ACT.2 追想の一日 01 集合
《アトミック・ガールズ》の浜松大会から、二週間後――三月の最初の日曜日である。
その日、瓜子とユーリが暮らすマンションの一室には、朝から時ならぬ客人たちが群れ集うことになった。
「いらっしゃーい! ひさかたぶりだね、牧瀬理央ちゃん! さあさあ、ずずいと奥のほうへ!」
「うるせーなー。朝っぱらからでっけー声だすんじゃねーよ。こっちのタコスケが怯えちまってんだろうがよ」
そんな会話から推察できる通り、まず最初にやってきたのはサキと牧瀬理央であった。大晦日以来の、およそ二ヶ月ぶりの来訪である。
浜松大会の二日前に熱を出してしまったという理央であるが、現在はすっかり復調している。が、サキと一緒に車椅子の車輪をふき清めていると、理央はなんだかおずおずとした感じで瓜子の顔を見やってきた。
「どうしました? 自分の顔に、なにかついてるっすか?」
理央がぷるぷると首を振ると、サキは身を起こしながら「はん」と鼻を鳴らした。
「こいつの看病をするために、アタシがおめーのセコンドをドタキャンすることになったろ? それでおめーがムカついてるんじゃねーかって、こいつはずーっとビクついてたな」
理央は焦った面持ちで、サキのスカジャンの裾をくいくいと引っ張った。
その幼い子どもみたいな愛くるしい仕草に、瓜子は思わず口をほころばせてしまう。
「熱が出ちゃったのは、誰のせいでもないっすよ。サキさんにはそれまでの一ヶ月でみっちり鍛えてもらってたんで、なんの問題もありませんでした。理央さんも、どうか気にしないでください」
それでも理央は頼りなげに眉を下げたまま、「ごえんなない」と頭を下げてきた。
車輪をふくために屈んでいた瓜子は、理央と同じ目線で笑いかけてみせる。
「謝る必要はありませんってば。……一月にご挨拶したときよりも、言葉が聞き取りやすいっす。リハビリ、頑張ってるんすね」
理央は右半身に麻痺が残されたままであり、口も不自由になってしまったのだ。
理央は白くなめらかな頬をほんのり赤く染めながら、嬉しそうに微笑んでくれた。
理央は身体を冷やさないようにと、春服の上から温かそうなニットのポンチョを羽織っている。それに、手術のために短くしてしまった髪を隠すために、室内でもニット帽をかぶっているので、一月に見たときとそれほど印象は変わらなかった。
(妖精さんが、冬服から春服に衣替えしたってぐらいの感じだよな)
そんな風に考えながら、瓜子は理央のもとから身を起こした。
「さてさて、それではリビングのほうに――」
と、ユーリが宣言すると同時に、再び来客を告げるチャイムが鳴った。これは、オートロックで閉ざされた階下の玄関口から鳴らされるチャイムの音色だ。
ユーリはたちまち、「うにゃあ」とめげた顔になってしまう。
「不測の事態が起きることもなく、ムラサキちゃんも到着してしまったようだねぃ。……はいはい、ユーリです。オートロックを解除するので、505号室にお越しくださいませ」
玄関脇のモニターに映し出されているのは、まぎれもなく愛音のほっそりとした姿であった。彼女は持ち前の熱意と執念で、本日の来訪をユーリに認めさせたのである。
モニターの中の愛音がせかせかとした足取りでガラスの扉をくぐる姿を見届けてから、ユーリは「ふにゅう」と肩を落とした。
「ムラサキちゃんがおいでになると、あんまりのびのびできないんだよにゃあ。……サキたん、ほんとーにムラサキちゃんと牧瀬理央ちゃんをご対面させちゃってもよかったにょ?」
「往生際の悪い牛だな。こいつはアホみてーな人見知りだけど、プレスマンの人間ならかまわねーってよ」
瓜子やユーリと交流を結んだ上で、理央がそのように考えてくれたのなら、嬉しい限りである。あとは、愛音がこちらの信頼を裏切らないことを祈るばかりであった。
理央の素性に関しては、あるていどオブラートに包んだ状態で愛音に伝えている。サキの妹分で、とある事情から頭を負傷して、現在はいささかならず不自由な身である、と――おおよそそのような感じであるが、愛音もユーリの存在が関わらなければ、そうそう失礼な振る舞いには及ばないはずだった。
サキと理央にはフローリングに上がってもらい、瓜子は玄関のドアを押し開ける。
すると、エレベーターから姿を現した愛音が、ぱたぱたとこちらに駆け寄ってきた。
「時間ぎりぎりになってしまって、申し訳ありません。邑崎愛音、参上したのです」
「いらっしゃい。サキさんと理央さんも、ちょうど到着したところっすよ」
三月に突入し、愛音も春らしい装いになっていた。栗色の髪は可愛らしい三つ編みにして、エスニックな刺繍の入った春物のアウターを羽織り、その下はワンピースとレギンスだ。肩には大きなトートバッグを下げ、足もとは小洒落たスエードのブーツである。
「それでは、失礼いたしますです」
憧れのユーリの自宅ということで、愛音はやたらと張り詰めた面持ちをしている。
そうして玄関口に踏み込んで、フローリングに並んだ三名と相対すると――愛音は、驚嘆に目を見開いた。
「え……そ、そちらが牧瀬理央さんという御方なのですか?」
「そうっすよ。理央さん、こちらが後輩の邑崎愛音さんです」
理央のほうもいくぶん緊張した面持ちで、ぺこりと頭を下げた。
なんだか愛音は困惑の表情であったので、瓜子は「どうしたんすか?」と問うてみる。
「あ、いえ……牧瀬理央さんはサキセンパイの妹的存在とうかがっておりましたので、もうちょっと、その……サキセンパイのようにワイルドな御方かと想像してしまっていたのです」
「ああ、なるほど。確かにワイルドではないかもしれないっすね」
「ワイルドどころか、絶世の美少女さんなのです! お召し物も、とてもセンスがよろしいのです! このように愛らしい御方と親交を結びながら、どうしてサキセンパイは万年スカジャンの壊滅的センスなのでしょう?」
「朝っぱらから、失礼なジャリだな。おめーの顔面もワイルドにしてやろうか?」
だんだん定番化してきた両者の舌戦にはさまれながら、美少女よばわりされた理央はまた顔を赤くしてしまっている。顔立ちの秀麗さもさることながら、理央の場合は内面からにじみでる儚さが大きな特性と魅力になっているのだろう。内面のけたたましさが外見を裏切っている愛音とは、実に好対照である。
「まあまあ。玄関先で立ち話もなんだから、ムラサキちゃんもどうぞおあがりくださいませ」
ユーリがひかえめに声をかけると、愛音は我に返った様子で慌ただしくトートバッグをまさぐった。
「ユ、ユーリ様! 本日はお招きにあずかりまして、恐悦至極なのです! こちら、手土産を持参いたしましたので、どうぞお受け取りくださいませ!」
「えー? そんなの、よかったのにぃ。気をつかわせちゃって、ごめんねぇ?」
「とんでもありませんです! 無理を言って押しかけてしまったのですからっ!」
ユーリは曖昧な笑みをたたえつつ、愛音の手から菓子折りを受け取った。
愛音がプレスマンに入門してから二ヶ月近くが経過して、稽古場でもずいぶん交流を深めてきたのだが、やっぱり愛音が憧憬の気持ちを炸裂させると、ユーリは苦手意識を触発されてしまうようだった。
「それじゃあお茶の準備をしますから、ユーリさんはご案内をお願いします」
「はいはぁい。みなさま、こちらにどうぞぉ」
三名の客人たちはリビングに通されて、瓜子はひとりキッチンに向かう。
そうして人数分のグラスをのせたお盆を手に、瓜子がリビングに入っていくと、愛音はびっくりまなこで室内の様相を見回していた。
「これはまた……想像を絶する部屋模様であったのです」
このリビングは、トレーニングルームに仕立てられているのだ。足もとには青いマットが敷き詰められて、部屋の隅には数々のトレーニング機器が追いやられている。それ以外の調度は、もともと設置してある旧型のテレビと、こたつから毛布を排除した座卓および座椅子のみであった。
「……ユーリ様と猪狩センパイは、この部屋で夜な夜なくんずほぐれつのトレーニングに明け暮れているということですね?」
愛音がぎろりと、瓜子をにらみつけてくる。
座卓にお盆を下ろしながら、瓜子は「そうっすね」と答えておいた。
「まあ、夜はたいてい道場なんで、どっちかっていうと日中のほうが多いかもしれません。それに最近は、日中の仕事も詰まってきちゃいましたしね」
「うんうん。今日もお昼からお仕事だしねぇ。タイムリミットになる前に、さっそく始めちゃおっかぁ」
ユーリはテレビ台のほうに近づくと、透明のケースに収納されたDVDソフトを取り上げた。
「じゃじゃーん! こちらが本日のメインディッシュでございます!」
それは先日、千駄ヶ谷から届けられたユーリのベスト・バウトDVDのパイロット版であった。
発売予定日は二週間後で、パッケージはまだ完成されていない。DVDソフトにも、手書きでタイトルが記されているのみであった。
「素晴らしいです! 中身を拝見させていただく前から、愛音は胸が高鳴ってしまうのです!」
愛音はひとり、瞳を輝かせている。客人たちはこれを鑑賞するために、わざわざ朝からこの部屋を訪れたのだ。まあ、千駄ヶ谷から早めに内容を確認しておくようにと言い渡され、ユーリが気まぐれでサキを誘ったところに、聞き耳を立てていた愛音が同席を望んだというのが実情であった。
「収録時間は、五十八分だって。いったいどんな出来栄えなんだろうねぃ」
さして昂揚した様子も見せずに、ユーリはDVDソフトをデッキにセットした。沙羅選手のベスト・バウトDVDを研究のために視聴した際などは、ずいぶん羨ましそうな様子を見せていたのに、いざ自分の番が回ってくると、恐縮の気持ちのほうがまさってしまったようであるのだ。
しかしまた、これはきわめて栄誉な話であるはずだった。
さきほどのタイトルにも、「《アトミック・ガールズ》ベスト・バウト vol.4」と記されていた。《アトミック・ガールズ》の十年強に及ぶ歴史において、このようなものを製作された選手はユーリで四人目であったのだ。
「他には、誰のDVDが発売されてたんでしたっけ? 自分は来栖選手しか記憶にないんすよね」
旧型のデッキがソフトを読み込んでいる間に、瓜子はサキに聞いてみた。座椅子に座った理央のかたわらで、不自由な左足をマットに投げ出したサキは、「んー」と面倒くさげに声をあげる。
「おめーが先月に叩き潰したコスプレ女と、あとはバンタム級の蛇ババアだろ」
「ああ、鞠山選手と雅選手っすか。そいつは納得のラインナップっすね」
雅選手というのも来栖選手や鞠山選手とともに《アトミック・ガールズ》を創世期から支えてきた、ベテランの強豪選手であった。ルックスも試合内容も華やかで、実力と人気のつり合いも取れている。バンタム級においては王座の戴冠と転落を繰り返し、去年に三度目の戴冠を果たして、四月の大阪大会ではメインイベントでタイトルマッチを行う予定になっていた。
いっぽう鞠山選手はいぶし銀の中堅選手であるものの、やはり話題性の高いコスプレ衣装と寝技に特化したファイトスタイルで指折りの人気を誇っている。とにかく彼女は映像ばえするので、他のトップファイターをおしのけて抜擢されたのだろう。何せ十年選手であるのだから、試合映像の素材にも不足はないはずだ。
「無差別級の来栖選手、ライト級の鞠山選手、バンタム級の雅選手に続き、満を持してミドル級のユーリ様がラインナップに加わるわけなのですね! 確かに、納得の人選なのです!」
「そうっすね。自分としては、サキさんがそこに入ってないのが不満なところっすけど」
サキは四年前にデビューをして、二年で王座にのぼり詰めたのだ。女子選手としては破格のKO率を誇っているわけであるし、ベスト・バウトDVDにはもっとも相応しい選手のひとりであるように思えてならなかった。
「アタシがデビューしてすぐに、アトミックは選手が大量離脱してガタガタになっちまったからな。こんな余興につかうカネなんざ、どこにも残ってなかったんだろ」
「選手が大量離脱? アトミックでそのような大事件が勃発していたのですか? 恥ずかしながら、愛音は初耳であるのです」
「牛に目のくらんだおめーには、興味の外か。アトミックは沈没寸前だったから、そこの牛を客寄せパンダに祀りあげたんだろ」
ぶっきらぼうな声でサキがそう答えたとき、ようやく画面に光が灯された。
《アトミック・ガールズ》の公式ロゴに続いて、ユーリのさまざまな勇姿が目まぐるしくフラッシュされていく。
そして――いきなりユーリの悩ましい水着姿が大映しにされた。
ユーリは不満げに、「うにゃあ」と声をこぼす。
「やっぱりこういう演出かぁ。なるべくアイドルちゃんの副業はプッシュしないようにってお願いしたのににゃあ」
そんなユーリのぼやきも余所に、画面上ではユーリのグラビア撮影の風景が流され始めた。どこかの南国を思わせる樹林のセットを背景に、ユーリの白い肢体と白いビキニが鮮烈に浮かびあがっている。それを撮影しているカメラマンごと、横からビデオ撮影しているアングルだ。
数秒後、そこに重々しい男性のナレーションがかぶせられた。
『ユーリ・ピーチ=ストーム。本名、桃園由宇莉。この時代、彼女は無名のグラビアアイドルにすぎなかった。今からおよそ三年前の、十七歳のことである』
画面に映る水着姿のユーリは、栗色の髪を長くのばしており、体形もほんの少しだけほっそりとしていた。瓜子が以前にドキュメント番組で拝見した、三年前のユーリであるのだ。
『しかし彼女は、とある番組でひとりの女子格闘家の試合を目にして――そこで、人生の変転を迎えたのだった』
画面が、ぱっと切り替えられた。
パラス=アテナが撮影用に準備した、都内某所のカフェである。アンティークなデザインの椅子にゆったりと腰かけたユーリはカジュアルな春物の装いで、にこにこと無邪気に微笑んでいる。髪も、ピンクのショートヘアだ。これは一月の下旬に撮影された映像で、もちろん瓜子も現場に立ちあっていた。
『はい。テレビで、ベル様の……あ、ベリーニャ・ジルベルト選手ですね。ベリーニャ選手のドキュメント番組をたまたま観て、それでユーリはファイターを志すことになったんですぅ』
普段のアイドル業の撮影ほど愛嬌をふりまく必要はないと言われていたので、ユーリはのほほんとした面持ちであった。テーブルに置かれた右拳には、まだテーピングが巻かれている。
『その番組を観ていなかったら、ユーリはどうなってたんでしょうねぇ。そんなのは、全然まったく想像もつきませんけどぉ……ただ、絶対に今より幸せな人生ではなかったはずですぅ』
「……何をガラにもなく人間ぶってやがるんだよ。つまんねーから、飛ばしちまおうぜー」
「な、何をおっしゃるのですか! 愛音は感動に打ち震えているのですから、静粛に願いますです!」
サキと愛音がそのように言い合っている間も、インタビュー映像が粛々と流された。このインタビューだけで三十分以上は撮影していたはずなので、きっと適度に編集されているのだろう。
途中でまた過去のグラビア撮影の映像に切り替えられたが、そこにもユーリのインタビューに答える声がかぶせられる。撮影現場を拝見した瓜子にとっては、そちらの映像のほうが目新しいぐらいであった。
そして、そんな映像が数分ばかりも続けられたのち――おもむろに、試合の映像へと切り替えられた。
およそ二年と三ヶ月前の、ユーリの記念すべきデビュー戦の模様である。