09 思いの深さ
瓜子は呼吸を整えながら、慎重に間合いを測った。
メイの猛攻によってこれ以上もなく闘争心をかきたてられているが、決して冷静さは失っていない。瓜子はどのような苦境を前にしても動揺しない図太さを武器にしているつもりであった。
(でもそれは、メイさんも同様だ。さっきの攻撃は、どれも強引で荒っぽかったけど……あたしの反撃を許さない計算ずくの動きだった)
その結果、瓜子は多少のダメージをもらい、それなりのスタミナを削られた。そして瓜子は、いまだ一発の攻撃も成功させていないのである。ここまでは、完全にメイのペースであった。
大歓声が吹き荒れる中、瓜子は余念なくステップを踏む。
先刻のメイは、瓜子の想定を超える鋭さで肉迫してきたのだ。であればこちらも、いっそう慎重にならなければならなかった。
(でも、慎重すぎたらペースを取り返せない。多少のリスクを背負ってでも、手を出すんだ)
瓜子はそのように思案しているが、メイの足が止まらないためになかなか攻撃の糸口をつかめない。メイは前後のステップが主体であるが、あまりに俊敏であるために、瓜子がどれだけ足を使っても有利な角度を確保できなかった。
この状態で蹴りを飛ばしたならば、テイクダウンの餌食であろう。
たとえリスクを背負うとしても、テイクダウンだけは回避しなければならない。
であれば、パンチ勝負であるが――こちらのパンチが届く距離であれば、相手の拳も届くのだ。相手にリズムを握られたまま、うかうかとインファイトに臨むことはできなかった。
(だからこそ、有利な位置取りを作らないといけないんだけど……メイさんが、それを許してくれない)
瓜子はしきりにスイッチを入れて、歩幅やテンポにも緩急をつけているが、メイはまったく惑わされた様子もなくステップを踏んでいる。瓜子がサイドに回ってもすぐさま正対してくるため、いつでも真正面の角度であった。
(むしろ、こっちから誘ってカウンターを狙うべきかもしれない)
瓜子がそのように考えたとき、メイの身が再び凄まじい勢いで肉迫してきた。
用心していた瓜子は、ボディアッパーで迎え撃つ。
それでメイの腹に一発を当てることがかなったが、突進の勢いは止められなかった。
サイドに逃げることもままならず、瓜子はフェンスに押し込まれてしまう。
再びの、壁レスリングである。
客席からはブーイングが飛ばされていたが、瓜子は舌を巻いていた。
(初回は徹底的に、組み技狙いなんだ。こっちだって、そんなパターンは想定してたけど……)
しかし瓜子は、また壁レスリングで不利なポジションになってしまっている。かえすがえすも、メイの動きがこちらの想定を上回っているのだ。
メイはストライカーであるし、瓜子と殴り合うことに一番の楽しさを見出している。二度目の対戦でもメイは組み技を主体にしていたが、あれは勝つための戦略であり――そして、不本意な戦略を行使しても勝利できなかったと、のちのち悲嘆に暮れていたのだ。
しかしきっと、今日のメイが悲嘆に暮れることはないのだろう。
メイは勝つために不本意な戦略を選んだのではなく、持てる力のすべてを振り絞って瓜子に勝利しようとしているのだ。メイの身から感じられる圧力が、瓜子にそんな確信をもたらした。
きっとそれがメイの成長であり、進化であるのだ。
楽しい殴り合いに興じるばかりでなく、MMAファイターとして戦略を練り抜いた上で、勝利を目指す。それを楽しいと思えるぐらい、メイは精神的に成長したのだろうと察せられた。
そうして試合が始まってから、瓜子は苦境の連続である。
その事実に、瓜子は一抹の申し訳なさを覚えるほどであった。
(それじゃあまるで、あたしの思いが足りてないみたいじゃないか)
メイはこれほど適切な戦略を練り抜いてきたのに、瓜子は完全に後手に回ってしまっている。それは何だか、この一戦に対する意気込みで負けてしまったような心地であった。
それはすなわち、メイの思いに応えられていないということになってしまうはずだ。
瓜子は全力で、メイの思いに応えなければならなかった。
(今度こそ、壁レスリングでも負けませんよ)
意を決した瓜子は四ツの差し手あらそいを放棄して、メイの首裏に両手を回した。
再びの、首相撲の体勢である。
フェンスに押し込まれた状態で首相撲を挑むのは、足を取られるリスクが生じる。そんなリスクを背負った上で、瓜子は打ち勝つ所存であった。
(昔から得意にしてる首相撲でまで、負けてたまるもんか)
メイもプレスマン道場に入門してからはジョンに首相撲の手ほどきを受けていたが、瓜子はキックの時代から稽古を積んでいたのである。瓜子はたいていの相手に背丈で負けていたため、首相撲を仕掛けられる機会が多く――そこで競り負けないために、懸命に稽古を積んできたのだった。
そしてメイは数少ない、瓜子と同じ背丈の相手である。
なんのハンデもない相手に、首相撲で負けるわけにはいかなかった。
(さあ、どうしますか?)
瓜子に首裏を取られたメイは、べったりと上半身をつけたまま動きを止めている。
テイクダウンを狙うには足もとに手をのばすのが常道であるが、そのために身を引くようであれば、すぐさま膝蹴りを叩き込む。瓜子のそんな覚悟が伝わって、メイも懸命に思考を巡らせているはずであった。
両者の動きが止まったため、レフェリーが「ファイト!」とうながしてくる。
膠着状態と見なされれば、次にはブレイクを命じられるだろう。不利なポジションである瓜子には、それでも十分な成果であった。
すると――メイはいっそう瓜子の身に重圧をかけながら、両腕を脇に差し込んできた。
その腕が、瓜子の背中とフェンスの間にぐいぐいと割り込んでこようとする。メイは足もとを狙うのではなく、双差しを狙ってきたのだ。
しかしそれも、想定内の動きである。
瓜子はメイの首裏を抱えたまま、両肘を相手の肩に押しつける格好で、突っ張った。相手の頭部を引きつけつつ、肩を押し出す格好だ。そうしてメイの胴体が瓜子の身から離れれば双差しを阻むことにもなるし、膝蹴りを撃ち込む隙間もできるはずであった。
パワーではメイのほうがまさっているものの、瓜子はフェンスにもたれた状態であるため、それを支えにすることができる。いっぽうメイは筋力のみで体勢を保持しなければならないため、瓜子にとって分の悪い勝負ではなかった。
そうして、もう少しで膝蹴りを繰り出すことができるかと思われたとき――メイの身が、再び脱力した。
先刻と、同じ現象である。
それでメイはひと息に瓜子の足を絡め取り、テイクダウンを成功させたのだ。
その瞬間を待ち受けていた瓜子は、メイが脱力すると同時に、腕を倒して左側に揺さぶった。
脱力していたメイはあらがうこともできず、横合いに倒れかかる。しかしそれも一瞬のことで、すぐさまメイの身にもとの力感が爆発した。
その力がこちらに及ぶ前に、瓜子は素早くステップを踏んで、メイの身を突き放す。そして同時に、右膝を振り上げた。
即時に体勢を整えて瓜子につかみかかろうとしたメイは、その膝蹴りを右腕でブロックする。
瓜子は右足を下ろしながら、左拳をスイングさせた。
メイはダッキングで、瓜子の左フックを回避する。
そしてさらに組みつきのモーションを見せたため、瓜子は右のボディフックを連動させた。
メイはその攻撃も、腕でガードする。
瓜子がこれだけ迎撃しても、下がろうとしない。このまま間を空けず、組み合いに持ち込もうという算段であるのだ。
しかし瓜子も、その事態を想定していた。
スタミナに自信のあるメイであれば、執拗に追撃してくるだろうと踏んでいたのだ。
そんなメイに向かって、瓜子は至近距離から左の縦肘を繰り出した。
メイはすかさず首を振り、瓜子の胴体につかみかかってくる。
その腕の下をくぐらせて、瓜子はもういっぺんボディフックを繰り出した。
メイは両腕を突き出していたため、ガードすることも不可能である。瓜子の右拳は、メイの左脇腹にクリーンヒットした。
それでも、メイの前進は止まらない。
瓜子はメイの首裏に左手を添えつつ、アウトサイドに回り込んだ。
そして、右の膝蹴りを突き上げる。
メイは瞬時に両腕をクロスして、その膝蹴りをブロックした。
そして、その腕で瓜子の膝を抱え込もうとする。
瓜子は右手も首裏に回して、首相撲の形を完成させつつ、メイの身を横合いに揺さぶった。
その勢いで膝にかけられたメイの両手を振りほどき、左足で右足を払う。
足を払われたメイはマットに倒れ込み、瓜子は――その上にのしかかった。
グラウンドは、メイのほうが得手である。
しかし、有利なポジションから開始すれば、瓜子が一方的に不利ということにはならないはずだ。瓜子もまた、すべての力を振り絞って勝利を目指す所存であった。
瓜子は勢いにまかせてマウントポジションを奪取しようと試みるが、メイに腰をつかまれて、左足を両足ではさみこまれてしまう。
メイも、さすがの反応速度である。瓜子は頭の片隅で感服しながら、あらためて重心を安定させた。
左足を取られたハーフガードだが、まだまだ瓜子が有利なポジションだ。フルガードまで戻されない限り、手を引くつもりはなかった。
メイは瓜子の身を押しやりながら、腰を切っていく。
足を閉じているので完全なエスケープは狙えないはずであるが、まずは瓜子の重心を崩して次の一手に進もうという算段であろう。瓜子は重心の安定を第一に考えつつ、一発のパウンドをメイの顔面に撃ち込んだ。
メイはとっさに顔をそらして衝撃を逃がしたのち、左腕で頭部を守る。
それで瓜子の身を押しやる力が弱まったため、瓜子もいっそう重心を安定させることができた。
しかしメイはまだ腰を切っているし、右腕で瓜子の腰を押している。
一瞬でも油断しならば、一気にフルガードまで戻されてしまいそうだ。瓜子はその事態を回避するべく、右足を大きく開きながら、再びパウンドを叩きつけた。
不十分な体勢であるため、大した威力は望めない。
しかし、瓜子の拳は硬いのだ。序盤で瓜子が味わわされた痛みと懸念が、メイの身に降りかかっているはずであった。
「……開いたぞ!」
と――大歓声の隙間から、立松の声が響きわたる。
メイが、両足を開いたのだ。
そして、瓜子の下にあるメイの肉体が、凄まじい力感を爆発させた。
瓜子は一瞬の判断で身を浮かし、マットについていた足先だけの力で横合いに跳びすさる。
メイはひとりで大きくのけぞってから、瓜子から遠ざかる形で横回転して、立ち上がった。
メイは、足を開くと同時にブリッジして、ポジションの逆転を狙ったのだ。瓜子が同じ場に留まっていたならば、今度はこちらが組み伏せられていたはずであった。
そして、まだしゃがみこんだ状態である瓜子のもとに、メイが猛然と駆け寄ってくる。
瓜子は息を呑みながら、再び横合いに跳躍した。
これまで瓜子が存在した場所に、メイの右足が振りかざされる。
しゃがみこんでいた瓜子の腹を蹴りあげようという、容赦もへったくれもない攻撃であった。
瓜子は背筋をぞくぞくと震わせながら、身を起こす。
そうしておたがいにステップを踏もうとしたタイミングで、ラウンド終了のブザーが響きわたった。
いつの間にか、それだけの時間が経過していたのだ。
瓜子は大きく息をつきながら、腕を下ろす。
メイは何の未練も見せずに、きびすを返したが――最後に見せたその横顔は、とても安らいだ表情を浮かべているように感じられてならなかった。