エピローグ③
「にしても、アトミック勢はもう調整期間に入ってるってのに、みんな余裕かましてるよねー! そんなんで、試合はだいじょぶなのー?」
ロビーを出て、駐車場へと向かうさなか、灰原選手がそんな声を張り上げた。この週末には《アトミック・ガールズ》の十一月大会が控えており、ユーリは《パルテノン》の現役王者とのタイトルマッチ、愛音は王座決定トーナメントの一回戦なのである。
「この後は夕方までみっちり稽古なのですから、心配はご無用なのです。サキセンパイの遺したベルトは、必ずや愛音がゲットするのです」
「ええ。邑崎さんだったら、きっと優勝できますよ。わたしもまたイチから実績を積んで、邑崎さんの王座に挑戦させていただきますね」
肉食ウサギの眼光をした愛音と子犬のように可愛らしい小柴選手が、笑顔を交わす。横嶋選手に敗北を喫してトーナメントのエントリーを逃がしてしまった小柴選手も、めげずに過酷な稽古に打ち込んでいた。
「うり坊に続いてサキまで王座返上しちゃったから、プレスマンのチャンピオンはピンク頭ひとりになっちゃったもんねー! ま、三人もチャンピオンだった去年までのほうが、どうかしてるんだろうけどさ!」
「ライオットだって、多賀崎さんが《フィスト》の王者で灰原さんは《ビギニング》のトップファイターですもんね。十分にすごいですよ」
「まあねー! あーあ、ついこの前までは、マコっちゃんが二冠王だったのになー!」
「人の古傷をえぐるんじゃないよ。ま、来年にはアトミックのベルトも取り戻してみせるさ」
「でもその前に、まずは大晦日だよねー! マコっちゃんなんて王者対決なんだから、ふんばらないと!」
大晦日の特別イベントには、多賀崎選手も出場するのだ。そちらで対戦するのは、今年の夏頃に《ビギニング》の新たなフライ級王者に輝いた、ヌール選手であった。
「うり坊は、《アクセル・ファイト》の下位ランカーだっけ? ま、復帰戦にはちょうどいいかもね!」
「下位ランカーって言っても、第九位ですからね。ずいぶん遠慮のないマッチメイクで、燃えちゃいますよ」
「おー、いいねー! ま、一番燃えあがってるのは、ピンク頭だろーけどさ!」
灰原選手の元気な声に、ユーリは「てへへ」と頭をかく。
大晦日の特別イベントとは、再びの三団体合同イベントであり――ユーリはその大舞台で、再びベリーニャ選手と対戦するのである。
しかもこれは、《アクセル・ファイト》の要請を受けた形となる。
ユーリにタップを奪われたということで、ベリーニャ選手の最強伝説に陰りが生じてしまったのだ。それを払拭するために、《アクセル・ファイト》はとびっきりの荒療治を考案したわけであった。
「アタシもまさか、桃園がもういっぺんベリーニャとやりあうことになるとは思わなかったよ。これはきっと、オルガの影響もあるんじゃないのかな」
と、小笠原選手も笑顔で会話に加わった。
去年の大晦日にイーハン選手に圧勝したオルガ選手は《アクセル・ファイト》と正式契約に至り、三月と五月にも快勝をあげたことで、早々にベリーニャ選手の王座に挑戦する資格を得たのだ。
それは八月の話であり、瓜子も試合の配信を視聴させていただいた。
その結果は、ベリーニャ選手の一本勝ちであったが――オルガ選手の強烈なボディブローによって、ベリーニャ選手は再び肋骨をへし折られることになったのだ。それで、まだまだ若手という扱いであるオルガ選手に苦戦を強いられたということで、いっそうベリーニャ選手の実力を疑う風潮が蔓延したようであった。
「あれはオルガがそれだけ強かったってだけの話なのに、ベリーニャは気の毒なことだよね」
「うんうん! でもやっぱ、大晦日の一件を引きずってるんでしょ! ネットなんかでは、まーだピンク頭のほうが強いって声が消えないもんねー!」
「うにゃあ。キョーシュクのイタリなのですぅ」
ユーリは心から申し訳なさそうにしていたが、それでもやっぱりベリーニャ選手と再戦できる喜びのほうがまさっている様子であった。
瓜子もまた、そちらの試合には自分の試合と同じぐらい胸が熱くなってしまう。ベリーニャ選手を一本負け寸前にまで追い込んだユーリが、今度はどのような結果を見せるのか――それで、胸が躍らないわけはなかった。
「……次こそは、ユーリさんが勝てるっすよ」
瓜子がそんな言葉を囁きかけると、ユーリは澄みわたった目をにこりと細めた。
「ユーリが勝てたら、ようやく一勝二敗だねぇ。おそれ多きことですけれども、ユーリもフンコツサイシンのココロで挑む所存なのですぅ」
「ええ。目標は、ベリーニャ選手に勝ち越すことっすね」
「うにゃあ。それはエツラクに満ちみちた無間地獄でありますにゃあ」
そのように語るユーリの瞳は、とても幸せそうにきらめいている。
そしてユーリはふくよかな唇をすぼめて、瓜子に囁きかけてきた。
「きっとメイちゃまも、同じ思いで頑張ってるよ。うり坊ちゃんに四回も勝たないといけないなんて、ユーリ以上の試練だよねぇ」
「あはは。もう立場は完全に逆転しちゃいましたけどね」
メイは――つい先月、ついに《アクセル・ファイト》の王者に輝いたのだ。
並み居るランカーを打ち倒し、タイトルマッチでも豪快なKO勝利を奪取した。瓜子が休養している間に、メイは世界最強の称号を手中にしたのだった。
しかしメイは、瓜子に三回も敗北している。
それで世間では、瓜子こそがストロー級の最強選手なのではないかという声が飛び交っているようであるが――瓜子は気負うことなく、また一歩ずつ実績を積んでいこうという所存であった。
(強さなんて、試合で証明していくしかないんだからな)
そんな思いを胸に、瓜子は左の拳をぎゅっと握り込んだ。
大晦日から数えて十ヶ月と十一日、瓜子はひたすら治療とリハビリに打ち込んできた。また、左腕に負担のかからない形で、稽古もしっかり積んでいる。過酷な試合をまったく行っていない分、コンディションはむしろ向上しているように感じられた。
だが、全快と診断された左腕が試合でどこまでの力を出せるかは、まったく未知数であったし――あの、集中力の限界突破ともいうべき不可思議な現象も、今となっては遠い記憶になっていた。
あの現象が、再び瓜子のもとを訪れるのか――そもそもあれは、本当に現実の出来事であったのか――それすら覚束なくなっている。もしかして、瓜子は試合中に分泌される脳内麻薬か何かで、夢を見ていただけなのかもしれなかった。
しかし何にせよ、瓜子は現役選手として復帰すると決めたのだ。
長期欠場するにあたって王座は返上することになったが、《ビギニング》との契約は継続されている。瓜子は年間契約の半ばで長期欠場することになったので、次の試合から残りの契約が履行されるのだ。そしてその後に再契約がかなうかどうかは、今後の試合内容にかかっていた。
しかし、もしも《ビギニング》との再契約がかなわなくとも――そして、あの不可思議な現象が二度とやってこなくとも――そして、たとえ試合で負け続けたとしても、瓜子は肉体の限界まで現役選手として活動していこうという覚悟であった。
来月で、瓜子は二十四歳となる。
寿命が短いとされる女子選手としても、まだまだ全盛期といっていい年齢であろう。たった一回の長期欠場で、瓜子が選手活動をあきらめるいわれはなかった。
(……あたしのお手本は、ユーリさんだしな)
隣を歩くユーリの姿をこっそり見やりながら、瓜子はそのように考えた。
ユーリは相変わらず、世間を大いに賑わせている。ベリーニャ選手からタップを奪いつつ無念の判定負けを喫し、なおかつ試合直後に心臓が止まるという病状も改善されないため、世界中から注目を集めているのだ。また、そんなユーリが所属する『トライ・アングル』も相乗的に名をあげて、新曲をリリースするたびに記録的なセールスを叩き出していた。
だが――瓜子が見習いたいのは、そんな騒がしくも輝かしい経歴のことではない。
ユーリが格闘技に向ける、真摯な姿勢についてである。
何せユーリは試合の直後に心臓が止まるというリスクを背負ってまで、選手活動を継続しているのだ。
文字通り、ユーリは格闘技に生命を懸けている。ユーリは尋常でない強さと美貌と色香でもって数多くの人間を魅了しているのであろうが、真なる魅力はその内側に秘められているはずであった。
たとえこれから十連敗を喫することになっても、瓜子は選手活動をあきらめない。
それが、ユーリを見習おうという瓜子の覚悟であった。
「……どーしたにょ? そんなに熱い眼差しを向けられたら、ユーリはどぎまぎしてしまうのでぃす」
そんな風に言いながら、ユーリは幸せそうに微笑んだ。
瓜子もまた、無言のままに笑顔を返してみせる。
再び《アトミック・ガールズ》の看板選手となりおおせたユーリは、これからも大いに世間を賑わせていくことだろう。
ユーリが試合をするたびに、瓜子はとてつもない不安に見舞われてしまうが――この先も、決して目をそらすつもりはなかった。
(もちろんあたしたちだって、いつかは引退するんだろうけどさ)
しかしそれは、まだ見ぬ遠き行く末の話だ。
ユーリの隣を歩いていれば――そして、これだけの熱気をかもしだす朋友たちに囲まれていれば、何も恐れるものはなかった。
(千駄ヶ谷さんが、ずっと前に言ってた言葉……何せうぞくすんで、一期は夢よ、ただ狂へ……だったっけ)
我を忘れて、面白おかしく遊び暮らせ――あるいは、狂ったように一生懸命生きればいい――その言葉には、そんな二つの意味が備わっているのだという。そうして千駄ヶ谷は、それがユーリにぴったりの言葉であると評していたのだった。
瓜子がそんな言葉を聞かされたのは、五年以上も前のこと――ユーリがサキの指導のもと、沙羅選手から逆転勝利を収めて連敗街道から脱した直後のこととなる。今でもふっと思い出してしまうぐらい、その言葉は瓜子の心に強く焼きつけられていた。
瓜子の心境は、あの頃からまったく変わっていない。
あの頃から、瓜子はユーリを手本に頑張っていこうと決意していたのだ。
ユーリと同じ志を持ち、同じ夢を追いかける――それが、瓜子の決意であった。
あれからの五年間、瓜子とユーリはひたすら走り続けている。
そしてこれからも、延々と走り続けるのだろう。
今日で二十五歳となるユーリの戦績は、三十勝十二敗一引き分け一無効試合。
来月で二十四歳となる瓜子の戦績は、二十六勝一敗一引き分け。
すでにけっこうな戦績であるが、ユーリも瓜子もまだまだ満足していない。
引退した後の話などは、引退するときに考えればいい。今はひたすら、選手として活動できる幸せを噛みしめていたかった。
「とうちゃーく! もー、空港ってのは駐車場までだだっ広いよねー!」
灰原選手のそんな声が、想念に沈んでいた瓜子の心を現世に引き戻した。
目の前に、見慣れた車が停車している。鞠山選手のワゴン車と、多賀崎選手の軽ワゴン車だ。鞠山選手が電子キーでワゴン車のドアを開けると、灰原選手が笑顔で手を差し伸べた。
「それではうり坊さま、ずずいとどうぞ! 今日はいちおう、あんたが主役だからねー!」
「お荷物のあんたが、偉そうにエスコートするんじゃないだわよ」
その場の全員が、和やかな面持ちで瓜子の挙動を見守っていた。
あの頃には、ユーリとサキしか頼れる相手はいなかったが――今は数えきれないぐらいの人数が、同じ志で同じ夢を追いかけているのである。
瓜子はひそかに胸を詰まらせながら、隣のユーリを振り返った。
「それじゃあ、お邪魔しましょうか」
「うん。お稽古、楽しみだねぇ」
天使のように微笑むユーリとともに、瓜子は足を踏み出した。
この道は、いったいどこに続いているのか――五年前と同様に、今でもそれはわからない。
しかし瓜子たちは幸福なゴールラインを目指しているのではなく、その道中を楽しもうという心意気なのである。そうして今この瞬間がこれだけ楽しいのだから、迷う要素はどこにも存在しなかった。
瓜子の心は、満ち足りている。
満ち足りているのに、走らずにはいられない。
きっと瓜子は死力を尽くして走っているからこそ、こんなにも満ち足りているのだ。
ユーリが言う通り、こんな幸福な無間地獄は他に存在しなかった。
「……でも、自分はちょっと時差ボケなんすよね。寝技の稽古では、手加減をお願いします」
「にゃっはっは。うり坊ちゃんとのお稽古で手心を加えるなんて、そんな失礼な真似ができるかしらん」
ワゴン車に乗り込もうとしていたユーリは振り向きざまに、にこりと笑う。
朝の陽射しに照らされて、その笑顔そのものが光り輝いているかのようだ。
その笑顔にまた深く心を満たされながら、瓜子は心からの笑顔を返した。
出会った頃はあんなに憎たらしかったユーリの笑顔が、こんなにも愛おしい。
六年近くにも及ぶ歳月が、瓜子にそれだけの変化をもたらしたのだ。
この先には、いったいどれだけの変転が待ちかまえているのか――瓜子は不安ではなく期待を胸に、走り抜けるつもりであった。
――アトミック・ガールズ! 了――
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
当作、『アトミック・ガールズ!』は、これにて完結とさせていただきます。
こんなにも長い物語を最後まで書ききることができたのは、ひとえにご愛顧くださった皆様のおかげです。
重ねがさね、ありがとうございます。
別作品の扱いで『アトミック・ガールズ! ~あとがきにかえて~』という作品を公開いたしますので、ご興味を持たれた方々はそちらもよろしくお願いいたします。
そちらはのきなみよもやま話でありますが、当作をご愛顧くださった皆様に少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
それでは、またどこかでお会いできたら望外の喜びでございます。
2025.7/3 EDA