第33話:彼が彼女を初めて見た時
俺は、ルーシー・グレイスを見知っていた。
知らないのは彼女だけだ。
一度目は、偶然。
ふられる場面を目撃したのだ。
宰相の執務室に書類を届けるにあたって近道を選んだ。そこで、男と女が物陰で別れ話をしていた。
遭遇した俺は足を止めて嘆息し、引き返そうとした時に、二人の話が終わった。男は去ってゆき、女は翻り、早足で俺の方に歩いてきた。
見ていたことがばれてもやっかいである。物陰に隠れた俺のすぐ横を、彼女は気づかずに、通り過ぎていった。
打ちひしがれた横顔と裏腹に、煉瓦色の髪色に陽光が反射し輝く。
その色味が、やけに印象に残った。
書類を届け終えた後、すっかり忘れてしまったが。
常々、殿下は『フレディが貴族だったら』とのたまっていた。
結婚する気もないし、殿下自身も変な娘を紹介できないことは知っていた。戯言半分、本気半分の発言を聞き流すこと、数年。
さすがの殿下も、現状のままではいけないと考え始めた。自身が王になった後の、足場固めとして、俺も組み込みたかったのだろう。
貴族からも無下にできない商家出身であり、特段、派閥にも組していないことが、俺を傍に置いている利点なのだ。
俺は出資する事業もあり、有能な経営者にそれぞれを任せているので、収入にも仕事にも不満はなかった。
殿下の傍で働くことも、未練はない。
いつでも辞めれる下級文官の地位は都合が良かった。
始めは殿下もそのつもりでいた。にもかかわらず、俺が長く働きすぎたせいで、殿下の気持ちが変わってきた。
俺の進路に楔を打ちたい。
その思惑のなかで、俺の嫁候補はいないかとぼやきにも熱がこもるようになった。
殿下の思惑をそ知らぬふりをしていたら、王主催の夜会に駆り出された。
『貴族の娘で良い子がいたら、紹介するぞ』と、にんまりと笑って、こっちの都合も無視しての強制参加だ。
王家主催の社交の場には有力な貴族が多く参加する。有力者の顔を見ておくのも悪くないと、渋々納得した。
その会場で、妃殿下の隣に新しい女性騎士が立っていた。
以前の長身で細身な女性から、小柄な赤毛の少女に代わっていた。
目についたのは、過去に一度、見ていたからだろう。俺は彼女の顔をみながら、『どこかで見たような……』とは思った。
すぐには思い出せなかった。
煉瓦色の髪がその時も、妙に目につき、挨拶する殿下をよそに、彼女の髪が目についた。
殿下の挨拶が終わり、楽団の演奏が始まり、ダンスや談話が始まる。
俺はひっそりと壁に背をつける。学生時代の知り合いと挨拶し、少し話をした。学生時代の知り合いが何人かいたが、一様に、俺がいることを不思議がる視線を向けてくるが、それも知らぬ顔をした。
有力貴族のそうそうたる顔ぶれを眺め、ひいてはその後継ぎにあたる人物を傍観する。
ちょうど反対側で、妃殿下が奥の椅子に腰かけ、その横に護衛の女性騎士が立っていた。二人が会話している様子を眺めている目の前を一組の貴族のカップルが通り過ぎた。
亜麻色の柔らかめな髪をなびかせる男の横顔がよぎる。
通りすぎだ男が視界から外れ、再び妃殿下と煉瓦色の髪をした護衛の騎士の姿を見た瞬間に、ふいに思い出した。
数か月前に見た、茶番。ふった男と、ふられた女が重なってあらわれたのだ。
変な偶然に口角があがった。
俺はひっそりと、男と女を見比べた。
ふられたショックでふらふらと消えていった娘が、妃殿下の護衛をしている。
ふっておいて、逃げるように去った男は伴侶を連れて、歩いている。
皮肉なことだ。男の本命は連れ歩いている少女だったのだろうか。まだ幼さが残り、十代後半と言ったところだろう。
男は下位の貴族のようで、同家格の者たちと談笑をしていた。隣にいる貴族の娘とは仲睦まじい様子を見せていた。
別れ話の果てに、女は仕事にうちこみ、男は結婚したという現状を理解した。
(因果なものだな)
こんなところで再びお目にかかるとは思わなかったものの、夜会に参加したことで、煉瓦色の髪をした妃殿下の護衛騎士として、俺はルーシーの顔を覚えたのだ。
だからと言って、その後も、ルーシーとの接点はなかった。
俺は殿下の執務室に籠っていることが多い。表向きは、他の文官が執務室に届けにきた書類を受け取り、整理する係だ。
実際は、受け取った書類を精査し、実際の処理をする。
内容を要約して殿下に伝え、判断を仰ぐ。
そういう一連の下準備が仕事であり、殿下が確認して後、準備した書類を各部署に届けることもある。殿下が了承すれば、印を押すのは俺でも構わないからだ。
このように、殿下の執務室に籠っている俺は誰かと会うことは滅多にない。
昼食も軽食を持参し、済ます。あまり食べずに、紅茶やコーヒーに茶うけをつまんで終えることもあった。
稀に、時間があり、それなりの量を食べたいときに、裏方の侍女や文官などの内部者用の食堂に行く。
なるべく、人の少ない、一時過ぎの時間帯に行くようにしていた。
その食堂で、ルーシーを見かけた。三度目だった。髪を結いあげていたし、騎士ではなく、侍女姿だったが、髪色から同一人物だと分かった。
彼女は、隅に座って、スープにパンという質素な食事をとっていた。
すぐに食べ終え、そそくさと食堂を出ようとした時、同じ侍女姿の女が彼女に声をかけた。
「ルーシー。もう行くの、早いわね。もう少し、ゆっくり休めばいいのに」
ルーシーと呼ばれ、俺はその時、彼女の名前を初めて知った。
「妃殿下が待っているの、急がないと、三時の軽食に間に合わないわ」
「昼時終わって、すぐにまた食べるなんてね。王太子妃付きだと、ほとんど食事の準備とお茶くみでおわるのよね」
「仕方ないわ。一度の食事量が少ないんですもの」
「それに付き合って、当たり前の顔をしているあなたがよくやるなって思うのよ」
褒めているのか、嫌味なのか、分かりにくい発言にも、ルーシーには気にする様子はない。
「仕事が好きなのよ。
お茶を淹れるのも慣れているしね」
そう笑顔で答えると、彼女は翻し、颯爽と食堂を出ていった。
(仕事が好きねえ)
俺は片口で紅茶を飲みながら、人気の少なくなった食堂で、彼女の発言を反芻していた。
仕事が終わり、執務室の部屋に鍵をかけ、殿下とともに、夜遅く、妃殿下の元へ訪ねることがある。
その時に、昔のように、お茶を飲みましょうと妃殿下は誘ってくる。
今でこそ、立場上、彼女は侍女達にしてもらう暮らしをしているが、元はなんでも一人でできる。妃殿下こと、ジュリエットは辺境伯の娘ではあるが、妾の子。蔑まれていた娼婦の娘だ。




