第52話:触れられたくない話題に戸惑う
ポタリと額に雫が落ちた。
なんだろうと見上げれば、いつの間にか暗澹とした雲が空に広がっていた。
フレディに強く手を引かれた。
「通り雨だ。急ぐぞ」
大粒の雨が頭部にポタリポタリと落ちてくる。
濡れないように、ぬくもりが残るパンが入った袋を抱きしめた。
メインの通りから、裏手へ入る角を曲がる。すぐ右手に緑の扉があり、そのノブに手をかけたフレディが、勢いよく開けた。
扉の内側へ、飛び込んだ。
振り向くと、ぼたぼたと重たい雨粒が、地面にぞくぞくと黒い斑点を作ってゆく。あっという間に、激しく降り出した雨が、地面をじっとりと濡らした。
「びっくりしたわ」
私は抱えたパンが濡れてないかと、袋を覗き、確かめる。見る限りは無事だった。
「大丈夫か」
「ええ、パンは濡れてないわよ」
頭部を濡らした雨が頬や額に伝ってきた。
「違う。ルーシーのことだ」
平手で額を押された。
ぐいっと顔がもちあがり、前髪をフレディの大きな手がかき上げる。
顔を上向けられると、目の前にフレディの顔があった。
茶色い瞳が心配そうに覗き込む。
私の心音がばんと跳ねあがった。
底から体が火照り、頬を耳を熱くする。
「すっ、少し濡れたけど、大丈夫よ」
声も上ずっていた。
フレディはほっと息を吐き、目を細める。
「良かった」
彼の手がはなれ、もちあげられていた前髪がふわりと落ちた。
フレディは踵を返し、廊下を進む。私は彼の背を見つめ、じんじんと痺れる額に手をのせた。
「おいで、こっちだよ」
「はい」
彼の後を追い、階段をのぼる。三階までゆくと、廊下に出た。通路には入り口が等間隔に並んでいた。一番、手前の扉を、フレディはポケットに入れている財布から取り出した鍵であけた。
大きく開かれ、内部を覗く。
彼の家は広い一間で、ざっと見ても、仕事机とベッド、テーブル席に、台所だけ。室内に一つある扉は水回りだろう。屋敷で見た彼の自室と比べられないほど、最低限の生活用品しかない。必要最低限だけ揃えるだけの質素な印象だ。まさに寝に帰る部屋ではないか。
「本当に、一人で暮らしているのね」
信じられなかった。
あんなに使用人も料理人もいるお屋敷で育って、出資する事業でそれなりの収入もあるはずなのに、この部屋は下級文官でも借りることができそうな広さと家具しかない。
独身寮に入るでもなく、一人で暮らすとは。こうやって見て初めて、実感を伴う。
「寮でもなく、屋敷でもなく、使用人もいないのに、一人で暮らせるの?」
「暮らせるさ。屋敷の者が、週に一、二回掃除に来てくれるからね。割と部屋はいつもきれいだよ。基本的には、朝と夜いるだけだし」
室内に入ると、靴を脱ぐように言われた。
外履きではいると床が汚れるのが、好みではないそうだ。家主に従い、靴を脱いだ。
フレディも室内に入り、後ろ手で扉を閉め、鍵をかける。
「寝に帰るだけなの? それほどまで殿下の補佐が大変なんて知らなかったわ。妃殿下の傍はいつも決められた時間通りの勤めだもの」
「殿下自身も忙しいからね。なにせ、倒れた父王の仕事も一緒にこなしている。
俺がここで暮らすのは、楽だからだよ。夜遅くても歩いて帰れる。大抵は、王宮の馬車で送ってもらっているんだ。その辺は殿下がいて、融通がきくんだ。
彼には昼間の公務があり、書類ばかりにらめっこしていられないからね。彼が倒れても一大事だ。王が倒れ、彼が倒れれば、それこそ混乱してしまう」
その通りだ。
フレディの仕事は、実はこの国において、とても重要な位置づけになるのかもしれない。
王太子がフレディを、貴族にしてまで、傍に置きたがるわけだわ。
面倒くさい女は嫌だというのも頷ける。彼にとって面倒くさい相手は、足を引っ張られる気になるのだろう。
フレディも靴を脱いだ。入室すると、部屋の中央に置かれた、二人掛けの小さなテーブルに荷物をおいた。
私も彼に習い、テーブルにパンの入った袋を置いた。
ごそごそと再確認のため、開くとパンの甘い香りが立ちのぼった。なかは濡れていなかった。
「一人って楽? 全部自分でするんでしょ。ご飯も作るの」
「もちろん、今、材料を買ってきただろう。夕飯作るから一緒に食べよう」
「作れるの?」
「作れるよ」
「あんなに使用人がいっぱいいる家で育っているのに……」
「それとこれとは別だよ」
「寮だったら、ご飯も作ってくれるのよ」
「こっちの方が気楽だし、料理は気晴らしになるから、好きなんだよ」
そう言うなり、フレディは買ってきた材料をキッチンへと持っていく。「パンはそこでいいよ」と言われたので、私は袋の口をしめなおして、彼の後を追う。
慣れた手つきですぐに調理する材料をキッチンの上に並べる。使わない野菜と果物を棚下の籠に放り込んだ。
立ち上がったフレディが袖をめくった。
私は一度も台所に立ったことがない。物珍しくて、凝視してしまう。
彼は、小さなナイフを取り出し果物を手にした。
「座っててもいいよ。焼くと煮るしかしないから」
「平民みたいね」
「俺は平民だよ」
「あんな屋敷に住んで、平民と言われたらうちはどうなるの」
「貴族だろ」
しゃべりながら果物の皮をするすると剥き始める。
「器用ね」
「慣れさ」
皮を剥き終わると、フレディが手のひらにのせた果実をナイフで割り、小さく切り分けた。切り分けられた果物が私の目の前にきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ひとかけつまみ、食む。
食べている最中にフレディが言った。
「俺、ルーシーにどんな過去があっても気にしない、って言ったの。忘れていない?」
飲み込んだ果物が喉につかえて、むせた。
(いきなり何を言い出すの)
「ここに来る間に、二回変な顔したよね。
店にいた時に俺の肩越しになにを見たの」
「……」
マシューのことだ。
初回はフレディに、『男』と聞かれている。
触れられたくないこと、話したくないことが話題に乗り、私は戸惑う。
「二度目に変な顔したのは、妊婦連れの亜麻色の髪をした男とすれ違った時だ。ねえ、ルーシー、彼とは知り合い?」
あの一瞬で、フレディはマシューの顔まで記憶していたの?
同期の騎士、と言えば誤魔化せる。それとも、あの時の私の表情や態度は、そんな言い訳が通じないほどだった?
「俺、そんなに信頼ないかな……」
ぽつりと呟いたフレディが天井を見上げた。