさい女は嫌だと明言する理由も分からないでもない。下手な女だと彼自身が足を引っ張られる気分になるのだろう。
ルーシー自身、男を面倒くさいと思っていたのだ。結婚しても、やっかみが家で待っていると思えばうんざりするだろう。
『女を面倒事呼ばわりする彼と、結婚を拒む私はどれほど違うのだろう』
はっきり口にするか、しないかの違いぐらいにしかルーシーには思えなかった。
ポタリと額に雫が落ちた。
なんだろうとルーシーが見上げれば、空にはいつの間にか暗澹とした雲が広がっていた。
ぐっと手を引かれた。
「通り雨だ。急ぐぞ」
走りながら、ルーシーはぬくもりが残るパンが入った袋を抱きしめた。大粒の雨が頭部にポタリポタリと落ちる。
路地裏へ入る角を曲がる。右手に緑の扉があり、そのノブに手をかけ、フレディが開けた。扉の内側へ、二人は飛び込んだ。振り向くと、ぼたぼたと重たい雨粒が、地面にぞくぞくと黒い斑点を作ってゆく。あっという間に、激しく降り出した雨が、地面をじっとりと濡らした。
「びっくりしたわ」
ルーシーは抱えたパンが濡れてないかと覗き込む。見る限りは無事だった。
「大丈夫か」
「ええ、パンは濡れてないわよ」
頭部を濡らした雨が頬や額に伝ってくる。
「違う。ルーシーのことだ」
平手に額を押された。ぐいっと顔がもちあがり、前髪をフレディの大きな手がかき上げた。
茶色い瞳が心配そうに覗き込む。ルーシーの心音が跳ねあがった。
「少し濡れたけど、大丈夫よ」
「良かった」
フレディの手がはなれ、もちあげられていた前髪がふわりと落ちる。
一瞬の出来事に、ルーシーはぼんやりと彼を目で追う。
背を向け歩き出した彼のあとを追った。階段があり、三階まで登る。廊下の左右に入り口が等間隔に並んでいた。一番手前の扉を、フレディはポケットから取り出した鍵であけた。
彼の家は一間で、仕事机とベッド、テーブルと水回りがあり、最低限の家具と日用品が揃えられているだけのようだった。まさに寝に帰る部屋ではないか。
「本当に、一人で暮らしているのね」
「屋敷の者が、週に一、二回掃除に来てくれるほか、俺が朝と夜いるだけだからな」
二人掛けの小さなテーブルに荷物をおくフレディにならい、ルーシーもテーブルにパンの入った袋を置いた。
ごそごそと再確認のため、開くとパンの甘い香りが立ちのぼった。
「一人って楽? 全部自分でするんでしょ」
「楽だよ」
「宿舎だったら、ご飯も作ってくれるのよ」
「それでも、俺は一人がいい」
そう言うなり、買ってきた材料をキッチンへと持っていく。「パンはそこでいいよ」と言われたので、ルーシーは袋の口をしめて、そのまま置いた。
「料理するの」
「するよ。気晴らしになる」
慣れた手つきですぐに調理する材料をキッチンの上に置き、少しかがむと残りの野菜と果物を棚下の籠に放り込む。立ち上がったフレディが袖をめくった。
「座っててもいいよ。焼くと煮るしかしないから」
「平民みたいね」
彼は、小さなナイフを取り出し果物を手にした。
「俺は平民だよ」
「あんな屋敷に住んで、平民と言われたらうちはどうなるの」
「貴族だろ」
しゃべりながら果物の皮をするすると剥き始めるフレディの手つきを、ルーシーは眺める。
「器用ね」
「慣れさ」
皮を剥き終わると、こっちへおいでとフレディがルーシーを手招きする。
手のひらにのせた果実を、ナイフで割り、小さく切り分けた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ひとかけつまみ、ルーシーは食む。
「さっき、すれ違った親子。あの男に振られたの」
『やっぱり、気づかれてた』
ルーシーは胸苦しくなる。男に振られたことが嫌なのか、フレディに知られたことが嫌なのか、判断はつきかねた。
「……そう……」
隠しても仕方ないと肯定する。フレディの方が上手だと分かっている以上、誤魔化しても仕方なさそうだった。
「偶然ってすごいな」
フレディも果物をひとかけ口にほおり、咀嚼する。
甘酸っぱい果実を頬張りながら、ルーシーはいたたまれない気分になる。
「二年前よ。
突然、身を固めるから、と言って、去っていきそれっきり。
ちょうど、私が近衛騎士になったばかりだったわ。
私なら一人でもやっていけそうだよね、と言われたの。数か月後には結婚して、今は子どももいるんだと今日知ったわ。騎士でも所属が違うと知らないものね」
「……どう思った」
「どうって……、いい気分ではなかったわ」
「幸せそうで腹が立ったとかは……」
「どうだろう。子どももいて、そこまで思えない、かな。子どもに罪はないし、奥さんも知らないかもしれない」
果物を食べるフレディがルーシーを盗み見る。
「フレディがいて、少し助かったわ。一人だったら、耐えられなかったかもしれない」
一人であの光景を見て、誰も一緒にいなかったらと思うとルーシーはぞっとする。打ちひしがれて、なお固くなり、絶対に結婚なんてしない、など決意してしまいそうだった。
男の悪いところばかり目につき、どんな人が現れても、思い込みに曇った眼は、フレディでさえ、拒否したかもしれない。
「俺は、あっちも幸せそうで良かったと思うよ」
フレディは親指についた果汁を舐めとる。
「これで、ルーシーが引け目を感じることがないだろう」
言われている意味が分からず、ルーシーはフレディを凝視する。
「心置きなく、幸せになれるでしょ」
ルーシーはあからさまに困惑の表情を見せた。
「……意味が、分からないわ……」
「俺が、ルーシーを幸せにしてあげるって言っているんだよ」
涼しい顔でしれっと言ってのけるフレディに、ルーシーは目が点になり、ついで言葉を解すれば、頬どころか首まで真っ赤に染めていた。




