第41話:頬に触れたぬくもりに目を剥く
抱きしめられて、体が強張る。どくどくと心音があがり、体中が熱くなる。
フレディの力は強くなるばかりで、息が苦しい。
近づかないでと意思表示した手が今は彼の胸に触れていて、そこからどくんどくんと強く早く打つ心臓の響きが伝わってくる。
(フレディも緊張しているの)
胸元から首筋、顎へと視線をあげてゆく。
その最中、顔の横に影が映り、(なに?)と思った時には、私の頬と顎をぬくもりが包み込む。
それは彼の大きな手。
視線が上向く頃には、顎と頬をフレディの手がしっかりと押え、私の顔を上向かせようとしていた。
咄嗟にフレディの胸元に置いていた手を上に伸ばす。真上にあった、彼の顎に手の腹を添えた瞬間、フレディの動きがとまった。
いつの間にか体も反応し、軽く仰け反っていた私は口をへの字に曲げて、不貞腐れたような可愛くない顔を作ってみせた。
どいて、と言わんばかりの表情を見て、眉の中央部を凹ませたフレディが笑む。
恥ずかしいとか、照れくさいとか、いたたまれないとか。感情が渦を巻く。
私はそっと息を吸う。
何か言わないとと、気が少し急いた。
沈黙も耐えられないほど、痛い。
「まだ、家族の了承得ていないし……」
この体勢で、このセリフしか出てこないってなにごと!
十歳の子どもですか!
言ったものは、言ってしまった。引っ込められない。
フレディの腕から力が抜ける。
呆れられた。
呆れても当然よね。
なんで、こんな肝心な場面で、このセリフしか出ないのよ。どれだけ、経験ないか、見せつけているかのようじゃない。
まるで、子どもって呆れられるわよ。
涼しい表情のフレディは、落ち着きがない私を包み込むような声音で言った。
「そうだね。まずはルーシーのご家族に挨拶に行く方が先だよね」
頬に添えた手に彼がくいっと力を入れる。
横を向かされた私。片頬が彼の正面に向けられた。
ふにっと柔らかい感触が頬に触れた。
なにをされたかよくわからず目を丸くしたのも束の間、そこに触れたのが彼の唇だと、窓に映る影越しに悟る。
悲鳴を上げそうになっても、喉が絞られ、声がでない。
ただ私の唇が数度上下に震えた。
フレディがぱっと私の身体から両腕を離した。支えを失った私は、肩を預けていた背もたれにもたれかかる。
呆れられないか、心配になる。
口を真一文字に結んで、目だけフレディに向けた。
「そんな恨みがましい目をしないでよ。嫌なことはしないから」
そんな表情が広がっている自覚はない。内面は、ただどうしていいかわからないだけだ。
マシューの時のような、同年代でただ楽しいだけの関係とはどこか違うことに戸惑っているだけよ。嫌とか、そういう感情はないんだけど……。
「いきなりはもうやめてよね」
口から出るのは、なぜ悪態!!
「せっかく、ルーシーに起してもらったし、ちゃんとベッドで寝ないとね」
そう言って立ち上がったフレディが私に手を差し伸べる。その手を借りて、私も立つ。添えた手を握ったフレディが寝室前まで送ってくれた。
おやすみなさい、と挨拶し、一人で、その部屋へ入った。
広い寝室だった。
中央に構える天蓋付きのキングサイズのベッドが、シングルかと思うぐらい余裕のある。
(うわぁっ。妃殿下のベッドだって、この広さじゃないし、天蓋もないのに……)
しかし、部屋全体は質素なものだった。装飾品は少なく、天井や壁、窓の設えも簡素。目につくような調度品は置かれていない。
(寝るためだけにこれだけの空間をとるなんて、なんて贅沢なの)
私は、でんと中央に構えるベッドに座った。
窓からは夜空が見える。カーテンは閉められていない。外からなかが見えるかと言えば、きっと見えない。それぐらいの広い部屋にベッドがちょこんとあるだけなのだ。
枕元にある明かりを消せば、窓から差し込む星と月の自然光だけとなる。
ベッドの中にもぞもぞと潜り込み横になる。
瞼が自然に重くなった。今日は怒涛のような一日だった。うつらうつらと振り返っても、三日分の出来事のように感じてしまう。
こんな変化の多い日はいつぶりだろう。
妃殿下の護衛騎士になった日だろうか、いや、マシューにふられた日か。
あの日も長く、一日の終わりに、風呂場で泣いたのよね。
そんな日もあった。
もう、昔のことだ。出来事を思い出しても、感情は動かなかった。
フレディと過ごした今日を思い出した方が、ありありと戸惑いと恥ずかしさと喜びなどの感情が血液のように全身をめぐる。
婚約を拒否しておきながら、私から、結婚しよう、と言っていた。
気持ちが揺れ動く一日だった。
感情が動くと、体も疲れる。
疲れ切った身体は心地よいベッドのなかに沈み、指一本動かせないと思ったところで、私の意識は夢の中に溶けていった。
翌朝、目が覚め、天蓋が目に入って、思考が止まった。
ここはどこだっけなどと思う間もなく、昨日の出来事が一気に思い出された。
がばっと飛び起きて、一晩泊まった部屋をぐるっと見渡した。
朝日が入り、夜とはまた違う清々しい雰囲気。
そんな景色とは裏腹に、してはいけないことをしてしまったような形容しがたい感情に襲われる。
(そうだ、昨日……。私、フレディと同じ部屋に泊っているんだ)
よく寝れたし、目覚めも悪くない。
起きた瞬間に見た景色に圧倒され、状況を自覚して戸惑いを覚えただけだ。
私は頬を二度両手で叩いた。
ぱんぱんといい音が鳴った。
戦いに行くわけではないのに、緊張が走る。
目覚めて元気になった私は、ベッドから立った。
この部屋を出て、扉の向こうに出たら、フレディがいるのかもしれない。
ただ、おはようと言えばいいのだ。
おはよう、良い天気ね。
気負わず、笑って挨拶してしまえばそれで済むはず。
たぶん……。
私から、『結婚しよう』と言ってしまった相手に、朝一でどんな顔をして会えばいいのか。今さら迷うのもバカみたい。
私はまったく肝が据わっていない。
騎士たる者とか。
武門の家柄とか。
そういう建前も、不慣れな空間では簡単に崩れてしまう。
弱いなあ。
ベッドから立ちながらため息が漏れた。
お姫様みたいと舞い上がって、有頂天になれるほど、女の子でもないところも、残念な性分よね。
気持ちは重くとも、しっかりと寝た体は軽かった。
ここに着替えはない。仕方なく寝衣のまま、寝室を出るために扉に向かう。
(昨日着ていた衣類は届けてもらっているわよね。着てきた服もあるはず。どこに置いてるんだろう)
開けた扉から垣間見えた光景に手が止まった。
すでに起きているフレディが、シャツとパンツという軽装で立つ。
その眼前にはローテーブルがあり、そこに食べきれないほど朝食が並べられていた。今しがた並べたのだろう。かがんで準備する制服を着た男性が手を止め、立ち上がり、フレディに一礼した。そして、場を離れていく。
私は口元を引き結ぶ。
こういう時って、どうしたらいいんだろう……。




