エピローグ①
そして時間は流れすぎ、二〇二〇年十一月十一日――
長距離のフライトを終えた瓜子が空港のロビーに下りていくと、そこには見知った面々がどっさり待ち受けていた。
「うり坊、おかえりー! そんでもって、全快おめでとー!」
人の耳をはばからない大声が、もともと賑やかなロビーに響きわたる。そんな真似に及ぶのは、もちろん灰原選手であった。
「ど、どうしたんすか? こんな朝っぱらから、みなさんおそろいで……」
「どーしたもこーしたも、わざわざ出迎えに来てあげたんじゃん! そこはカンドーしてむせび泣くところでしょー?」
「感動の押し売りをするんじゃないだわよ。まったく、情緒もへったくれもない低能ウサ公だわね」
鞠山選手はいつもの調子で、肩をすくめる。
すると、苦笑を浮かべた多賀崎選手が進み出た。
「騒がしくしちまって、悪かったね。なんか話の流れで、ヒマな人間は猪狩を出迎えに行こうって話になっちゃったんだよ。到着時間は、立松コーチに聞いてたからさ」
「あ、そうだったんすか。……お忙しい中、わざわざありがとうございます」
そうして瓜子が笑顔を返すと、灰原選手が「ちょっとちょっとー!」と割り込んできて、瓜子と多賀崎選手の肩を二人まとめて抱いた。
「なんでマコっちゃんにだけ、そんな可愛い笑顔を返すのさ! お出迎えの言いだしっぺは、あたしなんだぞー!」
「あんたがいきなり騒ぐから、猪狩も出ばなをくじかれたんだろ。あんたももうすぐ三十なんだから、ちっとは落ち着けっての」
「こらー! あたしの年齢は非公開なんだから、ちょっとは口をつつしんでよ!」
「あんたに口をつつしめとか言われたら、立つ瀬がないね」
二人の相変わらずの睦まじさに、瓜子は「あはは」と笑ってしまった。
すると、頬を火照らせた小柴選手が子犬のように近づいてくる。
「でも本当に、お怪我が全快してよかったです! これで年末のイベントにも出場できるんですよね?」
「はい。復帰戦があんな大きなイベントっていうのは、ちょっと恐縮ですけどね」
「そんなことありませんよ! 誰だって、猪狩さんの復帰を心待ちにしていたんですから!」
昨年の大晦日――三団体合同イベントでメイと対戦した瓜子は、左肘靭帯の断裂という深手を負って、長期欠場を余儀なくされたのである。
六丸の応急手当は完璧であったようだが、そもそものダメージが深刻に過ぎた。それで瓜子は北米の高名な医療機関において、靭帯縫合術を受けることになったのだった。
もともとは手首の靭帯を移植する靭帯再建術をおすすめされていたのだが、そちらは選手として復帰するのに一年半から二年はかかる見込みだと言い渡されていた。それであれこれ調べまくった結果、このたびの施術に至ったのである。
リハビリの経過も順調で、今回は最終チェックを受けるために渡米した。
それで晴れて全快という診断をいただき――試合を行う許可が得られたのだった。
これで大晦日のイベントに出場できれば、ちょうど一年間の欠場ということになる。
決して短い期間ではなかったが、復帰できるだけで感謝するべきであろう。昨日の日中に診断を受けて以来、瓜子の胸にも熱い思いが渦巻いていた。
「でも本当に、よかったですねー。一時はどうなることかと思いましたよー」
「うん、本当にね。猪狩がそんな若さで引退しちゃうのは、あまりに物寂しいからさ」
「ふん。どうせ猪狩センパイはしぶとく生き残ると思っていたのです」
「あはは! あたしも猪狩さんのしぶとさを信じてたッスよー!」
オリビア選手に小笠原選手、愛音や蝉川日和も口々に言いたてた。
灰原選手と多賀崎選手、鞠山選手と小柴選手を加えて、総勢は八名だ。
こんなにたくさんの人々が出迎えに来てくれて、瓜子としてはありがたい限りである。今回は二泊三日という短い旅であったし、診断の結果はプレスマン道場を通して通達済であるはずなのに、これだけの人々が瓜子の身を案じて駆けつけてくれたのだった。
(……あともうひとりいたら、完璧だったんだけどな)
そんな思いが、瓜子の胸をふっとよぎっていく。
その瞬間――「うにゃー!」という奇声が轟いた。
「うり坊ちゃん、おかえりー! もー、さびしくてさびしくてショーテンしちゃうところだったよー!」
瓜子が呆気に取られている間に、温かくてやわらかくて力強い物体に全身を拘束されてしまった。
その物体が放つ甘ったるい香りにむせかえりながら、瓜子はやわらかな背中をタップする。
「ど、どうもおひさしぶりです。……ユーリさんまで、どうしたんすか?」
「どーしたもこーしたも、うり坊ちゃんに会いたかったんだよー! 三日間も離ればなれで、ユーリはゼツメー寸前だったのです!」
そうして最後にものすごい怪力で瓜子の身を蹂躙してから、ユーリは身を引いた。
そして、口もとを隠していたストールをずらしながら、「えへへ」と気恥ずかしそうに微笑む。ユーリはニット帽と黒縁眼鏡を装着しており、後者は昨年の誕生日に瓜子がプレゼントした品であった。
ユーリと会うのは三日ぶりであるが、どこにも変わりはないようである。
雪のように白い肌も、それと同じ色をした前髪や睫毛も、とろんと眠たげに細められた目も、すっと通った鼻筋も、ほのかにピンク色をしたふくよかな唇も、奇跡のように美しいラインを描く頬の線も、秋物の衣服を纏っても隠しきれない肉感的な肢体も、匂いたつような色香も、精霊のような透き通った雰囲気も――何もかも、瓜子がもっとも愛おしく思うユーリそのままの姿であった。
「嬉しさのあまり、ついつい取り乱してしまったのです。みなみなさまの目をはばかるゆとりもなく、お恥ずかしい限りなのです」
ユーリのそんな言葉に、小笠原選手が「はは」と笑い声をあげる。
「今さら桃園のテンションに驚いたりはしないさ。何年たっても、アンタたちは新婚夫婦みたいな熱々っぷりだよね」
「そーそー。そんなもんにギリギリしてるのはイネ公ぐらいのもんだしねー」
「……愛音はそこまで狭量な人間ではないのです」
などと言いながら、愛音は肉食ウサギの眼光になっている。
ユーリはニット帽ごと頭をかき回しながら、「にゃはは」と笑った。
昨年の大晦日にベリーニャ選手と対戦したユーリは、やはり試合の直後に意識を失うことになってしまったが――蘇生の施術を受ける前に、また目を覚ますことがかなったのだ。
しかしそれまでの時間は、呼吸も心拍も確認できなかったらしい。今回もAEDが持ち出されて、試合衣装にハサミを入れられる寸前に覚醒することになったのだ。
それから十ヶ月と少しが過ぎた現在も、ユーリの病状に変わりはない。
つまりユーリは同じ状態のまま、選手活動を継続している。それで、試合のたびに意識を失い、世間を騒がせているのだった。
「にしても、ピンク頭はよく間に合ったよねー。昨日は、大阪でライブだったんでしょ?」
灰原選手の問いかけに、ユーリは「はいぃ」ともじもじする。
「千さんにお願いして、高速道路をかっとばしていただいたのですぅ。ユーリがお願いしたことでありますけれど、この数時間は生きた心地がしなかったのですぅ」
「ははっ! 千駄ヶ谷さんも、意外に優しいとこあるじゃん! で、他のみんなは? 後を追いかけてこなかったの?」
「はいぃ。どうせ夜にはお会いできるので、女子選手水入らずでうり坊ちゃんを出迎えてあげればよろしいと仰っておりましたぁ」
「そっかそっか! きちんと夜に合流できれば、文句はないよ! 今日はうり坊の全快記念と『トライ・アングル』のツアー終了の打ち上げを兼ねてるんだからね!」
「あともうひとつ、大事なイベントも合同だろ」
と、多賀崎選手がユーリに温かな笑顔を向けた。
「誕生日、おめでとさん。……って、こんな台詞はパーティーまで取っておくべきだったかな?」
「うにゃあ。多賀崎選手にそのような言葉を届けられると、ますますキョーシュクしてしまうのですぅ」
と、ユーリは全身でもじもじとした。
本日は、ユーリの誕生日なのである。
ユーリの誕生日は二人きりで祝うのが通例であったが、本日は瓜子の全快祝いを打診されたため、事情を打ち明けざるを得なかったのだ。さすれば、合同のパーティーにしてしまおうという結論に至るのが、自然の摂理というものであった。
「ピンク頭も、ついに二十五歳だもんねー! アラサーの世界にようこそ!」
「うにゃあ。永遠の十五歳を自称する鞠山選手の気持ちが、ようやく理解できたかもしれないのですぅ」
「あんた、ケンカを売ってるんだわよ?」
鞠山選手がおしりを蹴り飛ばそうという素振りを見せて、ユーリは「うにゃあ」と瓜子を盾にする。そんなさまに、他の面々は楽しげに笑い声をあげた。
「じゃ、そろそろ移動しよっか。夕方までは、みっちり稽古なんだからね」
小笠原選手の号令で、一行は空港の出口を目指すことになった。
瓜子が引いていたキャリーバッグは、蝉川日和に強奪されてしまう。手ぶらになった瓜子は人で賑わうロビーを歩きながら、隣のユーリに笑いかけた。
「あらためまして、今日はわざわざありがとうございます。昨日のライブは、如何でしたか?」
「うみゅ。ライブそのものはいつも通りしゃかりきだったのだけれども、やっぱりうり坊ちゃんのいない物寂しさはイカンともしがたかったよぅ」
「自分も、心から残念でしたよ。『トライ・アングル』のライブを見逃すなんて、初めてのことでしたからね。……それで、診断の結果は聞いてるんすよね?」
「モチのロンだよぉ。うり坊ちゃんも、ついに復帰できるんだねぇ。それでユーリもヨロコビのあまり、ついつい取り乱してしまったのでぃす」
ストールをずらしたままであったユーリは、天使のように微笑んだ。
「これでうり坊ちゃんも、大晦日のイベントにご一緒できるにょ?」
「はい。お医者さんの許可は下りたんで、あとはコミッションと運営しだいっすね」
「そっかぁ。うれしいにゃあ。ユーリはこの日を、イチジツセンシューの思いで心待ちにしていたのでぃす」
と、ユーリはますます幸せそうに目を細める。
それだけで、瓜子の胸も温かい気持ちに満たされてやまなかった。
「自分だって、そうっすよ。なにせ、まるまる一年ぶりですからね。……この一年、色んなことがありましたね」
「うみゅ。うり坊ちゃんがアメリカに行ってしまわれるたびに、ユーリはしょんぼりのズンドコでありましたけれども……でもでも、こうして再会できればヨロコビのキョクチなのでぃす」
「それは、おたがいさまっすよ。ユーリさんが試合をするたびに、自分は神様に祈るような心地なんですからね」
「うにゃあ。キョーエツシゴクなのですぅ」
くにゃくにゃと身をよじりつつ、それでもユーリの幸せそうな眼差しに変わりはない。
それで瓜子も幸せな心地を噛みしめながら、この一年ばかりの歳月に思いを馳せることになった。