第51話:いてくれるだけで感謝したい
フレディが頼んでくれた紅茶のカップに私は手を伸ばした。
彼の顔を直視できない。
乳母の話をしてから、急に現実味を帯びてきた。
この人と婚約して、結婚する。仕事もしていていいといってくれて、妃殿下の傍にいることも理解してくれた。
過ぎた人だと思うし、出来た人だとも思う。
家族思いで、小さな子への対応は私よりずっと上手。
今になって、そんなフレディの顔を直視できなくなってしまった。なんで。
昨日の夜、さっきの馬車。触れられて驚いた。本当に、ただ驚いた。
理性的に納得しての見合いだとおもっていたのに、違う感情が押し寄せてきて、その気持ちに名前をつけられないままに、飲まれている。
言葉にしようとすると、無性に恥ずかしくなり、言語化する前に、否定したくなる。
そっと顔をあげた。フレディの顔を見ると、それだけで頬が熱くなる。
そんな彼の肩越しに人影が揺れた。
マシューがいた。隣には小柄な彼の妻もよりそっている。ふっくらとしたお腹がめについた。
(嫌だ! この過去はフレディに知られたくない!!)
ぞわっと私の背に悪寒が走った。さっと火照っていた体が冷める。
私の変化に気づいたフレディが振り向き、背後を確認する。
(なにも見ないで!)
私は必死で心のうちで叫んだ。
すぐにこちらへ顔を戻すフレディが言った。
「男か?」
ぞわっと背に鳥肌が立つ。
知られたくない、気づかれたくない。
真顔のフレディの視線が痛い。
耐えられなくて目をそらした。
(過去なんて知られたくない)
体が力み、眉間に皺を寄せてしまう。
フレディはずっと黙っていた。
なにかを聞かれることが怖かった。
なにを見たんだなんて、聞かれたくない。
ボロが出そうで、声も出せない。
マシューの存在を知られたくない。
そんな過去があると、言いたくない。フレディがなんと思うか、わからないもの。
「まあ、色々あるよね」
フレディの発した一言にかたまる。
さらに沈黙が続く。無言の空気がピリピリと肌を刺した。
「まだ、時間はあるか」
「ありますけど……」
「夕食も一緒に食べないか?」
「えっ?」
「俺の家が、この近くにあるんだ。いずれは婚約する者の家だ、問題ないだろう」
はっと顔を上げた私は、彼の言葉を咀嚼しきれなかった。
「あっ……あの」
フレディはにこやかに笑みを浮かべる。それだけで、彼が眩しく見えるのはなぜだろう。
「明日、ルーシーのご実家に挨拶に行き、了承されたら婚約する。暗くなったら、寮まで送る。問題ないだろ」
「えっ……、えーっと」
見ず知らずの男性の家に突然上がり込む気にはなれないものの、フレディとの関係には未来がある。そう考えれば、断ることもどうか……。
そうこうしているうちに、財布から取り出した紙幣を一枚机に置き、フレディは立ち上がる。店員がすかさず寄ってきて、二言三言会話を交わす。そののち、片手をあげて「いいから」とフレディは言った。
フレディの所作は慣れている。手際の良さに、つくづく彼が年上の男性だと思い知る。慣れた王宮ではそこそこ対等にふるまえるものの、このような場面では、私はどうしたらいいか分からない。
店員が、置かれた紙幣を受け取り、一礼すると立ち去った。
フレディの視線が私に向けられる。
戸惑っていることを察してか、手を差し述べてくる。
彼の手に私の手をのせ、立ち上がった。きゅっと私の手を握る。
「ここね。実家が出資している店の一つなんだ。同じ店舗は街中にいくつか見るだろう」
「店員とはそんな話を?」
「いや、おつりはいらないって言っただけ」
踵を返すフレディが歩き出す。
引っ張られて、足が動く。
「行こう」
フレディはどこか楽しそうだ。
(この手を握り返していいのかな。いいのよね)
少し前を歩くフレディの背と、彼が握っている私の手を交互に見つめた。恐る恐る握り返す。
そのままいくつかの店を渡り歩く。
数件隣の肉屋に顔を出す。
多種類の肉が干されていた。ウサギ、ネズミ、鹿、豚、牛、馬、鳥など。生肉より加工された肉の方が多い。日持ちするように、干し肉にされたり、腸詰めにされた品が細長く巻かれつり下がっている。
私もしばらく生肉などお目にかかっていなかった。養成機関中に野外調理は経験あるものの、王宮勤めになってからは、料理は料理人の仕事であり、実家に戻っても料理人がいるため台所に立つこともなかった。
フレディは腸詰めにされた品を購入していた。
その間も、手を離さない。買い物をするには不便だろうに……。
次に野菜屋に入る。
オレンジ、赤、緑、白。土がついたままの根菜。艶やかな黄色い果実。赤いベリーにオレンジの柑橘類。色鮮やかな野菜と果物がならべられていた。
ここでも手をつないだまま、店主に見繕ってもらって、購入する。荷を入れた袋を受け取った。
なんでもできるのね。
フレディは不思議だ。
あの豪邸で育ち、事業に携わりながら、殿下の傍で下級文官に収まっている。平民でありながら、そこいらの貴族より資産を持つ。実家だけでなく、フレディ自身も持っている。
なのに、まるで今はそんな一面をかんじさせず、一般客に交じって買い物をしている。
平民と貴族、男女差、年齢差。さまざまあろうが、どう比べても、フレディは大人であり、私の方がまだまだ子ども。
「パン屋に寄ったら、家にいこう」
前を向く。パン屋の看板が目に入る。屋根にある煙突からは煙が流れ、今も焼いているようだ。煙が消える空に雲がかかってきていた。さっきまで晴れていたのに。
視界の端に、一組の夫婦がむかってくるのが見えた。私はびくんと緊張する。
(いやだ)
足が重くなる。
手を引くフレディはパン屋に向かって進もうとする。
前からやってくるマシューと彼の妻が、フレディの横を通り過ぎた。
見たくないのに、見てしまう。
マシューと目が合って、彼はふいっと前を向く。
私とすれ違った直後、二人の会話が耳に届く。
「知り合い」
「同期の騎士だよ」
聞こえたのはそれだけだった。
フレディはなにも気づかず、歩く。
私は彼の手をぎゅっと握り、その背を追いかけた。
(フレディはなにも気づきませんように)
マシューにはマシューの人生がある。
私には私の未来がある。
もう関係ないのだ。
この過去は蒸し返したくない。
フレディがパン屋の扉を開く。カランカランと扉に括り付けられたベルが鳴った。
「いらっしゃい」
三角巾をつけた女の子がいた。パンを並べたカウンターの向こうに立っている。
「丸パン六つおねがいします」
「丸パン、六つですね。少々お待ちください」
元気の良い女の子が、パンを紙袋につめる。フレディは硬貨をカウンターに置いた。
その紙袋は片手が空いていた私が受け取った。紙袋越しでも、ぬくもりが伝わってくる。
パン屋を出て、再び歩き出した。
紙袋から立ち上ってくる甘いパンの香りに癒される。
街中でマシューを見るのは初めてだった。
彼の妻を見るのは、妃殿下の夜会以来だろう。あれから二人は夜会に参加していない。王主催の夜会と言えど、下位の貴族は年に一回参加すればいい方だ。常連は上位の貴族のみというのが通例になっている。
すれちがっても、フレディがマシューの存在に気づかずほっとした。顔だって知らないはずだもの、当たり前よね。私の動揺も、彼の手のぬくもりで癒される。
フレディが横にいてくれて良かった。
ほんのりと暖かい気持ちにつつまれていると、マシューが幸せでいてくれたことさえ、良かったと思えてくる。
一人だったらどうだったろう。
仕事も伴侶もいる彼だけ幸せになっている気になったろうか。意固地になって、もっと仕事に没入しただろうか。
どちらにしろ、マシューに引け目を感じないでいられたのはフレディのおかげだ。言い知れない沼へと落とされることをとどめたのは彼の手のぬくもり。
誰かが一緒にいてくれるのって、とても、ありがたいことだわ。
フレディは何も言わない。ただ買い物をして、私の手を引き、歩いていく。