12 決死の覚悟
「……やっぱりメイさんは、生半可な相手じゃなかったな」
瓜子の左腕を氷嚢でもみくちゃにしながら、立松はそのように言い捨てた。
瓜子はひたすら荒い呼吸を繰り返し、答えることもままならない。今の瓜子は先刻の灰原選手に負けないぐらい、力ない姿をさらしているはずであった。
「あと一秒でもブザーが遅かったら、お前さんの左腕は終わってただろう。いちおう聞いておくが……まだやるか?」
声を発することもできない瓜子は、視線で立松に訴えかける。
立松は厳しい面持ちで、「そうか」と言った。
「だけどお前さんは、もう限界だ。弥生子ちゃんとの試合でも言ったと思うが……無理だと思ったら、遠慮なくタオルを放るぞ。今日が最後の試合じゃねえんだからな」
瓜子はうなずくこともしんどかったので、せめてまばたきを送ってみせる。
立松は執拗に瓜子の左腕を冷やしながら、「よし」と口調をあらためた。
「それじゃあ、勝つための作戦だ。もうお前さんには足を使う余力もないだろうが、メイさんだってあれだけ動けば相応にスタミナをつかってるはずだ。それでもお前さんに比べれば余力も十分だろうが、これまでみたいにぴゅんぴゅん動くことはできないだろう。おそらくは、中間距離でのヒットアンドアウェイか……もしくは、テイクダウンの仕掛けだろうな。今のお前さんをぶっ潰すには、それが一番効果的だからな」
ともすれば薄れそうになる意識を懸命に引き締めて、瓜子は立松の言葉を頭に刻みつけた。
「どちらにせよ、中間距離をキープされたら勝ち目はない。頼みの綱は、インファイトだ。……しかしお前さんは、インファイトでもやや打ち負けてるぐらいだった。さっきとおんなじようなざまだったら、致命的なダメージをもらう前にタオルを放るぞ」
「…………」
「そんな目で見るんじゃねえよ。セコンドは、選手の安全を守る役割なんだからな」
すると、背後からサイトーの声も聞こえてきた。
「タオルを放るセコンドの身にもなりやがれよ、このイノシシ娘。そんなもん、手前で試合をあきらめるよりしんどい決断なんだからよ」
瓜子はそちらを振り返る体力もなかったが、サイトーの声には普段通りの力強さとふてぶてしさがみなぎっていた。
「だから、インファイトでも打ち負けるな。どんなへろへろでも、ぶちのめしてみせろ。それが無理なら、今ここでリタイアしちまえ」
「い、猪狩さんなら、大丈夫ッスよ! どんなに苦しくても、絶対に逆転できるッス!」
蝉川日和のわめき声とともに、頭にのせられた氷嚢がじゃらりと揺れた。
そして、立松が瓜子の瞳を覗き込んでくる。
「メイさんも火がつけば、インファイトに乗ってくるかもしれん。しかしそんな、相手頼りでプランは立てられねえからな。強引に近づいて、攻撃を叩き込め。組み技を仕掛ける隙を与えるな。万が一にもテイクダウンを取られたら、相手に抱きついてブレイク待ちだ。それ以外に、勝ち目はない」
そこに、『セコンドアウト!』のアナウンスが響きわたった。
立松は最後に氷嚢をひと巡りさせてから、瓜子の左腕を持ち上げた。
「おそらく左手の攻撃は、威力も半減以下だろう。左はフェイントに使って、右で仕留めろ。スイッチしても、忘れるなよ」
瓜子は心の中で(押忍)と応じながら、震える両膝を励まして立ち上がった。
一分間のインターバルでは、ろくに体力も回復していない。瓜子の身は、いまだ極度の虚脱状態にあった。
何気なく自分の身を見下ろすと、胸もとが赤く染まっている。
瓜子は下唇の内側を切っており、そこから滴った血が試合衣装を汚したのだ。うがいで清めた口内にも、すでに新しい血の味が広がっていた。
呼吸はまったく整っておらず、今も胸もとと肩が大きく上下している。
咽喉や肺の焼けるような痛みもそのままで、頭には白い火花が明滅していた。
しかし瓜子は、この状態から勝利を目指すのだ。
瓜子が負けるのは、意識が飛ばされたときとタオルを放られたときのみである。
それが、瓜子の覚悟であった。
そうして、最終ラウンドを開始するブザーが鳴らされて――それと同時に、レフェリーが「タイムストップ!」と宣告した。
瓜子が試合を継続できる状態であるかどうか、確認しようというのだ。
これは、赤星弥生子との対戦でも見られた一幕であった。
あのときと同じように、瓜子はめいっぱい背筋をのばしてレフェリーと対峙する。
拳を握られたならば全力で押し返し、歩くように指示されたならば死力を振り絞って真っ直ぐ歩く。それだけでなけなしのスタミナを削られまくったが、レフェリーストップを回避するためにはそうするしかなかった。
レフェリーはきわめて難しい面持ちでうなずいてから、試合再開のジェスチャーを示す。
不安げにざわめいていた客席に、あらためて歓声がわきたったが――ただし、不安げな気配はそのまま残されていた。
(どう見たって、あたしは虫の息なんだろうしな……)
それでも瓜子はしっかりファイティングポーズを取って、ケージの中央に進み出る。
もっとも深刻であったのはスタミナの枯渇であったが、瓜子は左腕と左足にも甚大なダメージを負っていた。
強烈な肘打ちをくらったあげく、肘靭帯をのばされかけた左腕は、もはやまともに拳を握ることもままならない。
二発のカーフキックをクリーンヒットされた左足には、まだ痺れたような感覚が残されていた。
(左は、軸足にできない……つまり、左のパンチと右の蹴りはまともに使えないってことだ……)
そしてスタミナは枯渇しており、今も頭は霞みがかっている。見えない甲冑でも纏っているように身体が重く、肉体の内部にも濃密な倦怠感があふれかえっていた。
(そういえば、途中でレバーブローもくらってるんだっけ……なんだか、懐かしいや……)
集中力の限界突破を経ているため、時間の感覚もあやふやになっている。
ただ確かであるのは、残された時間が五分きりという事実であった。
(メイさんに勝つには、もういっぺん限界を超えるしかないけど……上手くその状況に持ち込んでも、戦況は五分かそれ以下だ……)
しかしまた、その状況に持ち込めなければ、勝率はゼロであろう。
瓜子はこの惨憺たる状態で、過酷なインファイトに挑むしかなかった。
(それに、メイさんもインファイトを望んでるだろうけど……それ以上に、今日のメイさんは勝ちに徹するはずだ……)
今の瓜子とインファイトに臨むというのは、瓜子に利する行為であるのだ。
メイがそのような妥協を許すとは、まったく思えなかった。
そんな瓜子の思いに呼応するように、メイは鋭いステップを踏んでいる。
これでも序盤よりは、動きが落ちているのだろうか。瓜子には、むしろ鋭さが増しているように感じられた。
(あたしにはもう、ステップを踏む余力もない……メイさんにしたって、近づかないと勝てないんだから……そこから、インファイトに持ち込むんだ……)
それを思えば、第一ラウンドが混戦であったのは僥倖であっただろう。もしもメイに2ポイントを取られていたら、あちらは逃げに徹することも可能であったのだった。
(今までのメイさんだったら、そんなポイントゲームには目もくれず、インファイトを仕掛けてきそうだけど……もうメイさんは、そんな次元の選手じゃないんだ……)
メイはとにかく、瓜子に勝とうとしている。
そのために、死力を尽くそうとしているのだ。
自分の楽しさを優先してインファイトなどに興じるのは、瓜子に対して失礼である――と、そんな風に考えているのかもしれなかった。
(感謝しますよ、メイさん……あたしも、死力を尽くします……)
ケージのど真ん中に辿り着いた瓜子は、そこでぴたりと動きを制止させた。
これではタックルの的であるが、覚束ない足取りでステップを踏むよりは、数段マシであるだろう。メイがどのような攻撃を仕掛けてきても、それをしっかりと受け止めて、インファイトに持ち込もうという所存であった。
メイは爛々と両眼を燃やしながら、前後にステップを踏んでいる。
瓜子は関節蹴りも選択肢に入れていたが、メイは用心深く間合いに入ろうとはしなかった。
(さあ、どうしますか……?)
瓜子は一心に、メイの挙動を見据える。
すると――メイは間合いの外から、一気に踏み込んできた。
そして、瓜子が反応するより早く、その身がアウトサイドに移動する。
最後の踏み込みで、瓜子の左手側に回り込んだのだ。
であれば、タックルではない。
瓜子がガードを固めながらアウトサイドに向き直ると、腕の隙間から鼻っ柱を叩かれた。
今の瓜子には、バットで殴られたような衝撃である。
反射的に手を出しそうになった瓜子は、かろうじて自制する。
メイの身は、すでに間合いの外に逃げていた。
メイは左ジャブを浅く当てただけで、すぐさま距離を取ったのだ。
そして次の瞬間には、インサイドから踏み込んできた。
瓜子はすかさず左足を引いて、前手となった右拳でジャブを振るう。
それをウェービングで回避しながら、メイは再び左ジャブを瓜子の顔面にヒットさせた。
そしてまた、間合いの外に逃げのびてしまう。
(ヒットアンドアウェイできたか……本当に、一番嫌な攻撃を選んでくれるなぁ……)
瓜子はいっそ清々しい心地で、そんな風に考えた。
この状態のままラウンドを終えれば、メイの判定勝利は確実なのである。それを回避するには、瓜子の側が動かざるを得なかった。
(カウンター狙いで、楽をするなってことですね……わかりましたよ、メイさん……)
瓜子は大きく呼吸をしながら、自ら前進した。
メイは俊敏にアウトサイドに逃げて、また左ジャブを振ってくる。
それを右腕でガードしながら、瓜子はなおも追いかけた。
しかしメイはサイドステップも多用して、瓜子を近づかせない。
瓜子は何だか、メイへの思いを試されているような心地であった。
(……これまではずっと、メイさんが追いかけてる立場でしたもんね……)
疲弊しきった瓜子の心が、温かいもので満たされる。
(でも、あたしは……ずっと隣に並んで、一緒に走ってるつもりでしたよ……)
そんな思いを込めて、瓜子は左ストレートを繰り出した。
しかし、左手は拳を固めることもままならないので、これはあくまでフェイントだ。
インサイドに回り込もうとしていたメイは、右腕で瓜子の左拳をガードする。
そこで瓜子は、鉛のように重い左足を振り上げた。
レバーを狙った、左ミドルである。
それも楽々とガードしたメイは、そのまま瓜子の蹴り足をつかもうとした。
(そう来ると思いました……!)
瓜子は左足をメイにつかませたまま、右足でマットを蹴った。
強引な、跳び膝蹴りである。
今のメイをインファイトに巻き込むには、もはや強引に仕掛けるしかなかった。
メイは頭部をガードしていた左腕を下ろして、瓜子の膝蹴りを受け止める。
その衝撃で、メイの軸がわずかながらに揺らいだ。
そのために、瓜子は虚脱した総身の力を振り絞ったのだ。
そうして瓜子は両足がマットに着地するよりも早く、さらなる力を振り絞って左フックを射出した。
これも、牽制の攻撃である。
しかし今の瓜子はすべての力を振り絞らない限り、牽制の攻撃を出すことさえかなわない。
鉛のように重い身体で試合を続けるには、すべての攻撃に死力を振り絞るしかなかった。
瓜子の無茶苦茶な左フックをガードしたメイは、そのまま距離を取ろうとする。
瓜子は死力を振り絞って右足を踏み込み、死力を振り絞って右の追い突きを繰り出した。
それをダッキングでかわしたメイは、レバーブローを繰り出してくる。
瓜子はレバーを撃たれる恐怖を懸命に呑み下し、さらなる一歩を踏み出した。
メイの拳は、瓜子の右脇腹の背中側にヒットする。
瓜子が踏み込んだことでレバーの直撃はまぬかれたが、今の瓜子には気の遠くなるような衝撃であった。
その苦しみをこらえながら、瓜子はすでに左アッパーを繰り出している。
この左腕ではダメージも見込めまいが、組みつきに対する牽制だ。本命は、この後の右フックであった。
だが――メイは瓜子が集中力の限界突破を迎えていても、五分かそれ以上の勝負を演じていたのである。
どれだけ死力を尽くしても、スタミナが枯渇した瓜子の攻撃にそれほどの鋭さは備わっていない。よって、渾身の右フックもあっさりガードされてしまった。
しかし、瓜子が攻撃を止めないことにより、メイも受け身に回されている。
このままメイを引き留めて、インファイトを継続させるのだ。
そして、無茶な動きをするたびに、瓜子の視界は白く濁っていく。
今にも意識が途絶えてしまいそうであったが、その代わりに、酸欠の苦しみが薄らいでいった。
身体は重くなるいっぽうであるのに、意識はクリアーになっていく。
これは、集中力の限界突破を迎える前兆である。
これまでにも体験していたが、窮地の状態にある瓜子は至極すみやかに二度目の限界突破を目指すことがかなうのだった。
(その代わりに、試合が終わったら熱を出して寝込むことになりますけどね……)
しかし何より重要であるのは、この試合ですべての力を尽くすことだ。
そんな思いを込めながら、瓜子は左のボディフックと右フックのコンビネーションを発動させた。
だが――のろのろと速度を落としていく世界の中で、瓜子は自分の失敗を悟る。
いや、瓜子が失敗したのではなく、またもやメイが後の先を取ったのだ。
メイは右腕でボディを守りながら、身を沈めていた。
そして、左腕が瓜子の足もとにのばされている。
メイはこのような至近距離から、片足タックルを狙ってきたのだ。
右腕は防御に回しているが、今の瓜子ならば左腕一本で倒せるという目論見であろうか。
メイの瞬発力を考えれば、それも分の悪い勝負ではなかった。
(でも、ここで引いたら、勝機はない……!)
瓜子は覚悟を固めて、右膝を振り上げた。
左足を軸にするのは危険であったが、今のポジションでは右膝を使うしかなかったのだ。
まずは、瓜子の左拳がボディを守るメイの右腕にヒットする。
そして、瓜子の右フックはメイの頭上を通りすぎ――右の膝蹴りが、メイの腹部にめり込んだ。
タイミング的には、クリーンヒットといっていいだろう。
しかし、カーフキックで痛めつけられていた瓜子の左足は、わずかに重心を乱しており――それが、膝蹴りの威力を半減させていた。
メイの左腕が、瓜子の右膝を抱え込んでいく。
そして、メイの肩が瓜子の腹に衝突した。
果てしなく緩慢な世界の中で、瓜子はゆっくりと倒れ込み――そして、再びメイにマウントポジションを取られてしまったのだった。