18 静かな変転
重苦しい空気がたちこめる中、『セコンドアウト!』のアナウンスが流された。
ユーリは自分の顔をぴしゃぴしゃと叩いてから、立ち上がる。その目が普段通りの輝きを取り戻していることを確認して、瓜子はほっと息をついた。
客席には、やけくそのような歓声が巻き起こっている。
玉砕覚悟でぶつかってこい――と、ユーリを叱咤激励しているかのようだ。
すると、控え室でも灰原選手がわめき始めた。
「よーし! 泣いても笑っても、あと五分だー! 最後まであきらめんなよー、ピンク頭!」
「ああ。まだちょっと、桃園らしさが出てないからね。とにかく強引にでも、一発当てるしかない」
「ユーリさんなら、やってくれるッスよ! ユーリさんは、バケモンなんスから!」
瓜子もまた、気力をかき集めてモニターを見つめた。
しかし、ラウンド開始のブザーが鳴らされると同時に、人々の意気はせき止められてしまう。レフェリーがタイムストップをかけて、リングドクターを呼んだのだ。
その理由は、もちろんユーリの容態を見るためである。
先刻の瓜子と同様に、試合を続行できるだけの余力があるかどうかチェックされるのだ。ユーリはコーナーに戻る途中で膝をついてしまったのだから、それが当然の処置であった。
しかしユーリは明るい表情であるし、足取りにも乱れは見られなかった。
もちろん頭部のダメージは溜まっているのだろうが、この一分間で多少は回復できたのだろう。ユーリはもっとひどい状態に追い込まれた際でも、数々の逆転勝利をあげてきたのだった。
だから問題は、ダメージやスタミナではない。
ユーリがこれまでに積み上げてきたものが、ベリーニャ選手に通用するかどうかであるのだ。
無事にドクターのチェックが終了すると、あらためて歓声があげられる。
そして、最終ラウンドが開始されて――やけくそ気味の歓声は、困惑のどよめきに切り替えられた。
ユーリが、おかしな動きを見せたのだ。
腰と膝を深く曲げて、極端な前屈の姿勢を取っている。まるで、柔術やレスリングのようなスタイルである。道場においても、寝技限定のスパーでない限り、そんな姿勢を取ることはありえなかった。
「わーっ! こいつ、何やってんのさ! 打つ手がなくなって、ヤケクソになってんのー?」
「そんなこと、ジョン先生が許さないだろ。でも……これはさすがに、危ないよね」
「うん。これじゃあ顔面を蹴られかねないし、無理やり寝技に引き込んでも勝ち目はないでしょ」
「寝技の前に、打撃を一発でも当てるっていうのが基本戦略ですもんね。でも、こんな体勢じゃどんな攻撃も狙えそうにありません」
控え室の面々も、客席の人々に劣らず困惑の思いをあらわにしていた。
ユーリは目測が甘いので、タックルを仕掛けても成功率は一割にも満たない。そして、自分からマットに背中をつける引き込みでは、ベリーニャ選手を相手に勝ち目はないと見なされていた。
(でも、それ以外にこんなに姿勢を低くする理由がないし……いったいどういう作戦なんだ……?)
瓜子は胸を高鳴らせながら、ユーリの挙動をじっと見守る。
因果なことに、ユーリは自分らしさを発揮すると周囲の人間を困惑させてやまないのだ。しかし瓜子は、それこそがユーリの真骨頂であるのだと信じていた。
極端な前屈の姿勢を取ったユーリは、前方にゆらゆらと両手を泳がせている。
それもまた、柔術やレスリングを思わせる動きである。
するとベリーニャ選手は、遠い距離からユーリの顔面に向かって前蹴りを繰り出した。
ユーリがこれだけ屈んでいれば、腹を狙う高さで顔を狙うことができるのだ。
しかしユーリが前方に腕をのばしているため、間合いはいっそう遠くなっている。ユーリも何とか、その前蹴りを右腕で払いのけることができた。
蹴り足を戻したベリーニャ選手は、ユーリの周囲を回り始める。
ユーリは同じ姿勢のまま、その動きについていき――なおかつ、前進し始めた。
するとベリーニャ選手は、軽やかなステップワークでいっそう距離を取ってしまう。
やはり、ユーリの奇策につきあう気はないようである。ポイントで有利なベリーニャ選手が、自分のリズムを崩す理由はなかった。
そうして不毛な鬼ごっこが開始されると、客席からは不満げな喚声がわきおこり、レフェリーは『ファイト!』と進行をうながす。
それで四十秒ばかりが無為に過ぎると、ユーリはようやく身を起こした。
今度は、尋常なクラウチングのスタイルだ。
だが――ユーリはその体勢から、スライディングのような足払いを仕掛けた。
ベリーニャ選手は危なげなくバックステップを踏んで、回避する。
するとユーリはマットに倒れたまま、ベリーニャ選手に向かって足を開いた。
ベリーニャ選手をグラウンドに誘う動きである。
下の状態からグラウンド戦を始めても勝ち目はないと見なされているし、これまでのラウンドでもそれは立証されているというのに――ユーリは事前に組み立てた基本戦略を打ち捨てて、そんな真似に及んだのだった。
「もー、わけがわかんないなー! こんなの、作戦にあったっけ?」
「あるわけねーだろ。塩漬けにされたら、それでおしまいじゃねーか」
「うん。今日はベリーニャも堅実だからね。うかうかと上を取らせるのは、まずいよ」
瓜子はひとりで胸を高鳴らせているが、周囲の面々は心配げだ。
そんな中、ユーリはレフェリーに『スタンド!』とうながされて立ち上がった。
ケージの中央で、仕切り直しである。
すると――今度は、コンビネーションの乱発であった。
しかも、すべてが蹴り技で構成されている。バランスを崩しやすい蹴り技はなるべく控えるようにという方針であったので、これも基本戦略に反する動きであった。
しかしユーリは遠慮なく、バックスピンハイキックまでコンビネーションに織り込んでいる。
ベリーニャ選手であれば、その間隙をついてテイクダウンを狙えそうなものであったが――しかしこのたびも、ユーリに近づこうとすらしなかった。
「……ベリーニャは、慎重すぎるぐらい慎重だね。やっぱり、桃園のペースに乗せられないように警戒してるのかな?」
「そりゃーそーでしょ! ベリーニャはこのまま逃げ続けたら、判定勝ちなんだからさ!」
「でも、ベリーニャは《アクセル・ファイト》に喧嘩を売ってまで、桃園と試合をしたがってたんだよね? そんなつまんない結末で、満足できるのかなぁ?」
「つまらなくても、負けるよりはマシなんじゃない? ……まあ、これで桃園がどういう勝ち筋を目指してるのかは、まったくわからないけどさ」
「ま、こうなったらもう、なんでもいーよ! 好きに暴れまくって負けたら、ピンク頭も本望っしょ!」
ユーリの豪快かつ優美なコンビネーションに触発された様子で、控え室にもじわじわと熱気がわきかえっていく。
瓜子も期待をかきたてられているが、ベリーニャ選手が応じないために時間だけが過ぎ去っていく。両者がまともに接触しないまま、すでに一分半が過ぎていた。
そこでユーリが次に見せたのは、パンチのみのコンビネーションである。
これは基本戦略として準備されていた戦法であるが――ただし、先のラウンドで完全に打ち破られている。ユーリはこのコンビネーションのさなかに、右ストレートをクリーンヒットされてしまったのだ。
ずっと遠い間合いを保っていたベリーニャ選手が、ついにじわりと近づいてくる。
すると――左右のフックにボディフックまで繋げたユーリが、最後に両足タックルを仕掛けた。
ベリーニャ選手は、バービーの動きでそれを回避する。
そうしてユーリが即座に仰向けとなって、両足を開くと――ベリーニャ選手は、また遠ざかっていった。
「んー、これでもグラウンドにはいかないか。いくら何でも、ベリーニャは慎重すぎないかな」
「うん。自分から仕掛けない限り、グラウンドには移行しないって作戦なのかもね」
「でも、今のタックルは潰すと同時に上を取れたよね。それでポジションをキープしたほうが、スタンドで暴れ回る桃園を相手にするより安全な気がするけど……」
「……もしかしたら、ベリーニャも立ち技で一発を当てることを狙ってるのかもしれないだわね」
鞠山選手のそんなひと言に、灰原選手が「はあ?」と反応した。
「あんた、なに言ってんの? ベリーニャが、KO勝ちを狙ってるとでも言うつもり?」
「ベリーニャは達人めいたカウンターの技を体得しただわけど、KO勝ちの経験は前回の一回きりなんだわよ。あれはガブリエラの突進力が破壊力に反転しての結果なんだわから、狙って狙えるものではないだわね」
「それじゃー、どーゆー意味なのさ?」
「それは、今後の展開しだいだわね」
モニターでは、ユーリが再び深い前屈の姿勢を見せていた。
そして今度はベリーニャ選手の懐にすべりこみ、自らマットに背をつけて、引き込みの戦法を見せる。
だが、ベリーニャ選手は身を引いてしまう。
徹底的に、ユーリの仕掛けは黙殺するという方針であるようであった。
(上さえ取れれば、ベリーニャ選手が有利なはずなのに……どうしてこうまで、寝技を避けるんだ……?)
期待に胸を高鳴らせつつ、瓜子の疑問もつのるいっぽうである。
そして――ふいに瓜子は、息を呑むことになった。
レフェリーの指示で身を起こしたユーリの表情が、一変していたのだ。
もともと眠たげな目がいっそう細められて、菩薩像のように静謐な表情になっている。
ユーリが退院してから見せるようになった、新たな表情だ。この一年余り、ユーリはすべての試合でこの表情を見せており――そしてその末に、すべての選手を下してきたのだった。
(でも……この状況で、勝てるのか……?)
試合時間は、すでに二分半に達している。
ほとんど接触しないまま、ラウンドの半分が過ぎてしまったのだ。ここからどのように試合が動くのか、瓜子には見当もつかなかった。
ユーリは前屈の姿勢を取りやめて、アップライトの形を取る。
そうしてしっかり防御を固めながら、ずかずかと前進した。
強引な前進というのは、ユーリがここ二回の試合で見せていた戦法だ。
アナ・クララ選手との対戦では、ガードを固めて自らは攻撃をせず、ひたすら前進していた。
レベッカ選手との対戦では、真正面から相手と打ち合っていた。
果たして、今回は――アナ・クララ選手との対戦で見せていた動きであった。
ユーリは背中をのばしたアップライトの姿勢で、前足にはほとんど体重をかけず、後ろ足だけでぴょこぴょこと前進していく。
それに対して、ベリーニャ選手は迷う素振りも見せずに距離を取った。
ベリーニャ選手はセコンドとして、アナ・クララ選手が敗れる姿を見届けているのである。であれば、ユーリの最終的な狙いが組みつきであることを察しているはずであった。
(でも、ベリーニャ選手はアナ・クララ選手よりスピードがあるし、そもそもスタミナも十分だ。どれだけ強引に近づいても、組み合うのは難しいだろう)
それに、パワーではユーリがまさっているのだから、ベリーニャ選手も正面から組み合うことは避けようとするだろう。ベリーニャ選手が得意にするのは、あくまで自分から仕掛けるタックルであった。
案の定、ベリーニャ選手はステップワークでひたすら距離を取っている。
すると、レフェリーが厳しい面持ちで『ファイト!』とうながした。もうラウンドの半分が過ぎているのに、おたがいに一発の攻撃もヒットしていないのだ。なおかつ、ひたすら攻撃と前進を繰り返しているユーリに対して、ベリーニャ選手は一発の前蹴りしか出していなかった。
このままいくと、消極的姿勢で口頭注意を受けるかもしれない。
しかしまた、減点までされるのはもっと先の話であるし、ベリーニャ選手はこのラウンドを落としても判定勝利が確定している。ベリーニャ選手が逃げ続けるならば、ユーリの側が試合を動かさなければならなかった。
(でも……どうしてベリーニャ選手は、逃げてばかりいるんだろう……)
瓜子も次第に、そんな疑念にとらわれ始めた。
さきほど誰かも言っていた通り、これはベリーニャ選手の熱望から実現した対戦であったのだ。すでに《アクセル・ファイト》の王者であるベリーニャ選手がユーリとの対戦を望むのは、富や名声とも関係なく――ただ純粋に、強い相手と戦いたいという熱情が原動力になっているはずであった。
そんなベリーニャ選手が、逃げに徹している。
もちろん勝利を目指すためには、身を引くべき場面もあるだろう。どれだけの熱情を抱えていても、やみくもな乱打戦に興じるのが正しいとは思えない。先刻までは瓜子とメイも、ひたすら勝利を目指して死力を尽くしたつもりであった。
だが、ベリーニャ選手は自分が有利な寝技からも逃げている。
二ラウンド目までは順当に試合を進めていたのに、最終ラウンドに入ってからは逃げの一手であるのだ。いかにユーリの戦略に乗りたくないと言っても、あまりに極端な立ち居振る舞いであった。
(だからベリーニャ選手も、最善を尽くしてるはずなんだけど……どうして寝技から逃げることが、最善になるんだろう……?)
瓜子がそのように考えたとき、レフェリーが『タイムストップ!』を宣告した。
そして、ベリーニャ選手に口頭注意が与えられる。やはり、あまりに消極的であると見なされたのだ。
客席には、歓声とブーイングが吹き荒れている。
三分ばかりもまともな接触が見られなければ、それも当然の話であろう。なおかつ、ひたすら攻撃と前進を続けているユーリを非難する人間はいないはずであった。
「さあ、いよいよおかしくなってきたよ。ベリーニャは、自分からドツボにハマった感じだね」
「ふん。本人は、基本戦略の通りに動いている可能性もあるだわけどね」
「だから、その知ったか口調は何なのさー? なんかわかったんなら、出し惜しみしないでよねー!」
「それは今後の展開しだいだわよ」
そんな言葉が交わされる中、試合が再開される。
残り時間は、二分足らずだ。
ユーリは変わらぬスタイルで、ぐいぐい前進していく。
いや、その前進の勢いが、いよいよ強まったようである。
すると、ベリーニャ選手が遠い間合いから関節蹴りを射出した。
口頭注意やブーイングとは関係なく、ユーリの前進を止めるには必要だと考えてのことだろう。
ユーリは左足を半ば浮かせているので、膝を蹴られても大したダメージはない。
そしてユーリは、膝を蹴らせもしなかった。
ベリーニャ選手が関節蹴りを出すと同時に、左足を高々と振りかざしたのである。
踏み込みを使わない、前足によるハイキックだ。
ユーリの左足は、颶風のように走り抜け――ベリーニャ選手は、ぎりぎりのタイミングで身を屈めた。
おたがいが蹴りを出したため、おたがいに足が止まり、同じタイミングでステップを踏み始める。
ユーリは前進、ベリーニャ選手は後退だ。
ベリーニャ選手は静謐な面持ちだが、ユーリはそれをも上回る静かな面持ちである。
残り時間は、一分と四十秒――決着の瞬間は、もう目の前に迫っていた。