第9話:約束の一週間前、王太子妃の提案
寮に入ると思った以上に職場への行き来がしやすくなった。
(近いってこんなに便利なのね)
歩いて職場に通えるうえに、夜遅くなっても気を使うこともない。
仕事内容は事前に寮母に知らされており、遅くなる可能性が高い者は事前に申請しておけば融通がきいた。遅くなっても、夜食も風呂も用意されているのはありがたい。
朝から晩まで働き詰めだけど、とても充実していた。
妃殿下は、公務の一環で視察へ出向く。
都内の孤児院や医療機関、宗教施設から学校施設まで、行き先は様々だ。
夜会同様、各所の視察も、よく同行した。一見すると護衛に見えない秘書官めいた女性文官の制服を着て、妃殿下の斜め後ろに立つのだ。
同僚の騎士たちは、物々しさを周囲に与えないように距離を置いて立つのが常であり、一番近くにいる私の役割は重い。
しかしながら、いまだかつて妃殿下が襲われたこともなく、私が同行した時も危険なことはなにもなかった。
今日も私は、視察のため医療機関へ向かう妃殿下とともに馬車に乗る。
進行方向に背を向け、妃殿下と向き合い、座った。
外出用の簡素な衣装でも、妃殿下の美しさは曇らない。薄暗い室内なのに、彼女の周囲だけどこか光を帯びている。
妃殿下が私に笑いかけた。
「ねえ、ルーシー。馬車のなかでこうしてあなたと向き合うのは何度目になるかしら」
「六度目になります」
「孤児院、博物館のセレモニー、学校施設も訪れたわね。ねえ、ルーシー。私、ずっと気になっていたことがあるの」
妃殿下の瞳が、好奇心に濡れてきらりと光る。
私は、なにを言い出すのかと身構えた。
妃殿下は口元に両掌を添えて、ちょっとだけ前かがみになる。私もつられて背を丸めた。
「ルーシーには、婚約者はいらっしゃらないの」
(ここで、なんでそれをここで聞くの!)
私は仰天する。
「じゃあ、お付き合いしている方は?」
(こんな職務中にプライベートなことを!!)
こればかりは、例え妃殿下であっても答える義務はないと私は口をつぐんだ。
「あら?」と、とぼけた妃殿下がほほ笑む。
「ルーシーは貴族のご令嬢でしょ。しかも、一人娘と聞いているわ。グレイス領は茶葉の産地として有名ですし、お婆様の事業は領地を潤しているでしょう。そんな領地を維持するため、ルーシーの結婚は重要視していると思っていたのだけど、違うかしら」
「……その通りです」
「もしルーシーに婚約者がいて、近々に結婚するとしたら、前任者のように産休で私の前から去ってしまうかもしれないでしょう。それはとても寂しいのよ。
でも、こんなプライベートな話、王宮でするのははばかられるもの。こういった二人きりの車内なら、女の子同士の内緒話ができると思ったのよ」
「ジュリエット様……」
眉を歪める妃殿下に、私はちょっとだけ切なくなる。
「いきなり、不躾な質問、ごめんなさいね」
「いいえ、いきなりで驚いただけです。答えられない質問ではございません」
妃殿下に悪意はないだろう。ただ、ちょっとだけ私の現状が気になっただけだ。
私は唇をちょっと噛んでから、口を開いた。
「妃殿下、今まで仕事を中心にしてきた私に婚約者はおりません」
「あら、いらっしゃらないの。意外だわ」
「祖母がすすめる候補はいるのですが、現時点では私に婚約者はおりません」
「お付き合いしている方は?」
「おりません」
「片思いとか……、してはいないの?」
「今は仕事一筋です」
「まあ……」
妃殿下が口元に手のひらを添える。
「しかし、妃殿下のお察しの通り、祖母や母は結婚を重要視しており、二か月後には祖母が選んだ何人かの独身男性から婚約者を選ぶ約束となっています」
ここまで話す必要はないのに、私はするすると現状を話し切ってしまった。
誰にも言えないことだけに、誰かに言いたかったのかもしれない。
もう逃れることはできないのだ。
祖母や母が示す道もまた現実だ。
私は、領地を背負っていかなくてはいけない。
「婚約者が決まったら、ルーシーも私の元から去る日がくるのよね」
「どうでしょうか。相手の考え方にもよると思います」
妃殿下が車窓から外を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「もし……、もし、ルーシーと私が同時期に妊娠できたら、あなたに乳母になってもらうこともできるのに……」
私は耳を疑った。
(結婚どころか、婚約者さえ決まっていない私に乳母ですって!!)
妃殿下は片手を頬に添えて、重いため息を吐く。
(この方、本当になにを考えているのか分からないわ)
悪意があるのか、ないのか。妃殿下はつかみどころがない。
また一月が過ぎた。
約束した期限も、残り一か月。
この五か月で、仕事に忙殺されていたけど、気持ちはスッキリした。
妃殿下の日常に寄り添うことも、その無邪気さと、時々突拍子もない発言をされることも、慣れてしまった。
一つだけ、理解したことがある。
妃殿下は、宰相や有力貴族から、距離を置くように努めている。
それは、彼女が滅多に王都に顔を出さない辺境伯から嫁いできた経緯によるものかもしれない。
夜会のたび、懐妊が遅いことに触れる輩がいるのも、世継ぎを産めないなら廃妃を希望する一群がいるためだ。
廃妃ではなくとも、側妃に我が娘をと希望する貴族が、王太子殿下に耳打ちすることもある。
王太子殿下の愛だけでは、王太子妃の地位は保証されない。
妃殿下もそれは重々分かっている様子だった。
まだまだ若い二人であり、一般市民や普通の貴族なら、この年で子どもがいなくてもなにも思わない。だけど、殿下と妃殿下という関係上はそうはいかないのだろう。
そんな周囲の圧力にも屈せず、仲の良い二人はとても輝いて見えた。
輝いて、満たされているようで、どこかに陰りを感じさせる妃殿下に、私はこれからもついていきたいと思った。願わくば、仕事をすることを許してもらえる婚約者がいい。
期限まで一週間となる。
私は一人でいられる最後の一週間を楽しもうと思っていた。
今日は妃殿下とともに、部屋の片隅で、柔軟運動をしている。
運動している姿を人前で晒すことができない妃殿下の立場上、自室でこっそり体を整えるしかなかいのだ。近衛騎士である私は適任であり、入浴前によく体を動かした。
固まりがちな、背中の筋肉を動かしたり、股関節周りも動かす。座って体を柔らかくするように押したり引いたりもする。地味だが、これが身体を整えるには良い。
体を前に倒す妃殿下を、その背に手を添えて軽く押していると、彼女が話しかけてきた。
「ねえ、ルーシー」
「はい」
「ねえ、ルーシー。私、あなたに結婚相手を紹介したいのよ」
突然の提案に私は凍り付いた。