紙魚
この辺りには紙魚と呼ばれる怪物がいる。
真っ黒な、空中を泳ぐ魚の怪物だ。それらは人の綴った文字を喰う。手紙も、本も、紙魚に食われれば只の白紙になってしまう。
街は城壁で囲まれ、門番が昼夜問わず紙魚除けの鐘を鳴らしている。図書館や資料庫であれば、紙魚の嫌う香を使うことで、ある程度は守ることが出来る。それでも時折、真っ白になった紙が見つかる。
それすらもままならないのが、運送業だ。
街から街へ運ぶ書類、遠くの誰かへ渡す手紙、果ては小包の宛名ですら、無策で運べば格好の餌食。
だから配達人がいる。
配達人たちは武装を許可されて、貴重なバイクに跨って、紙魚以外にも危険の多い地帯を駆け抜ける。
少年少女憧れの職業なのだ。
腕利きの配達人は顧客を持つ。
例えばカルヴェルは、さる大貴族の配送を全て任されている。サラミルエも幾つかの商店からよく指名が入る。
荷物を確実に届ける、という信頼に客は大金を払うし、配達人たちはそれに応える。
「私だって、いつかは…………」
夕暮れ時、運搬局の玄関を掃除しながら、アトリは溜息をついた。サラミルエにはああ言ったものの、今以上に上手く運ぶ方法なんて思いつかない。
紙魚を振り切るには、速度を上げるか武力行使で排除するしかない。だが、見習いは武装を許可されていない以上、速さで勝負するしかないではないか。
そもそも、見習い取り消し試験で紙魚以外の原因での劣化やバイクの損傷が不合格理由になるなんて初めて聞いた。
「うう〜ん…………」
箒を支えに項垂れていると、服の隅っこをちょんちょんと引っ張られた。
見れば、近所の子どもが数人集まって、アトリを見上げている。
「アトリちゃん、今日配達人の試験だったんでしょ? 合格したらお仕事していいって」
「え? あー、うん、でも、ええと」
「運んで欲しいお手紙があるの!」
まずい。
昨日まで、子どもたちには散々『合格間違いなしの天才美少女配達人見習いアトリちゃん』の話をしていたのだ。もしここで本当のことを話そうものなら、手加減のない子どものことだ、嘘つきのレッテルを貼られてしまう!
「お、お手紙?」
ぐるぐるする思考と視界の中で何とか聞き返す。
「そうなの! こないだね、引っ越しちゃったマルフくんにね、みんなでお手紙書いたの。アトリちゃんが配達人になったら、初めてのお仕事で届けてもらおうと思って」
優しさが、今だけは心臓に痛い。
「…………ど、どこの街? 引っ越したのは……」
「コーネストンだよ! お隣の街!」
お隣とは言うが、渓谷を挟んでかなりの距離だ。バイクは必要だしバレない時間で帰って来られるか怪しいし……けれど、幻滅されるのが今は一番何より恐ろしい。
「わ、かった…………あ、安心して任せなさい!」
バクバクする胸を誤魔化すように、力いっぱい拳で叩いた。そして噎せた。