第39話:疲れている彼と奥へ引っ込む
フレディはなにも答えず、にっこりと笑った。
次に話しかけてきた男女にフレディは躊躇なく、断りの挨拶をする。
腕を私の背に回し肩を抱いた。
ひゃっと内心は驚いてしまう、声にも顔にも出ないように気をつけた。
そのまま私を押して翻る。奥の扉へとまっすぐに進み始める。
背後をちらりと見ると、まだフレディと話したりない人々の視線が追ってきていた。
その視線を振り切るもなにも、眼中にないとばかりに、フレディはスタスタと歩く。私は彼に押されて、従業員用の扉に向かう。
一階のフロアには二階より大きなメインの大扉があるものの、その扉を利用せず、ひっそりと奥に隠された従業員用の扉から、会場を後にする。
耳もとで彼が囁く。
「途中で出るから、注目されたくないよね」
出てからすぐにフレディは近くを通りかかった制服姿の給仕に声をかけた。給仕は慌てて引き返し、人を連れてくる。数歩前に出たフレディが、彼らと話す。
距離があり、小声の会話は私には聞こえなかった。
後から来た男性は、同じ制服を着ているものの、態度や年齢から給仕の上司だと分かる。
フレディは彼になにかを伝え、伝言を受けとった男性は、一礼してその場を去る。給仕も一礼し、本来の仕事へと戻った。
残されたフレディと私は並んで歩き始めた。
肩に添えられていた手が離れ、どことなく寂しかった。
フレディの指が私の空いた手の側面を撫でる。手を繋ごうと誘われている気になってしまう。おずおずと、彼の手のひらに指を添えると、フレディの指が私の手のひらを辿る。そのまま手を繋いだ。
少し嬉しい。
見上げたフレディの横顔は晴れやかだった。
片や、私は、婚約しないなどとのたまっていた分だけ、恥ずかしくなる。
前を向いて、黙って歩く。
隣にいる人が気になって、時折、ちらっと見る。
フレディが眉間に皺を寄せ、空いている手で眉間をもんでいた。
(やっぱり、疲れているんだ)
早々に引っ込んでよかった。
疲れているの、なんてここで聞いても、無粋よね。明らかなことだもの。
私の視線に気づいたフレディが微笑する。
「今日は色々ありがとう。貴重な経験をさせてもらったわ」
心配しているとは言わなかった。たぶん、今なら、こういう言葉の方が、彼の癒しになる。
「うん。俺こそ、急に振り回して、ごめん」
「いいのよ。料理店で、お義兄さんに会ったのは偶然なんでしょう」
「そう。本当は、食べた後、街中でもぶらぶらして、教会とか、公園とか近場をめぐりながら話でも出来たらいいとおもっていたんだ」
「地味ね。こんな派手な背景をもっていながら」
「パールのところに行くつもりもあったけど、今日の夕方か明日に行こうと思っていたんだよ。
明後日にルーシーのご家族に挨拶に行くだろう。その時、着ていく衣装を買ってあげる予定で、そのあたりで、モーリスの飲食店とパールの被服店に資本提供しているぐらい話そうかと思っていたんだ。
トリスタンに会ったから、こんなことになってしまって、驚いたろう。ルーシーが警戒するのはもっともだ」
「ごめんなさいね。喜んであげれなくて……」
「いいんだ。そこで、引いてくれるルーシーだから、安心できる」
廊下を進む私たち。宿泊する部屋の前に、人が立っていた。大きな鞄を足元に置いているのはパール女史だ。
さっき、給仕を通して頼んだのは、会場を後にするから、先に着替えたいという希望を彼女に伝えるためだったそうだ。
パール女史の次の仕事は、会がお開きになってからだ。それまで時間がある彼女に私たちを先に何とかしてほしいというのがフレディの意向だ。
(その方が良いわ。フレディは疲れているもの。早く着替えて休んだ方が良い)
パール女史が部屋の扉を開いてくれた。私たちは順に入室する。
すぐさまパール女史は鞄から、男性物の寝衣を引き抜き、フレディに押し付けた。
「先にお風呂で休んできて。その間に彼女に着替えてもらうわ」
きっぱりとした彼女に従い、フレディは「よろしく」と言って、水回りを備えた部屋へと消えた。
それからは怒涛のようだった。
手早くも、丁寧にドレスとその下着を脱がされる。かばんから手触りの良い下着と女性用の寝衣を手渡され、着るように促される。
時間内に仕事をこなそうとするパール女史は、きびきびしていて気持ちがいい。身につけた寝衣は、膝丈まであるクリーム色の、スッキリとしたつくりだった。
パール女史は、ドレスを部屋の片隅にきれいに飾っていく。今日はその場に一晩、飾っておくそうだ。作業を続ける彼女が、ちらっと私を見て、話しかける。
「似合うじゃない。私の見立てが良いのね」
「ありがとうございます。今日は色々、忙しいなかで、急な私の面倒をみてくださって……」
「いいのよ。フレデリックとは長い付き合いになるし、これからも仕事上の付き合いは続くもの。そうなれば、あなたともきっと長い付き合いになるわ。
あのフレデリックには茶葉臭い、地味なちんちくりんぐらいが丁度良いのよ」
笑ってしまいそうになるのをこらえていると、フレディが出てきた。
彼は着ていた衣装をパール女史に渡し、言葉を交わす。
パール女史が私を見て、「お風呂に入ってらっしゃい。その間に、片づけて私も去るわ」と言った。
「わかりました」と答えて、風呂場に入る。
寝衣を脱ぎ、洗い場に立つ。ざっとシャワーを浴びてから、備え付けのメイク落としでさっぱりとした。全身を良い香りのする石鹸で洗い流した。柔らかいタオルで全身を拭き終え、もう一度脱いだ衣類を着た。
部屋へ戻ると、パール女史はいなかった。
かわりに、着ていた衣装が並べて飾られていた。
紫陽花をモチーフにした赤紫を基調としたドレスと、ダークグレーの紳士用衣装が、互いを思いやるように、向かい合わせで立っている。パール女史の気遣いが感じられた。
(あの会場で、私たち、こんな風に寄り添っていたのかしら……)
じんわりと胸が熱くなった。
フレディはどこにいるのだろう。見回すと、彼は長いソファーに座っていた。足を組み、腕を組み、軽くうつむいている。
近づくと、彼の目が閉じていた。小さな寝息も聞こえる。
(やっぱり疲れていたんだ)
フレディが休んでいてくれたことに、私は心からほっとした。




