10 緩慢な世界
「ところどころでヒヤヒヤさせられたが、まあ上出来だろう。ポイントなんざは、どう転ぶかもわからねえな」
瓜子の手足を氷嚢でマッサージしながら、立松はそのように言いたてた。
蝉川日和もフェンスから身を乗り出して、瓜子の首裏に氷嚢を当ててくれている。その冷たさが、なんとも心地好かった。
「ダメージも、まあ五分といっていいだろう。ただ、スタミナはこっちのほうがつかってるはずだな。それでも、休んでるヒマはねえぞ。今の内に、しっかり回復しておけ。……ああ、いいから声を出すんじゃねえよ」
瓜子は「押忍」と言いかけた口を閉ざして、立松のマッサージに身をゆだねた。
「あちらさんは、徹底して組み合い狙いだったな。そいつは想定内だったが、最初の一発はまんまとやられちまった。傍目にはわかりにくいが、踏み込みの鋭さが増してるんだろう。次はどういう作戦で来るかわからねえが、やっぱりあの踏み込みは要注意だ。あれをかわすには、こっちも動くしかない。動くだけで足りないなら、手も出していけ。それに、足もだな。遠い距離なら関節蹴り、あとはローでもいいぞ。ただし、テイクダウンだけは要注意だ。ローから上は、迂闊に蹴るな」
おおよそは、基本戦略と同じ内容である。
瓜子はそれを、より高い精度で実現しなければならないのだ。その過酷さが、瓜子の意欲を燃えさからせていた。
立松の肩越しには、メイの面倒を見ているリューク・プレスマンの背中が見える。
フェンスから身を乗り出しているのは見知らぬ白人の男性で、メイの背後に控えているのはビビアナ・アルバだ。メイはあくまで新宿プレスマン道場の所属であったが、リュークとビビアナの両名を準専属のトレーナーとして雇用しているのだった。
そして遠きフロリダでは、篠江会長に早見選手、レム・プレスマンに卯月選手などもメイの面倒を見ているのだろう。
同じ道場の所属でありながら、瓜子とはまったくチームメイトが異なっている。だからこそ、これほどに新鮮な心地で戦えるわけであった。
「それにやっぱり、メイさんは真正面からガンガン攻め込んできやがるな。サキや弥生子ちゃんみたいに、おかしな作戦は立ててないってこった。感覚的には、イヴォンヌなんかと近いんだろう。お前さんも、遠慮なくぶつかってやれ」
そんな言葉を最後に、『セコンドアウト!』のアナウンスが流された。
立松は最後に瓜子の手足の汗をぬぐってから、身を起こす。瓜子も立ち上がると、椅子を手にした立松が顔を寄せてきた。
「だが、メイさんもどんな隠し玉を持ってるかわからねえからな。昔の記憶には頼らずに、初めての相手だと思って迎え撃て」
瓜子は「押忍」と答えながら、両腕を屈伸させた。
メイの膝蹴りをくらったために多少の痛みが残されているものの、拳を振るうのに不都合はない。頭や胴体の痛みも、同様であった。
(まあ、ボロボロになるのは、これからだな)
まるでそれを望んでいるかのように、瓜子は清々しい心地である。
対角線上にたたずむメイと向かい合っていると、そんな気持ちはますます高まっていった。
『ラウンドツー!』のアナウンスに、レフェリーの「ファイト!」という声が重ねられる。
瓜子は限界まで気持ちを引き締めて、前進した。
メイがおかしな動きを見せない限り、こちらの戦略は変わらない。足を使って相手の俊敏さに対抗しつつ、こちらに優位なポジションを作るのだ。
ちなみに立松が言う「おかしな作戦」とは、集中力の限界突破ともいうべき瓜子の特異な現象に対する対策のことであった。
赤星弥生子は、序盤でひたすら瓜子の手足を狙っていた。
瓜子が限界突破を迎えても、手足が不自由であればおそるるに足りないという作戦である。
サキは序盤から猛攻を仕掛けて、瓜子を早々に限界突破まで導いた。
その上で距離を取り、瓜子のスタミナを枯渇させようという作戦であったのだ。
あと立松は言及しなかったが、策謀家たる鞠山選手も同じように対策を練っていた。グラップラーたる鞠山選手の場合は、最終ラウンドまで徹底的に打撃戦を避けるという作戦であった。
メイはそういった作戦を立てることなく、瓜子と真正面からぶつかりあっている。
いずれ瓜子が限界突破を迎えても、地力で迎え撃とうという心意気であるのだろう。瓜子の特異な力を三度まで味わいながら、メイはそれだけの覚悟を固めているのだった。
(だから、メイさんは凄いんですよ)
そんな思いを胸に、瓜子はステップを踏んだ。
メイもまた、しきりに前後のステップを見せている。一ラウンド目とまったく変わらない、素早く力強いステップだ。
これだけで、瓜子にとっては脅威である。
けっきょく一ラウンド目では、メイにすべてのファーストアタックを奪われていたのだ。それは、瓜子の機動力で対抗してきれていないという証であった。
(序盤は目を慣れさせる必要があったから、しかたない。気持ちを切り替えて、こっちから仕掛けるぞ)
アウトサイドに踏み込んだ瓜子は、すぐさまこちらに向きなおってきたメイの左膝を狙って関節蹴りを撃ち込んだ。
するとメイは瞬間的に左膝を突き上げて、瓜子の関節蹴りを弾き返す。
そしてその足で踏み込んで、左ジャブを振るってきた。
瓜子はしっかりガードを固めていたが、その間をすりぬけた拳に鼻っ柱を叩かれてしまう。
そして眼下には、瓜子の足もとにのばされるメイの右腕が見えた。
(くそっ、テイクダウンだけは――)
そのように考えかけた瓜子の視界が、ぐわんっと揺れた。
右のこめかみに、重い衝撃が走り抜けたのだ。
足もとにのばされた右腕はフェイントで、メイはジャブを打ったばかりの左拳でショートフックを繰り出したのだ。
瓜子は揺れる視界の中で、右アッパーを突き上げた。
メイの組みつきを阻止するための、半ば本能的な動きである。
しかし、瓜子の拳は空を切った。
そして、瓜子の左足に鈍い痛みが走り抜け――さらなる脅威が鼻先に迫ってきた。
左足の痛みはカーフキック、鼻先に迫っているのは右ストレートである。
メイは組みつきを狙うことなく、同じ位置に留まったまま、打撃のコンビネーションをたたみかけてきたのだった。
瓜子は視界が白くかすむのを感じながら、首を横に振る。
それでもかわしきれなかったメイの拳が、瓜子の左頬を深く削った。
その熱い痛みに耐えながら、瓜子は左拳を旋回させる。
渾身の、レバーブローである。
しかし、瓜子の拳は再び空を蹴った。
メイは右拳を引きながら、バックステップを踏んでいたのだ。
そうして瓜子のレバーブローを回避するなり、メイは再び肉迫してきた。
まずは、踏み込むと同時の左ジャブである。
それは回避のしようがない鋭さで、瓜子は再び鼻を叩かれることになった。
しかしこのジャブは、重い攻撃を放つための予備動作である。
瓜子はほとんど本能で、右ストレートを繰り出していた。
このタイミングであれば、メイがどんな攻撃を選択しようとも先に当てられるはずであった。
しかしメイは手を出さず、身体を左側に倒すようにして瓜子の拳を回避する。
次の瞬間、瓜子の左足に再度の衝撃が走り抜けた。
メイの身を倒した動きが、カーフキックに連動していたのだ。
同じ場所を蹴られたために、先ほどに倍する痛みが跳ねあがる。
何の防御もできないまま、二発のカーフキックをくらってしまったのだ。しかも相手は瓜子と同じ骨密度を持つメイであるのだから、瓜子にとっては体験のしたことのないような痛みであった。
(カーフは骨同士がぶつかるから、自爆する危険もあるのに……メイさんも、リスクを背負ってるんだ)
喜びとも戦慄ともつかない感覚に背筋を粟立たせながら、瓜子は痛んだ左足を引こうとした。
しかしその頃には、メイが身を沈めている。今度こそ、テイクダウンの仕掛けであろう。
そんなメイの動きが、じわじわとスローモーになっていく。
メイの猛攻が、ついに瓜子を集中力の限界突破へと導こうとしているのだ。
そうして瓜子の五感がこれまで以上の鋭さを帯びるとともに、ひとつの事実をもたらした。
メイは身を沈めてタックルのモーションを見せているが、それがフェイントであることが知れたのである。
メイの筋肉の微細な動きが、その事実を示している。
通常であれば決して見分けることのできない、きわめて微細な動きである。集中力の限界突破を迎えるのがあと半秒でも遅れていたならば、瓜子はそのフェイントに引っかかっていたはずであった。
メイの本当の狙いは、右アッパーだ。
そうと知覚した瓜子は首を横に振りながら、自らも右アッパーを射出した。
メイは低い体勢であるため、右アッパーを同時に放てば瓜子のほうが先に当たる。
それでも首を振ったのは、メイの攻撃の鋭さを考慮してのことであった。
これで瓜子の攻撃がヒットして、メイの攻撃をかわせるはずであったが――何か、奇怪な感覚が瓜子の背筋を這い回った。
何か、ピントがずれている。
瓜子は現状においてもっとも正しい行動を選択したはずであるのに、焼けつくような焦燥の感覚がのろのろと降りかかってきた。
(あたしの攻撃は当たらなくて、メイさんの攻撃が当たる……なんだよ、この感覚は?)
まるで、未来を予知しているかのようだ。
しかし、どれだけ集中を研ぎ澄ましたところで、人間にそのような真似ができるわけがない。集中力の限界突破とて十分に現実離れした現象であるのであろうが、未来の予知などというのは完全に超常現象であるはずであった。
だからこれは、瓜子の感覚が研ぎ澄まされた結果であるはずだ。
瓜子は何かを知覚しているのに、それを頭で処理することが追いついていないのである。
そうして瓜子がひとりで煩悶している間に、時間はゆっくりと流れ過ぎていき――ようやく、すべてが理解できた。
メイの頭の位置が、わずかにずれつつある。
そして、メイが放った右アッパーの軌道も、瓜子の予測からずれつつあった。
瓜子は筋肉の微細な動きから、メイの動きを測定したはずであるのに――メイが、異なる動きをしているのだ。
それはつまり、瓜子が回避の行動を取り、右アッパーを発射させたのちに、メイも行動をあらためたということであった。
(そんな……そんなことが、可能なのか? そんなのきっと、コンマ数秒の時間だぞ?)
自分の特異な状態を棚に置いて、瓜子は慄然とすることになった。
確かにメイはこれまでの対戦でも、恐るべき反応速度を見せていたものであるが――それとも、レベルが違う話であった。
(まさか……メイさんも、あたしと同じ状態にあるのか?)
瓜子は大きな戦慄を覚えたが、今はこの状況を何とかしなければならなかった。
このままでは、瓜子の攻撃をかわされて、メイの攻撃を当てられてしまうのだ。
しかし瓜子はすべての力を振り絞って首を横に振り、右アッパーを繰り出した。瓜子はそれをゆっくりと知覚しているだけで、赤星弥生子のように限界以上の身体能力を発揮できるわけではなかった。
今さら右アッパーの軌道を修正することはできないし、頭の位置を変えることもできない。
ならば――メイの攻撃から受けるダメージを、少しでも緩和させなければならなかった。
のろのろと迫りくるメイの右拳を見下ろしながら、瓜子はめいっぱい下顎を咽喉もとにひきつけて、マウスピースを噛みしめる。
右アッパーをくらうならば、とにかく脳にもたらされる衝撃をやわらげなければならないのだ。メイの右アッパーをまともにくらったら、それだけで意識を飛ばされてしまうはずであった。
(頭を揺らされないように、首を固める。今は、それしかない)
瓜子はのろのろと下顎を引き、メイはのろのろと右拳を突き上げてくる。
まるで、カタツムリの徒競走でも眺めているかのようだ。
しかし、瓜子にとっては試合の勝敗がかかった瀬戸際であった。
まずは、瓜子の右拳が虚空を走り抜けていく。
メイが信じ難い速度で首を傾け、瓜子の右アッパーを回避したのだ。
しかし、メイがどれだけの瞬発力を持っていようとも、こんな真似が可能なわけはない。瓜子が見誤ったのはメイの身体能力ではなく、一瞬の判断力であるはずであった。メイは瓜子が右アッパーのモーションを取ると同時に、回避の行動を取り――その判断の早さが、瓜子の目測を狂わせたのだった。
そして、メイの右拳がじわじわと近づいてくる。
それが瓜子の下顎の皮膚に触れる寸前、瓜子は限界まで首を固めることができた。
まずは合皮のグローブの感触が下顎に触れて、それが圧迫の感覚に変化して、最後に重い衝撃へと変ずる。
瓜子が首を引いたため、メイの右拳は下顎の前面と下唇のあたりに激突することになった。
下顎と下唇の痛覚が刺激されて、そののちに骨へと衝撃が伝達される。
おたがいの骨密度が尋常でないため、瓜子はそのまま下顎の皮膚と下唇がミンチにされてしまいそうな心地であった。
また実際、瓜子の口内には血の味が生まれている。
マウスピースをつけているにも拘わらず、下唇の内側が衝撃で裂けたのだ。今の瓜子は痛みすらもゆっくりと知覚するので、じわじわと肉を裂かれる拷問でも受けているような心地であったが――そんなものに怯んでいるいとまはなかった。
(あとは身体を引いて、衝撃を逃がす!)
瓜子はすでに、バックステップを踏んでいた。
首はすでに固めているので、衝撃を逃がすには全身で動く他なかったのだ。
幸いなことに、重い衝撃が下顎の骨から浸透しても、視界が揺れることはない。
かろうじて、脳震盪は回避できたのだ。
だが――瓜子の窮地は、終わっていなかった。
瓜子はバックステップを踏んでいるのに、メイの姿がまったく遠ざからないのだ。
瓜子が下がると同時に、メイが前進したのである。
なおかつ、瞬発力はメイのほうがまさっているため、両者の距離は開くどころか一瞬ごとに縮まっていた。
そして瓜子は、悪寒をゆっくり知覚する。
メイの左拳が、レバーブローのモーションを見せていたのだ。
瓜子はさらにマウスピースを噛みしめながら、身をよじることになった。
アッパーを放った瓜子の右腕はまだ戻されていないので、ガードすることもままならない。
そして、どれだけ筋肉を固めようとも、レバーブローの痛撃は防げない。だからこそ、レバーは人体の急所であるのだった。
(それなら、少しでも打点をずらすしかない。あとは……自分の攻撃を先に当てて、レバーブローの威力を弱めるんだ!)
レバーブローは弧を描くので、左の真っ直ぐのパンチを出せば先に当てることができる。
そのように判じた瓜子は、右腕を戻しきっていない不十分な体勢で左拳を繰り出すことになったが――そこで、息を呑むことになった。
瓜子にアッパーをヒットさせたメイの右腕が、ゆっくりと顔の前に戻されていく。
そしてそれは、完全に瓜子の左拳をガードできる位置取りであった。
(やっぱり、メイさんも……?)
身をよじり、左拳を繰り出しながら、瓜子は目の前にあるメイの顔を見据える。
メイの黒い瞳は、爛々と燃えており――そして一心に、瓜子の姿を見つめていた。
黒い顔は鋭く引き締まり、怪物を相手取る騎士のごとき凛々しさである。
そんなメイの凛然とした顔が、瓜子にひとつの確信をもたらした。
きっとメイは、集中力の限界突破など迎えていない。
驚異的な反応速度を発揮している瓜子に対抗するために、すべての力を振り絞っているのみであるのだ。メイは限界ぎりぎりのラインまで集中を研ぎ澄まし、瓜子の理不尽な力にあらがっているのだった。
瞬間的な判断の早さも、後の先を取って的確な行動を選択する知識も、迅速な反撃を可能にする筋力も――すべては、メイの鍛練の成果であった。
(本当に……今日は何回、メイさんは凄いって思わされるんでしょうね)
瓜子はまた、胸いっぱいの誇らしさを授かることになった。
そして――メイの硬い左拳が、瓜子の右脇腹を深々とえぐったのだった。