13 憧憬の果て
(やられちゃったか……)
マットに倒れ込んだ衝撃が全身にじわじわ広がっていくのを感じながら、瓜子はそんな思いにとらわれた。
瓜子は何とかインファイトに持ち込もうと死力を振り絞り、ついに二度目の限界突破を迎えたが――それからすぐさま、メイにテイクダウンを奪われてしまったのだった。
万が一にもテイクダウンを奪われたならば、相手に抱きついて膠着状態を作り、ブレイクを待つようにという指示を受けている。
しかしメイは、瓜子の腰にまたがったマウントポジションである。この状態では、膠着状態に持ち込むこともかなわなかった。
(だったら、自力で脱出するしかない……)
しかし、瓜子は疲弊の極みである上に、もともと寝技の技術はメイのほうが上であるのだ。
何をどのように考えても、瓜子は万事休すであった。
(……だけどあたしは、最後まであきらめませんよ……)
唯一の希望は、瓜子が限界突破のさなかにあることである。
この状態であれば、瓜子はもっとも正しい選択をできるはずであった。
(鞠山選手との試合でも、寝技の状態で逆転できましたし……エキシビションでは、ユーリさんの猛攻を時間いっぱい逃げのびてみせたんですよ……)
心中でメイに語りかけながら、瓜子はまずブリッジを試みた。
すると、瓜子が腰を跳ね上げるより早く、メイは腰を浮かせてしまう。そうして瓜子の腰がマットに落ちると、メイの身もすみやかに追いすがってきた。
(完全に、ブリッジの衝撃を受け流してる……これじゃあ、重心を崩せるはずがないな……)
そしてメイは、すでに右拳を振りかぶっていた。
またあのパウンドの脅威が開始されるのだ。
瓜子は血の味がするマウスピースを噛みしめながら、意識を集中した。
(顔面には、くらわない……その間に、脱出の手立てを考えるんだ……)
のろのろと下りてくるメイの拳の動きに合わせて、瓜子ものろのろと防御の姿勢を取る。
そうして瓜子の左腕にメイの右拳がヒットすると、鈍い痛みがじんわりと広がっていった。
(よし……パウンドだったらフェイントもないし、攻撃の軌道も限られるからな……立ち技の攻防よりは、ガードしやすい……)
しかし、たとえパウンドをガードできても、この状態から脱出しなければ時間切れの判定負けである。
瓜子は限界突破の状態が終わりを迎える前に、この窮地から脱しなければならなかった。
(でも、寝技勝負じゃメイさんにかなわない……なんとかメイさんの意表を突いて、隙をつくるんだ……)
メイのパウンドをガードしながら、瓜子は懸命に頭を巡らせる。
もともと痛んでいた左腕は、メイの拳をくらうごとに頼りなく軋んだ。
そして、メイがひときわ右腕を大きく振りかぶったとき、天啓のように閃くものがあった。
メイはまた、フルスイングの肘打ちを狙っているのだろう。
その破壊力は恐ろしいが、フルスイングはモーションが大きい。今の瓜子であれば、この時間を有効に使うことができた。
(これなら、どうだ……!)
瓜子は倒れた状態でかなう限りの勢いをつけて、左手を繰り出した。
ただし、拳ではなく掌打である。まともに握れない拳よりは、まだしも掌打のほうが破壊力を期待できるはずであった。
痛めている左腕をあえて使うのは、メイが右肘を振るおうとしているためである。
今ならば、左の攻撃を防御するすべはない。そして、大きく弧を描くフルスイングの肘打ちよりも、真っ直ぐの掌打のほうが先に当てられるはずであった。
狙うは、メイの下顎である。
メイの右肘が大鉈のように振るわれるのを目の端でとらえながら、瓜子はメイの下顎に掌打を叩きつけた。
その衝撃で、瓜子の左手首に鈍い痛みが広がっていく。
それと同時に、瓜子にまたがったメイの身が蠕動するのが感じられた。
無防備な下顎に掌打をくらえば、脳震盪を起こしてもおかしくはないのだ。
瓜子の左手首が痛んだ分、メイの頭部にも然るべき衝撃が行き渡っているはずであった。
(このままメイさんを押しのけて、脱出する……!)
メイの下顎に左手をあてがったまま、瓜子は身を起こそうとした。
すると――頼りなく震えていたメイの身が、力感を取り戻す。
そしてメイは、肘打ちを中止させた右手で瓜子の左手首をわしづかみにした。
それと同時に、メイの重みが腰の上から消えていく。
これは、先のラウンドでも味わわされた感覚である。
同じ感覚が、ゆっくりと流れる時間の中で繰り返されていた。
メイは再び、腕ひしぎ十字固めを狙っているのだ。
(今なら、あたしも対応できますよ……!)
メイの身体が、ゆっくりと瓜子の左側に移動していく。
左足だけを瓜子の上に残して、右足が瓜子の鼻先に迫ってきた。
瓜子は右手でその右足を受け止めつつ、上体を起こした。
左腕をロックされる前に身を起こせば、そのまま立ち上がってスタンドに戻れるのだ。
やはりメイは頭部にダメージがあるのか、瓜子でもしっかり対応できるぐらい動きが緩慢になっていた。
(この後は、どうする……? グラウンドで上を取るか、スタンドに戻るか……スタンドに戻るべきだろうけど、メイさんが立つのが遅れたら、集中が途切れるかもしれない……)
瓜子がそのように考えたとき、メイの身が奇怪な動きを見せた。
瓜子に払われた右足が、そのまま瓜子の左腕に巻きついてきたのだ。
(これは――!)
変形の、オモプラッタである。
瓜子はユーリや鞠山選手とのスパーで、何度かこの攻撃をくらったことがあった。
左手首はまだ握られた状態であるため、このまま黙って待っていたら両足で左腕を絡め取られて、肘や肩を極められる。
それを回避するには、自分から前転をして拘束から逃げるしかなかった。
(くそっ……! まさかメイさんが、こんな返し技まで練習してたなんて……!)
プレスマン道場に入門した当初、メイはグラウンドにおいてパウンドとチョークスリーパーの一本槍であったのだ。
その後も寝技はおもに回避の技術を重視して、攻撃に関しては腕ひしぎ十字固めや三角締めといった基本技を学ぶばかりであったが――瓜子と離別した後に、こんな柔術の高等テクニックを体得していたのだった。
(……それだけ、メイさんは頑張ってきたんですね……)
焦燥の思いに、温かい思いが入り混じる。
しかしその間も、瓜子の身は必死に回避の動きを辿っていた。
自らマットに頭をつけて、前方に一回転する。
その勢いを利用して左腕をひっこぬき、立ち上がるのだ。
だが――瓜子がどれだけ力を込めようとも、左腕は抜けなかった。
左腕そのものはダメージを負っているため力もいれにくかったものの、瓜子は前転の勢いを加算しているのである。それでもメイは両手で瓜子の左手首を握りしめて、決して離そうとしなかった。
(オモプラッタは足で腕を拘束する技だから、手首にこだわる必要はない。つまり――)
このオモプラッタも、真の狙いではなかったのだ。
左腕を抜くことできなかった瓜子は、再びマットに引きずり倒されて――そこで、メイの真意を知ることができた。
メイの右足が、再び瓜子の鼻先にかぶさってくる。
メイは変形のオモプラッタを経て、再び腕ひしぎ十字固めの形に持ち込んだのだ。
メイの右足に右手をかけながら、瓜子は電流のような思考が走り抜けるのを感じた。
この防御は、もう間に合わない。
瓜子は後手を踏んでいるし、もともと体力も枯渇している。メイも動きは鈍っていたが、まだまだ瓜子よりは元気であるのだ。瓜子の左手首をつかんだ両手の力強さや、顔にかけられた右足の重み――さらに、メイに触れているすべての箇所からさまざまな情報がなだれこみ、瓜子に無情の事実を告げた。
瓜子がどのようにあがこうとも、この腕ひしぎ十字固めからは逃げられない。
あとは、肘靭帯を破壊されるか、その前にタップするかである。
ぎりぎりの瀬戸際で戦っていた瓜子は、ついに崖っぷちから突き落とされてしまったのだった。
瓜子の胸中に、さまざまな思いが駆け巡る。
メイに敗北する悔しさと、メイの強さに感服する思い――メイの成長を喜ぶ思いと、自分の不甲斐なさを嘆く思い――相反する感情が、同じ質量で瓜子の内部に渦巻いた。
(いや……だけど……)
限界を超えた世界の中で、瓜子は第三の道を見出した。
いや――正確に言うならば、二つしか存在しない道の、さらにその先の選択肢である。
瓜子の防御は、間に合わない。
この腕ひしぎ十字固めは、完成する。
だが――完成の後に、逃げることは可能であった。
かつてはユーリも同じようにして、ベリーニャ選手の腕ひしぎ十字固めから脱出したのである。
(それでユーリさんは、肘靭帯を損傷して……何ヶ月も欠場することになったんだ……)
きっと瓜子も同じように、肘靭帯を損傷することだろう。
いや、ユーリほど関節が柔軟でない瓜子は、もっとひどい怪我を負うかもしれなかった。
では、このままタップするべきなのだろうか?
現時点で、瓜子は何の痛みも覚えていないのに――自分の身を守るために、勝利をあきらめるべきなのだろうか?
(……それじゃあ、スパーと変わらないじゃないか……)
瓜子が脱出を試みても、まず間違いなく左肘は壊れる。
しかしそれは、いまだ来たらぬ世界の話であり――瓜子が何より大切に思っているのは、今この瞬間であるはずであった。
(……みんな、ごめんなさい。あたしもユーリさんと一緒で……最後まで、勝負をあきらめたくないんです……)
あの日のユーリの軌跡を辿るようにして、瓜子はメイの右足に手をかけて、おもいきりブリッジをした。
そして今度は、後方に転回するのだ。
瓜子の身が回転するさなか、鋭い痛みが左肘と左肩に走り抜けていく。
その痛みも、今の瓜子にはひどくゆっくりと感じられる。それこそ、神経に一本ずつ針を刺されていくような心地であった。
それでも左肩の痛みは、瓜子の動きとともにじょじょにやわらいでいったが――左肘の痛みは、増すばかりである。
メイの両足にはさまれて、手首を固定された瓜子の左腕は、決して曲がってはいけない方向にねじ曲げられていき――その痛みが頂点に達したとき、ばちばちという破裂音のようなものが肘の内部に弾け散った。
その感触のおぞましさに、瓜子はマウスピースを噛みしめる。
そうしてじわじわと広がっていく激烈なる痛みの中、瓜子は後方回転を完遂し――ありえない方向にねじれたことで拘束のゆるんだ左腕を、一気に引き抜いた。
瓜子は苦悶のうめきをこらえながら、身を起こす。
するとメイが瓜子の胸もとを蹴りつけて、その反動を利用しながら後方転回した。
あの日のベリーニャ選手は防御が間に合わず、ユーリの膝蹴りで肋骨を砕かれていたが――メイは見事に、逃げおおせたのだ。
そんなメイの強靭さに心を満たされながら、瓜子はメイのもとに追いすがった。
回転の勢いのままに身を起こしたメイは、千鳥足で後方に下がっていく。
やはり、掌打のダメージがあるのだろう。明らかに、脳震盪を起こしている人間の動きであった。
だが、メイの双眸は爛々と燃えたままである。
それを嬉しく思いながら、瓜子は左腕を振りかぶった。
それだけで、さらなる激痛が左肘に爆発する。
そして、その痛みが急速に鋭さを増していった。
世界がゆっくりと、もとの時間を取り戻していく。
二度目の限界突破も、ついに終焉を迎えたのだ。
であれば――おそらくこれが、瓜子の最後の一撃であった。
メイは気迫の炎を噴きあげながら、自らも右拳を振りかぶった。
左腕は、しっかりガードを固めている。
瓜子の左腕にはまともな攻撃を繰り出す力はないと見て、次に繰り出される右の攻撃こそが本命であると判断したのだ。
それこそが、瓜子の策略であった。
瓜子が右の攻撃を繰り出したところで、防御されておしまいだろう。
それを見越して、瓜子は何の力も持たない左腕を振りかぶったのだった。
(これをかわしたら、きっとメイさんの勝ちですよ……)
瓜子はフックの形で、左拳を繰り出す。
しかし、肘の靭帯が壊れているために、自分の意思では曲げることものばすこともままならない。
そんな左腕の手首を、右手でひっつかむ。
そのままおもいきり右手を引くと、左肘に新たな激痛が爆発したが、瓜子はかまわずメイのもとに突進した。
そして、靭帯が断裂しているであろう左肘を、メイの下顎に叩きつける。
メイは瓜子の頭に右フックを炸裂させてから、その勢いのままに突っ伏した。
したたかに頭を殴られた瓜子は、ふらふらと倒れかかり――そして、フェンスに衝突した。
マットに倒れ伏したメイは、ぴくりとも動かない。
瓜子は全身にのしかかる虚脱感と、左肘に跳ね回る鋭い激痛と、メイの右フックでもたらされた眩暈に耐えながら、死力を尽くしてフェンスから身を離し、背筋をのばしてみせた。
それだけの動きで、瓜子は死にたくなるぐらいの苦しさである。
頭は朦朧として、上下の感覚も虚ろになっていく。
すべての臓物が咽喉の奥からせりあがってきて、口から噴きこぼれてしまいそうだった。
それらのすべてに耐えながら、瓜子はひたすら立ち尽くした。
あとはもう、自分の足で立ち尽くすだけの力しか残されていなかった。
そうしてレフェリーは、厳しい眼差しで瓜子とメイの姿を見比べて――やがて、頭上で両腕を交差させる。
大歓声が渦を巻き、試合終了のブザーが鳴らされた。
『三ラウンド、三分五十四秒! 左エルボーにより、猪狩選手のKO勝利です!』
瓜子はその場に崩れ落ち、左腕を抱え込みながら、マットに額を押しつけた。
試合中はアドレナリンが放出されて痛みを緩和するはずであるのに、こらえようのない激痛が左肘に躍動している。
だが――それでも、瓜子は勝ったのだ。
あれほどに強いメイに、勝つことができた。その代償が、この激烈なる痛みであった。
(ユーリさんも……あのとき、こんなに痛かったんですね……)
瓜子の脳裏には、ユーリの天使のような笑顔が浮かびあがっていた。
ユーリは肘靭帯を破壊された直後、膝蹴りでベリーニャ選手の肋骨を粉砕し、そのままグラウンドで上を取って、数十秒間も戦い抜いたのだ。
そして試合が終わった後は、ベリーニャ選手と笑顔で握手を交わしていた。
それがどれだけ化け物じみた強靭さによるものであるのか、瓜子は我が身で思い知らされることになった。
「この馬鹿野郎! ドクター、早くこいつを診てやってくれ!」
頭上に、立松のわめき声が響きわたる。
しかし瓜子は、顔を上げることもままならない。このままどろどろと溶け崩れて、マットと一体化してしまいそうな心地であった。
そんな中、おそらくはリングドクターに左腕をつかまれて、瓜子はついにうめき声をこぼしてしまう。
そうして誰かに半身を引き起こされると、閉ざしたまぶたの向こう側に白い輝きを感じた。
大歓声は飽和して、わんわんと空気を振動させている。
瓜子の意識が遠のくたびに、左肘の激痛が覚醒をもたらした。
そうして瓜子が、夢とうつつの境目を見失いそうになったとき――
ふいに、身体の前面が温もりに包まれた。
目を開ける前から、もうその正体は知れている。
懐かしさのあまり、瓜子は涙をこぼしてしまった。
「メイさん……お疲れ様でした……」
瓜子が朦朧とした頭でつぶやくと、「馬鹿」という声が返ってきた。
ちょっとハスキーで咽喉にからんだ、女性としては低めの声――瓜子が力ずくでまぶたを開くと、目の端に赤みがかった金色のドレッドヘアーが揺れていた。
「ウリコの馬鹿。ウリコなんて、大嫌い」
「どうして……そんなこと言うんすか……?」
瓜子は鉛のように重い右腕を持ち上げて、自分に抱きついているメイの背中を抱え込んだ。
「……僕、ウリコの腕、折りたくなかった。ウリコ、タップするべきだった」
メイの涙声が、瓜子の鼓膜を心地好く震わせる。
瓜子はメイの身をぎゅっと抱きすくめながら、「ごめんなさい……」と答えた。
「でも、メイさんが全力を出してくれて、嬉しかったです……自分はメイさんのこと、大好きっすよ……」
「……ウリコの馬鹿」と繰り返して、メイはいっそうの力で瓜子の身を抱きすくめてくる。
しかし、メイ本来の腕力は戻っていない。メイもまた、すべての力を振り絞った直後であるのだ。そのメイらしからぬ力ない抱擁が、瓜子をいっそう幸せな心地にさせて――そして、瓜子にいっそうの涙を流させたのだった。