11 限界の向こう側
メイの左拳が、瓜子の右脇腹にめりこんでいく。
しかし瓜子が身をよじったことで、なんとかレバーの直撃はまぬがれた。メイの拳の半分がたは、肋骨で受け止めることがかなったのだ。
しかし、並の骨密度であったならば、肋骨をへし折られていたことだろう。
そして、半分がたは防げたが、もう半分の衝撃は体内に浸透している。レバーやさまざまな臓器を揺さぶられて、瓜子は吐き気をもよおすほどであった。
しかし、悶絶しているいとまはない。
瓜子の左拳をガードしたメイの右腕が、前方にのばされつつあった。
パンチではなく、瓜子につかみかかろうという動きだ。
しかし瓜子はそちらを無視して、左膝を突き上げた。
メイの猛攻にさらされながら、瓜子も懸命に目を凝らし――そうして、メイの真意を悟ったのだ。メイは右腕をのばしつつ、右足も振りかざして三度目のカーフキックを狙っていたのだった。
(メイさんの動きは、フェイント尽くしだ。初動に気を取られていたら、いつかやられる)
これこそが、メイがこの一年で積み上げてきた成長であるのだろう。
判断の早さも、身体能力も、技のバリエーションも、すべてが向上している。それらのすべてを振り絞って、メイは瓜子の特異な力にあらがっているのだった。
であれば、瓜子もすべての力を振り絞らなくてはならない。
カーフキックをかわすために振り上げた左足は、そのまま膝蹴りとして射出した。
テイクダウンをくらうリスクは生じるが、もはやリスクを恐れる猶予はなかった。恐るべき精度と破壊力を持つメイの猛攻をしのぐには、こちらも全力で攻撃を振るうしかなかった。
しかし、この膝蹴りも防がれるだろう。
瓜子のボディを痛めつけたメイの左腕が、すでにその動きを見せていた。
しかし、それでいい。メイを防御に回らせなければ、さらなる攻撃が振るわれるのである。
(なんとか、ここで優勢を取るんだ)
メイの右腕は組み技のフェイント、左腕は防御、右足はカーフキックに使われている。ここは、メイを出し抜く好機であった。
瓜子は攻撃に使った左拳を引きながら、左膝を振り上げている状態だ。
同じ側の手足で攻撃を振るっているため、きわめて不安定な体勢であったが――右腕は、完全にフリーであった。
この位置取りで、この体勢であるならば、右の肘打ちしか選択肢はない。
しかしきっとメイであれば、その事実を瓜子よりも早く察していることだろう。
であれば――予測できても避けようのない攻撃を繰り出すしかなかった。
緩慢なる時間の中で、瓜子はかなう限り肉体の軸を整えながら、右肘を旋回させる。
軌道は、斜めに振り下ろす格好だ。
両腕を戻すことが間に合わないメイは、首を振って回避するしかない。であれば、最悪でも肩や鎖骨には当てられるはずであった。
だが――またもや未来を予知するかのように、瓜子は自分の攻撃が空振りに終わることを確信した。
その後に、頭で理解する。まだカーフキックを振るっているさなかであるメイが、左足一本で後方に跳躍しようとしているのだ。
メイは攻撃を出しながら、回避の行動を取ったのである。
いったいどれだけの動体視力と身体能力と一瞬の判断力を兼ね備えていたら、そんな真似が可能であるのか――すべての現象をゆっくりと知覚しているからこそ、瓜子はメイの驚異的な力を満身で味わわされることになった。
(こんなのは、イヴォンヌ選手以上だ……メイさんなら、イヴォンヌ選手と真正面からやりあっても勝てますよ)
瓜子の肉体は、すでに制止も変更も許されない状態まで進んでいる。よって、不発に終わる攻撃が終了するのを待たなくてはならなかった。
メイが後方に跳んだため、瓜子の膝蹴りは腹をガードしたメイの左腕に浅く当たる。
その勢いをも利用する格好でメイは跳びのき、瓜子の右肘はあえなく空を切った。
そして瓜子は、次の攻撃に備えて力をたわめる。
左足はそのまま下ろして、戻したばかりの左拳を振るうのだ。
きっとメイであれば何らかの手段で防御するだろうが、後手に回ることは許されない。今のメイに先手を許したならば、いっそうの窮地に見舞われるはずであった。
(怖いのは、組みつきだ。それに……この状態も、長くはもたない)
瓜子の視界は、すでに白く霞み始めている。
瓜子はもう危険なぐらい長い時間、呼吸をしていないはずであるのだ。瓜子は何回でも限界を飛び越えてみせようという覚悟であったが、限界突破が解除された直後はもっとも無防備な状態であり――メイであれば、その間隙を見逃すはずがなかった。
(サキさんはそこで距離を取って、あたしをスタミナ切れに追い込もうとしたけど……メイさんなら、真正面からたたみかけてくるだろうからな)
嬉しさと恐ろしさが複雑に絡み合った感覚が、瓜子の胸に満ちている。
そして瓜子は左足を下ろしながら、追い突きの格好で左拳を繰り出した。
いっぽうメイは、ようやくマットに降り立ったところである。
そして、メイの筋肉の微細な動きが、次の行動を瓜子に報せた。
メイは身を屈めることで瓜子の拳をかわし、そのままタックルを狙ってくる。
であれば、こちらは膝蹴りで迎え撃つしかなかった。
(一瞬でも早く動いて、効果的な一撃にするんだ!)
しかし、瞬発力はメイのほうが上である。
瓜子は即時に右膝を振り上げたが、その瞬間にはもうクリーンヒットを望めないことが確定していた。
それでも、より深いダメージをメイの身に刻みつける。
瓜子がテイクダウンを取られることはほぼ確定しているので、その後のメイの動きを少しでも鈍らせる必要があった。
だが――そんな思いとは裏腹に、瓜子の身が頼りなく揺らいだ。
体重を支える左足の感覚が、鈍っている。ここにきて、二発のカーフキックによるダメージが表面化したのだ。
(くそっ! よりにもよって、こんなタイミングで――!)
瓜子もまた肉体に過度な負荷をかけているため、ダメージを負っていた左足が真っ先に限界を迎えたのだ。
痛みならばこらえることもできるが、カーフキックのダメージは神経を痺れさせる。瓜子がどれだけ歯を食いしばろうとも、感覚の鈍った左足が揺らぐことを制御することはかなわなかった。
瓜子の左ストレートはかわされて、右の膝蹴りはタックルの勢いに呑み込まれる。
そして瓜子は、痺れた左足をメイの両腕に絡め取られて、後方に倒れ込むことになった。
マットに落ちた背中に、重い衝撃が走り抜ける。
その衝撃によって、限界突破の不可思議な感覚が弾け散った。
瓜子の視界が、白濁する。
そんな状態のまま、瓜子の顔面に凄まじい衝撃が走り抜けた。
瓜子は半ば半覚醒の状態で、頭を抱え込む。
すると今度はその腕に、同じだけの衝撃が走り抜けた。
瓜子の腰にまたがったメイが、パウンドを振るっているのだ。
ようやくその事実を認識した瓜子は、しっかりガードを固めようと試みたが――腕にはまったく力が入らず、血の代わりに溶けた鉛でも流れているような感覚であった。
限界突破が解除された直後の、虚脱状態である。
これまで感じていなかった酸欠の苦しみが、一気に押し寄せてくる。瓜子の咽喉と胸の内側には焼けるような痛みが渦巻き、頭の中には白い火花がちかちかと明滅していた。
瓜子はこのような状態で、メイの猛攻に耐えなければならないのだ。
その絶望感が、瓜子の意識を地の底に引きずり込もうとする。
すべてをあきらめて、タップすることができれば、どんなに楽になれるか――そんな想念がよぎるぐらい、瓜子は追い込まれていた。
しかし瓜子は、すんでのところで踏み止まる。
どれほど苦しくとも、自分から勝利をあきらめることは許されなかった。
(ここで負けたら……サキさんにも弥生子さんにも顔向けできませんよ)
サキと赤星弥生子はそれぞれの戦略でもって、限界突破の状態にある瓜子から逃げおおせた。それでも瓜子はこの絶大なる虚脱感を乗り越えて、二度目の限界突破に踏み込み――なんとか、敗北をまぬがれたのである。
(弥生子さんのときなんて、二度目の限界突破の最中に大怪獣タイムが発動されて……それでも決着がつかなくて、おたがいへろへろの状態で殴り合うことになったんですからね)
現在の苦境を他人事のように眺めながら、そのように考えている自分がいた。
その間も、メイは凶悪なパウンドを振るっている。瓜子は鉛のように重い腕で何とかガードしようとしているが、何発かの拳は顔面やこめかみに炸裂していた。
(今はまだ、あのときほど苦しくありません。こんな状態で、試合をあきらめたら……誰より、メイさんに失礼っすよね)
心の中ではメイに笑いかけつつ、瓜子は瀕死のマグロさながらにのたうつことになった。
遅まきながら、メイの重心を崩そうという意識が働いたのだ。
瓜子は極度の虚脱状態にあるため、これだけでも地獄の苦しみである。
そして当然のように、メイの重心は崩れない。メイは適度に腰を浮かせることでブリッジの衝撃を受け流し、瓜子の腰にまたがり続けた。
そして、瓜子の背中がマットに落ちるたびに、パウンドが飛ばされてくる。
ガードの隙間を狙った、容赦のない攻撃だ。もともと火花が散っていた瓜子の頭にさらなる閃光が炸裂し、口の中にはどんどん血の味が広がっていった。そういえば、瓜子は下唇の内側が裂けていたのだ。
それでも瓜子は地獄の苦しみの中で、もがき続けるしかなかった。
きっと瓜子が暴れることをやめたら、即時にレフェリーストップをかけられてしまうだろう。それぐらい、瓜子は絶体絶命の状態にあるはずであった。
左右の拳を振り回しながら、メイはそんな瓜子の姿をじっと見下ろしている。
その黒い瞳に燃えあがる闘志の炎には、何の変化も見られなかったが――長い前髪の隙間から見え隠れするその顔には、何とも言えない表情がたたえられていた。
喜んでいるような、悲しんでいるような、怒っているような――それらのすべてが混在しているような表情である。
勝利を目前にしたメイがどのような心情であるのか、瓜子には想像もつかなかった。
(いや……メイさんだったら、この状況でも勝利が目前とは考えないのかな)
少なくとも、瓜子が逆の立場であったなら、そんな思いは慢心であると切り捨てるはずだ。
試合終了のブザーが鳴らされない限り、勝敗の行方は誰にもわからないはずであった。
そして――
いったん動きを止めたメイが、大きく右腕を振りかぶった。
重心が崩れないぎりぎりのラインまで身をよじり、右肘を鋭く曲げている。
その姿を目にした瞬間、瓜子は絶大なる恐怖と懐かしさを同時に味わわされた。
瓜子はメイとの最初の対戦でも、この姿を目にしている。
メイはこの体勢から、凄まじい破壊力を持つ肘打ちを叩きつけてきたのだ。
それを腕でガードした瓜子は前腕に巨大なたんこぶをこしらえて、危うくドクターストップをかけられそうな事態に至ったのだった。
(これを頭や顔にくらったら、確実に意識を飛ばされる!)
瓜子はほとんど感覚を失った両腕で、自分の頭を抱え込む。
それと同時に、メイの右肘がギロチンのように振り下ろされた。
三年前を上回る衝撃が、瓜子の全身を駆け巡っていく。
メイの右肘は瓜子の左前腕に激突していたが、マットに後頭部を打ちつけられた瓜子は、一瞬意識が飛んでいた。
そして、甚大なダメージにさらされた左腕が、メイの両腕につかまれる。
メイの意図を悟った瓜子は、今度こそ純然たる戦慄に見舞われた。
腰の上から、メイの重圧が消えている。
メイの身体は、瓜子の左側に倒れ込もうとしていた。
瓜子の左腕は、すでにメイの両足にはさまれている。
その右足が、瓜子の顔にのしかかってきた。
腕ひしぎ十字固めの体勢である。
先刻の強烈な肘打ちは、この体勢に持ち込むための布石であったのだ。
一瞬意識を失った瓜子は、何の防御も取れていない。
反射的にのばした右手の指先をすりぬけて、瓜子の左腕は真っ直ぐのばされていった。
(……間に合わない!)
そうして瓜子の左腕が真っ直ぐにのばされて、肘靭帯が断末魔の絶叫をあげようとした瞬間――大歓声の間をぬうようにして、ラウンド終了のブザーが鳴らされた。
レフェリーが割って入るよりも早く、メイは瓜子の左腕を解放する。
瓜子の左肘は――鈍い痛みを残しながら、靭帯を引き千切られてはいなかった。
瓜子はまともな思考もできない状態のまま、大の字の体勢でぜいぜいと息をつく。
いっぽうメイも半身を起こしていたが、なかなか立ち上がろうとはせず――ただ、燃える瞳で瓜子の姿を見下ろしていた。
(……はい。次のラウンドでは、巻き返してみせますよ)
瓜子がそんな思いを込めて見つめ返すと、メイは表情が崩れるのをこらえるように口もとを引き締めながら、立ち上がった。
瓜子もそれに続きたかったが――全身が鉛のように重く、まったく言うことを聞いてくれなかった。