第40話:「結婚しようか」
私は長椅子にもたれるフレディの横に座った。
寝入っている彼は私が近づいたことも気づかない。
長いまつげに、色白の肌が綺麗。端正な顔立ちというのはこういう顔を言うのね。
父も祖父も凡庸な面をしているし、マシューはもう少しえらが張っていたし、眉も太い。端正というより、精悍という言葉が似あう。
長椅子に足をのせ、背もたれにもたれかかった私は、フレディが起きないことを良いことに、転寝する彼をじっと見ていた。
未だ理性と気持ちが違う方向に引っ張り合う。
理性が足止めしようとするのは、慣れない世界を垣間見た警戒心からだ。いつもと違うと警鐘を鳴らしていても、いずれは慣れる。
気持ちはもう傾いている。
最初の印象がそのまま浮き上がり、私のなかにくっきりと形作り始めた。
(この人が好きだ)
理性を優先して断ってしまえば、彼の方が良かったと思う未来が待っている気がしてならない。
後悔は先に立たない。
結婚は私の人生の一部だ。祖母や母に流されることなく、私の意思で決めることだ。
この人と一緒にいたい。
理性を飛び越えた気持ちは決まっている。
認めてしまえば簡単だ。
気持ちが定まれば、理性の警鐘も止む。
静けさの中で、胸が透く。はっきりと、くっきりと、そして、じわっと暖かくなる。
「フレディ」
名を呼んでみた。いつもより、耳朶を打つ声音が甘い。
フレディは起きない。
「フレディ」
もう一度呼んだ。
眉間に皺をよせた彼が薄く目を開ける。すぐに隣にいる私に気づいた。
「ルーシー……、あがったのか」
「ここで寝ていたら、風邪をひくわよ」
「ああ、ごめん。起こしてくれて、ありがとう」
「疲れていたのね」
「うん。とても……」
「寝室はどこ」
フレディは壁に視線をなげる。そこには扉が二つ並んでいた。
「あの扉の向こうが寝室だ。二部屋あるから、安心して」
「もう、寝た方が良いわ。明日も休みとはいえ、実家に帰るのでしょう。疲れた顔では帰れないのではなくて」
「そうだね。あの家に行くには、元気じゃなきゃな」
フレディが両腕を天井に向けて伸ばす。
私は座面にあげていた片足を降ろした。体は依然、背もたれに預ける。
「殿下と仕事するのは大変なのね。こんなに疲れがたまっているなんて。実家にもなかなか帰れないぐらいなんでしょう」
「実家に帰らないのは、ちょっと別な理由があってね。今は、疲れというか、実は、寝不足なんだよ」
「寝不足?」
そういえば、門の前で待ち合わせをした時に、フレディは空を見上げてあくびを噛みつぶしていた。
「今日と、明日、それに明後日まで、俺とルーシーを全休にするために、できるだけ仕事を早回しで進めたんだ。結果、昨日の夜はほぼ徹夜。殿下には休んでもらったが、三日分の俺の仕事を一晩で片づけるのはちょっと無理したよ」
「じゃあ、寝ていないの」
「いや。四時間ほどは寝ている」
「それで、疲れた顔をしていたのね」
「うん。さっき、会場で、『疲れたから休みたい』と言ったのは嘘だろう。あれは俺のために、そう言ってくれたんだよな」
「どうかしらね」
その通りだが、素直には肯定できなかった。気づかれなくてもいい思いやりを白状するのは、恥ずかしい。
前かがみになったフレディは肘を膝に乗せて頬杖をつき、こちらを向いて、笑む。オーガスタスによく似ている。
「よく俺が疲れているって分かったよね。けっこう、分かりにくくしていたつもりだったんだけど」
「眉間に皺を寄せたじゃない。目の前の人が入れ替わるほんの一瞬のことよ」
「そんな顔してたっけ。気づかなかった。それぐらい疲れてたんだな」
今度は仰け反ったフレディが背もたれに身を預け、腕をかける。私の背に彼の手が触れた。私はその感触に驚いて、丸めていた背を反らす。
フレディの身体がこちらへ傾き、ちょっとだけ近づく。
(近い、近いわよ)
フレディの顔を見ていられなくて、視線を左右に泳がせる。
広い部屋の中で、ここには私と彼しかいない。
誰も見ていないのに、恥ずかしさだけがこみあげてくる。自然と片手のひらを前に向けて、これ以上は近づかないでと意思表示してしまった。
フレディは私の背から肩を抱き、ゆったりと座る。
私が感じているいたたまれなさなんて気にしておらず、私だけが恥ずかしくてたまらないかのようだ。
(これ以上、近づかれたらどうしよう)
不安からか、恥ずかしさからか、もう、色々と混ざり合って押し寄せる感情のせいで、動悸は早くなるばかりだ。
「ルーシー、くつろいで。ここには誰もいない。誰も見ていないから」
フレディは優しく語りかけてくる。
彼を直視できなくて、俯く。おずおずと見上げると、フレディの困り顔があった。肩に触れていた手が動き、私の背を数回撫でる。
その手が私の頭部に触れた。
その手つきは優しくて、まるで子どもになったかと思うような安堵感を覚えた。
(やっぱり、この人がいい)
そう強く思った。
「フレディ」
「なんだい」
「あのね、今日は色々ありがとう。ご家族にも会えて良かったわ。これで、高位の貴族に嫁ぐような、重々しさや格式の高さがあったら、怖くなって、逃げていたように思うの。
私を家族に会わせるために、無理して夜会にも参加したんでしょう。
家族と離れた後、色々な方に話しかけられてもそつなくこなしていたけど、あからさまな挨拶もあったでしょ。娘はどうかって。妃殿下の隣で、あっちも世継ぎの話などよく聞くものだから、どこにでも、ああいうことを言う人がいるのねと思ったわ」
「ごめん、あれはひどかったよね。兄たちの手前もあり無下にできないとはいえ、あれは俺も嫌だった」
「いいのよ。気にしてないから。妃殿下の隣で聞くようなことを、こんなところでも、隣で聞くはめになるとは思わなかったのよ。
妃殿下は、私が隣にいるだけで、人の目に見られている意識を相手に与えるから、言葉が丸くなって良いのよと言うけど……」
「うん。ルーシーがいてくれたから、ああいった話は少なかったと俺も実感している。ルーシーが守ってくれたよね」
「いや、あの……、そういうことを伝えたいわけじゃなくて……」
声がしぼんだ。フレディは穏やかな表情で私の話を聞いていた。
前置きはいい。
そんなことより、もっと大事なことを言わないと。
私は大きく息を吸って、吐いた。
「結婚しようか」
フレディの手が私の後頭部でぴたりと止まった。みるみる彼の目が見開かれ、もう片方の手を拳にして、口元へ寄せた。その間少し、口がわなないていた。
「今、なんて……」
「二度は言わない」
私はふいっと視線を横にそらした。体中が火照ってくる。
「ルーシー。愛している。俺もそう、心から結婚したいと思っている」
フレディが身をよじって、私を強く抱きしめた。腕に籠った力は強く、密着する体からどくどくと早い鼓動が聞こえてきた。