第50話:道に彼女はなにを見た
「あっという間に進んで行くけどさ。結婚なんてこんなものかもしれないよね」
独り言ち、ルーシーのほうに体を傾けると、彼女の唇に俺のそれを重ねた。
ぎゅっと目を閉じた彼女は全身を強張らせる。
それでも、触れあった表層は柔らかく、暖かい。
あまりの慣れなさに俺の方が躊躇しそうだよ。
昨日も遠慮して、頬で我慢していたというのに……。
触れ合わせて、すぐに離す。
眉間に皺をよせ、ぎゅっと閉じた両目。横一線に結ばれた唇がわずかに開き、息を吐いた。
ああ、息さえ止めていたとはね。
男に振られているはずなのに、まるでなにもかも初めてという反応。苦笑するしかない。
うっすらと目を開き始めるルーシーの頬から手を離す時に、唇の中央を親指の腹で触れた。
「先が思いやられるね」
初心な反応に笑うしかない。
このぐらいで緊張しているようじゃあね。乳母になるなんて、どれほど遠いことだろう。
(これからを楽しみにしていますか)
慣れた女性よりも気長にかまえることになるものの、反応を楽しむ児戯と思えばいい。
赤くなって、軽く取り乱す自分を押し殺し、声も出せずに放心しているルーシーを横目に、馬車の座面に座りなおす。
彼女の引き結ばれた唇は活きた貝のように硬かった。昨日の夜にしても、まるで男とキスさえしたこともない反応だ。
(あの時、振られていたのはルーシーだったよな)
記憶は曖昧となり、頼りなくなっている。
唇に触れた親指の腹がうっすらと赤くなっていた。
もんで消そうとして、やめた。
横にいるルーシーは、狼狽を堪える涙目。
時折、恥じらいながら睨んできたり、上目遣いでこちらに視線を投げる姿がどんな風に見えているのか気づいていない。
悪戯心がうずく。
俺は、その親指の腹を口元に寄せて、舐めた。
ルーシーがまるで総毛だつ猫のようになり、硬直する。
(子どもだよな……)
これじゃあ、ポーリーン以下じゃないか。
あの子なら、頬や額にお休みのキスをすると、頬を赤らめても、ふわっと笑顔になる。嬉しいと表現する。
ふった男はなにをしていたのか。騎士養成機関卒業年齢など鑑みるとそれなりの期間、関係はあったはずだろう。
かと言って、恥じらい薄く、慣れた反応をされるのも興が削がれる。
結局のところ、ルーシーの反応は嫌ではない。
ふられた現場を見ていただけに解せない、というだけだ。
(そう思っているうちに、女性は羽化するからなあ)
ジュリエットだとて、その昔、下働きの娘にしか見えなかった。彼女は、誰よりも、立場が悪かった。
それが今ではどうだ、あの変わり様は。
彼女は一日五食食べている話も有名だが、あれだとて本来は、粗末な食事を一日一食しか食べていなかった名残だ。一食で多くを食べられないように成長しているにすぎない。
(あの王太子妃に、この侍女ありか……)
ちらりと横目でルーシーを見ると、胸に手を当て、硬直している。
程なく馬車が停車した。街中に着いたのだ。
馬車の扉が開く。俺が先に降りて、ルーシーに手を差し伸べる。
未だ恥ずかしがっているのか、ちょっと顔を赤らめている。口元が真横に結び、気持ちがまだざわついていることが見て取れた。
彼女が降りてから、御者に挨拶し、屋敷へと戻ってもらった。
走り去る馬車を見送る。
整備された道の左右に並ぶ店は平日の昼間のわりに賑わっている。道から抜ける空は晴れ渡り、陽光も眩しい。白い雲が横にながれていく。
世界はとても清々しい。
隣にいる彼女だけ、悶々としている。
落ち着かないまま、街をぶらりとするのも可哀そうだ。
沿道にテーブル席を並べる店が目に入った。見知った看板を確認し、ルーシーに語り掛けた。
「ひとまず、お茶にしようか」
戸惑う彼女の手握り、引く。
歩き始める俺の横を黙ってついてくる。
ポーリーンより小さな子の手を引いている気がしてきた。
おそらく、ルーシーは大人しい子だったのだろう。
姪っ子は、姉二人兄三人に揉まれて成長している。主張するにしても、甘えるにしても、手本がすべて目の前にある。もちろん、反面教師も。
片やルーシーは一人っ子。両親と祖父母に大切に育てられていると思われる。ポーリーンよりずっと、内面はお嬢様育ちなのだろう。
晴れやかな昼下がりの午後。
あたたかな道沿いの席に向かう。
椅子を引き、彼女をすわらせ、俺は向かいに座った。
脇に置いてあるメニュー表を手に取る。
ぱらりと開く、珈琲があると目視し、閉じたメニュー表をルーシーに渡した。
彼女は受け取ったメニュー表を開くと、まじまじと眺めはじめる。
俺は足を組み、頬杖をつく。しばらく待ってから、声をかけた。
「決めれそう?」
ルーシーが凝視していたメニュー表を置く。
顔見て、笑いかけると、また恥じらう。
視線を落とし、開いたメニューの一つを指さした。
「これにする」
小声で呟く。
俺が顔を上げると店員が近寄ってきた。彼に、珈琲と紅茶を注文する。
ルーシーは照れくさそうにしながら、俺の様子を伺っていた。
「ルーシー」
「はい」
「緊張するの、今さら?」
朝方からそれなりに楽しく会話を交わしていた。
家族と会った時も、部屋に招いた時も、こんな反応は返してこなかった。
(馬車のなかからか)
彼女から、乳母の話を切り出されてから、意識が変わった。
(よくとらえれば、俺のことを男として意識し始めたってことだろうな)
婚約する、結婚する、ひいては、妃殿下の望む乳母になる。その一連の流れが、彼女の中で具体的になった証だろう。
その上で、この反応だ。
まるで彼女の初恋の相手にでもなった気分になる。
(今なら、誰ともつきあったことがないと言われても納得してしまいそうだな)
店員が品を運んできた。俺の前に珈琲、ルーシーの前に紅茶を置く。
静かに珈琲を一口含んだ。
ルーシーが紅茶のカップに手を伸ばし、顔を上げた。ちらっと俺の顔を見て、頬を赤らめた。
その直後、彼女の顔から血の気が引くような影がよぎった。
視線が俺の背後に投げられている。俺も反射的に振り向いていた。
眼球を左右に動かした視界上に、カップル数人と親子連れ数組が見えたものの、誰が彼女の目にとまったかまでは把握できなかった。
ルーシーに視線を戻しながら、俺は呟く。
「男か?」
咄嗟について出た台詞は、あてずっぽうだ。
動揺しているルーシーがボロをだすことを期待しただけで、特段意味はない。かまをかけたにすぎない。
ルーシーは目をそらし、何も答えなかった。ただ、あからさまに眉間にしわを寄せた。
「まあ、色々あるよね」
探ることをやめた俺は空を仰ぎ、珈琲に口をつける。沈黙を守るための時間稼ぎだ。彼女がなにか返してくれるまで、待つ。
黙って、カップの珈琲を半分飲み終えた。
俺の方が降参。
無下に問い詰める所以もない。彼女が振られる現場に居合わせたことは知らないのだ。
ただ、俺の胸につかえが残る。
ルーシーが俺といて、表情を変える理由。
例えば、ふった男がいた……。
可能性はないこともない。騎士ならば、不定休なはずだ。
面白くない。
彼女の中に、未だ、前の男が残っているのは軽く不愉快だ。
「まだ、時間はあるか」
「ありますけど……」
「今日の夕食も一緒に食べないか?」
「えっ?」
「俺の家が、この近くにあるんだ。いずれは婚約者の家だ、問題ないだろう」
顔を上げ、ぽかんとするルーシーを、有無を言わさず、俺は連れ帰ることにした。




