15 プリティ・モンスターとザ・クイーン
大歓声の中、試合開始のブザーが鳴らされた。
いったんフェンス際まで下がったユーリとベリーニャ選手は、あらためてケージの中央に進み出る。
ユーリはクラウチングのスタイルでぴょこぴょことステップを踏んでおり、ベリーニャ選手は――アップライトのスタイルで、軽やかなステップを踏んでいた。
「ふん。まずは、こう来やがったか」
と、これまであまり試合中に発言していなかったサキが、真っ先に声をあげる。
それに応じたのは、鞠山選手だ。
「ここ最近のベリーニャの定番は足を止めてのカウンター狙いだっただわけど、ピンク頭に序盤から使うのは危険だと判じたわけだわね。まあ、プレスマン陣営の推察通りだわよ」
「ふん。つまんねーな。あっちがカウンター狙いできたら、どっちがくたばるにせよ秒殺決着もありえたのによ」
「ベリーニャの陣営が、そんなリスクを回避したわけだわね。ピンク頭の常識外れのスタイルが招いた結果だわよ」
サキたちが語る通り、ベリーニャ選手のファイトスタイルに関してはさんざん語り尽くされていた。何せベリーニャ選手は一撃必殺のカウンターとボクシング流のヒットアンドアウェイという両極端な二刀流であったため、こちらもその両方に対処しなければならなかったのだ。
ただし、足を止めてのカウンター狙いは序盤から使われることもないだろうと予測されていた。
何故ならば、ユーリの打撃技があまりに無軌道であるためである。ユーリはフォームの綺麗な打撃技を習得しているが、不同視というハンデを抱えているために、間合いやタイミングの取り方が無茶苦茶であるのだった。
灰原選手のようにフォームの粗い打撃技は軌道を読みにくいものであろうが、無茶苦茶な間合いやタイミングで放たれる打撃技というのも、それに負けていないはずだ。そんなユーリを相手に一撃必殺のカウンターを狙うのは、リスクが高い――と、カウンターの名手であるサキや赤星弥生子や大江山すみれも口をそろえて主張していた。
それはつまり、あれだけの突進力を持つアメリア選手や、野獣めいた躍動感を有するガブリエラ選手よりも、ユーリのほうが危険であると見なされたということである。本来は大きなハンデである目の悪さが、ユーリの絶え間ない努力によって唯一無二の武器に変じたわけであった。
(間合いやタイミングが無茶苦茶なだけじゃ、なんの武器にもならない……それでもユーリさんが愚直に稽古を積んで、あれだけの破壊力を身につけたからこそ、独自の武器に昇華されたんだ……)
しかし、ユーリがダメージを負うなどして本来の破壊力を失ったならば、ベリーニャ選手もカウンター狙いに切り替えるかもしれない。
その前に、こちらが一発でも攻撃を成功させてダメージを与えるというのが、ユーリ陣営の基本戦略であった。
ベリーニャ選手の唯一の弱みは、打たれ弱さであるのだ。
ベリーニャ選手は平常体重がリミットに届いていないため、バンタム級においてはもっとも細身なのである。本日のユーリとの体重差は、四キロにも及ぶのだった。
さらに言うならば、ユーリは体脂肪率がひとケタであるため、女子選手としては規格外の筋肉量を誇っている。ざっくりとした計算では、七十キロ級の女子選手と同程度の筋肉量であろうと見なされていた。
つまりベリーニャ選手は、十キロばかりも重い相手と戦うようなものであるのだ。
それは《アクセル・ファイト》で言うとアメリア選手やパット選手やガブリエラ選手に匹敵する数値であろうから、ユーリの攻撃にはそれに負けないぐらいの破壊力が備わっているはずであった。
(しかもベリーニャ選手は、ユーリさんが自分よりも軽かった時代に、膝蹴りの一発で肋骨をへし折られてるからな……それなら、警戒するのが当たり前だ……)
しかしまた、ベリーニャ選手はユーリ以外の相手に打撃技で後れを取ったことがない。唯一の例外は秋代拓海であるが、あれは卑劣な反則技からもたらされた結果であるため、何の参考にもならないのだ。
ベリーニャ選手は、自分が打たれ弱いことを誰よりも理解している。
だからこそ、このボクシング流のフットワークを磨き抜いているのだった。
ベリーニャ選手はそれほど大きく動かないが、一秒として同じ場所には留まらない。
そして、ユーリの間合いには決して入ろうとしない。ユーリが無造作に距離を詰めようとすると、風に流される柳のようにふわりと遠ざかった。
こうなると、ユーリも迂闊には手を出せなくなる。
ベリーニャ選手の一番の必殺技は、達人のタイミングで放たれる両足タックルであるのだ。ユーリが間合いの外でぶんぶん攻撃を振り回したならば、その繋ぎ目でテイクダウンを狙われる危険が高かった。
通常であれば、グラウンドこそがユーリの庭場である。
しかしベリーニャ選手は、ユーリを上回る寝技巧者であるのだ。ベリーニャ選手に有利なポジションでグラウンド戦を開始しならば、そのまま敗北を喫する恐れもあった。
(まあ、ユーリさんなら一方的にやられることはないだろうけど……不利なことに変わりはないからな)
結果、ユーリとベリーニャ選手の試合はきわめて静かな立ち上がりとなった。
ユーリはぴょこぴょこと前進し、ベリーニャ選手はふわりと遠ざかる。その繰り返しだけで、あっという間に一分の時間が過ぎたのだ。客席からは、明らかに焦れた歓声が巻き起こっていた。
しかし、瓜子やメイと同様に、どれだけ観客が焦れても勝負を急ぐことはできない。ユーリはタックルとカウンターを、ベリーニャ選手は重い打撃を警戒して、慎重に動かざるを得なかった。
「うー、じりじりする! このまんま、ラウンドが終わったりしないだろーね?」
「相手は、百戦錬磨のベリーニャだからな。嫌でも、試合は動くだろうさ」
「そうだわね。ベリーニャはもともとピンク頭を研究し尽くしてるんだわから、リズムをつかんだら一気呵成に攻め込んでくる恐れがあるだわよ」
かつてベリーニャ選手はセコンドとして、イーハン選手やアナ・クララ選手にユーリ攻略の作戦を授けていたのである。
イーハン選手との対戦は二年前、アナ・クララ選手との対戦はわずか半年前だ。
ベリーニャ選手はそれぐらい絶え間なく、ユーリ攻略の研究に打ち込んでいるわけであった。
(でも、ベリーニャ選手はアナ・クララ選手みたいに打撃を出そうとしない。あれじゃあ勝てないと考えをあらためたか……自分にアナ・クララ選手ほどの攻撃力はないと自覚しているのかな)
では、ベリーニャ選手はどのようにユーリを攻略しようと考えているのか――マットに横たわって左肘の応急手当を受けながら、瓜子は息を詰めることになった。
両者が接触しないまま、試合時間は一分半に到達する。
すると――ついに、ベリーニャ選手が最初の攻撃を繰り出した。
遠い間合いからの、関節蹴りである。
ユーリはぴょんっと後方に跳びのいて、その関節蹴りを回避した。
片目を閉ざしたユーリは遠近感が覚束ないものの、これだけ間合いが開いていれば、さすがに対応することができる。また、ベリーニャ選手が遠い間合いを保とうとする可能性も想定されていたので、関節蹴りの対処には重点が置かれていた。
ベリーニャ選手はしなやかな足取りでステップを踏みつつ、二発目の関節蹴りを繰り出す。
ユーリもまた、バックステップで回避した。
そして、三度目の関節蹴りだ。
ユーリはそれも回避したが、瓜子は否応なく緊張を強いられていた。
これは明らかに、ユーリのリズムを探るための攻撃だ。
ユーリは細かい緩急をつけるのが苦手な気質であるため、バックステップはすべて同じテンポと歩幅になってしまっている。それが三回も繰り返されれば、ベリーニャ選手にインプットされてしまうはずであった。
そして、ベリーニャ選手が四度目の関節蹴りを放つと――ユーリはバックステップを踏まず、膝蹴りで迎撃した。
ベリーニャ選手の足裏を膝蹴りで弾き返し、さらにそのまま大きく踏み込む。
そこから振るわれたのは、奥手からのアッパーである。
足裏を弾かれたベリーニャ選手はバランスを整えるため、ステップを踏むのが遅れている。その間隙をついて、拳を繰り出したのだ。
そしてアッパーを選択したのは、ベリーニャ選手の組みつきを警戒してのことであろう。
それらもすべて、合同稽古で磨いた手腕であった。
しかし、ベリーニャ選手は組みつきの動きを見せず、インサイドに踏み込むことでユーリの右アッパーを回避した。
そして、離れ際に軽い左ジャブを、ユーリの右頬にヒットさせていく。
そうしてユーリがぐりんと向きなおる頃には、すでに間合いの外に逃げていた。
ついに、初めてのコンタクトである。
けっきょく一発の左ジャブしかヒットしなかったが、瓜子は詰めていた息を吐くことになった。
ユーリとベリーニャ選手の試合は、一回の接触で命運を分ける可能性があるのだ。
どんなに軽い接触でも、決して油断は許されなかった。
ユーリは真剣な面持ちで、ぴょこぴょこと前進していく。
ベリーニャ選手は静謐な面持ちで、軽妙なるステップワークだ。
両名ともに、常と変わらぬたたずまいであるが――それは、瓜子やメイも同じことであった。
待ちに待っていた試合であるからこそ、大事に大事に戦っているのだ。
傍目には地味に見えようとも、二人がどれだけ集中しているかは痛いぐらいに感じられる。一瞬の油断で大切な試合が呆気なく終わってしまわないように――持てる力をすべて振り絞れるようにと、二人はそんな思いで拳を交わしているはずであった。
しかしまた、この静かな交錯はベリーニャ選手のペースである。
それを打ち崩すべく、今度はユーリのほうがアクションを見せた。
これまで以上にせわしない足取りでステップを踏み、ぐんぐんと距離を詰めていく。
そして、拳によるコンビネーションを見せた。
最初は左右のワンツーから、膝蹴りのフェイント。
お次は左フックと右のボディアッパーに、再度の左フックだ。
むやみに手を出すのは危険であるが、タックルや組みつきを牽制するために膝蹴りのフェイントとボディアッパーを組み込んでいる。それに、決して蹴り技も使おうとしなかった。
これは、当たらなくてもいい。ユーリは妥協のない攻撃を振るうことで、プレッシャーをかけているのだ。
ベリーニャ選手の最大のストロングポイントは、どんな際でも平常心を崩さない精神の強さだと見なされている。カウンターの名手には、ライフルの狙撃手と同様の沈着さが求められるのである。
そんなベリーニャ選手の心に少しでも重圧をかけるべく、ユーリは拳を振るっている。
たとえ牽制でも、ユーリの攻撃は全力だ。これがクリーンヒットすれば、ベリーニャ選手もただではすまないはずであった。
ユーリが攻勢に出たため、客席も控え室もわきたっている。
すると――ベリーニャ選手の左拳が、またユーリの右頬に浅くヒットした。
ユーリのアウトサイドに踏み込んだベリーニャ選手が、左ジャブを当てたのだ。
ユーリはダメージを負った様子もなく、新たなコンビネーションを発動させる。
するとベリーニャ選手は遠い位置からの関節蹴りでユーリの前進を止めた後、インサイドに踏み込みながらスイッチをして、右ジャブをヒットさせた。
当たりは浅いが、今回は利き腕であったため、ユーリの頭がわずかに揺れた。
これだけ正確にジャブを当てられるということは、完全に距離感をつかんだ証である。
ユーリは攻勢に出たが、ベリーニャ選手にペースを握られたままであった。
「よくないね。ちょっと見透かされてる感じがするよ」
小笠原選手が、そんなつぶやきをこぼした。
すると、ユーリも攻撃の手を止める。おそらく同じ危機感を抱いたセコンド陣が、ストップをかけたのだ。
ケージの中央に陣取ったユーリは背筋をのばしてアップライトの姿勢を取り、ぴたりと動きを止める。
カウンター狙いの、ムエタイ流のスタイルだ。
ベリーニャ選手は慌てず騒がず、遠い位置から関節蹴りを繰り出してくる。
ユーリはバックステップでそれを回避したのち、また一歩だけ前進した。
ベリーニャ選手が周囲を回り始めたならば、正対できるように身体の向きを変えていく。
二度目の関節蹴りが放たれたならば、今度は膝蹴りで迎撃だ。
リズムをつかまれないように、同じ攻撃に対しても対処の方法を使い分けている。これも確実に、セコンドの指示に従ってのことだろう。
すると――ベリーニャ選手がクラウチングの姿勢を取って、機敏に頭を振り始めた。
まるで、懐にもぐりこもうとするインファイターのような挙動だ。
ベリーニャ選手はかねてよりボクシングの技術の習得に余念がなかったが、このような姿を試合でさらすのは初めてのことであった。
しかしユーリは動揺した様子も見せず、じっとベリーニャ選手の挙動をうかがっている。
ユーリはユーリで、応用のきかないタイプであるのだ。とにかくベリーニャ選手が間合いに入ったらカウンターの技を返すということしか、頭にはないのだろうと思われた。
(でも、ベリーニャ選手がユーリさんにインファイトを仕掛けるなんて、ありえない……これは絶対、罠ですよ……)
瓜子は多大なる切迫感を抱いていたが、そのようなことはセコンド陣も先刻承知であろう。瓜子は黙って、チームメイトの判断を見守るしかなかった。
モニターでは、ベリーニャ選手が小刻みにステップを踏んでいる。
そしてついに、その足先が間合いのラインを踏み越えて――ユーリに、左ローを射出させた。
ジャブのように振るう、鋭くしなやかな左ローだ。
その左ローを回避するために、ベリーニャ選手の左足がふわりと持ちあげられる。
それと同時に、クラウチングの姿勢であった背筋が真っ直ぐにのばされて――ベリーニャ選手の左足の先端が、ユーリのもとにするすると近づいていった。
後の先を取ったベリーニャ選手が、前蹴りを繰り出したのだ。
狙うは、ユーリの腹である。
ユーリは頭部のガードを固めているし、左ローを出した直後であったため、それを回避するすべはなかった。
指を反らせた中足が、ユーリの白い腹にすとんと命中する。
あちらも前足であったので、ごく軽い攻撃だ。また、ユーリは足を踏み込まずに攻撃を出したので、カウンターの威力も加算されない。
だが――その一撃でユーリは身を折って、よろよろと後方にふらついた。
おそらくは、みぞおちを正確に貫かれたのだ。でなくては、あんな軽い攻撃でダメージを負うわけがなかった。
そんな中、蹴り足をおろしたベリーニャ選手の身が音もなく沈み込む。
瓜子が思わず背筋を震わせるほど、それは流麗なる所作であった。
そうしてユーリはベリーニャ選手の両足タックルをくらい、なすすべもなくマットに倒れ伏すことになったのだった。