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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
33th Bout ~Winter of Fate~
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04 大混戦

 最終ラウンドを控えたインターバルの間、灰原選手は惨憺たる姿をさらしていた。

 フェンスに背中をべったりとつけて、両足はマットに投げ出している。その首はぐんにゃりと傾いて、今にも寝入ってしまいそうなほどだ。


 まぶたも完全に閉ざされており、セコンドの声が届いているのかどうかも判然としない。谷間を強調するレオタードの胸もとだけが生あるもののように大きく上下して、全身から流れ落ちる汗がマットに水たまりを作りそうな勢いであった。


 灰原選手はレバーブローの一発しか有効打をもらっていないが、スタミナが枯渇寸前であるのだ。

 ここまで粘ったのは大した戦果であったが、その代償は果てしなく大きかった。


 いっぽうイヴォンヌ選手はにこやかな面持ちでセコンド陣と語らっているが――右の目尻には血止めのワセリンが山のように盛られており、今は医療用の綿棒を両方の鼻に差し込まれて止血の処置を受けている。また、時間の経過とともに右目下の腫れがひどくなっていき、大きな目が半分ほどふさがれている格好であった。


 しかし、それだけの惨状でありながら、イヴォンヌ選手は元気いっぱいである。

 灰原選手は何発もの有効打を与えていたが、そのダメージは表面にしか及んでいないのだ。


 確たるダメージはレバーのみで、スタミナ切れが目前である灰原選手と、顔の表面だけを大きく傷つけられながら、中身は万全であるイヴォンヌ選手――実に、奇妙な対比であった。


「灰原さんのパンチをあれだけくらってけろりとしてるなんて、やっぱりイヴォンヌは化け物だね」

「逆に言うと、中身にダメージがないからこそ、イヴォンヌはインファイトから逃げないんだわよ。自分がどうして血まみれなのか、内心で不思議がってるかもしれないだわね」

「こうなったらもう、出血のドクターストップを狙うしかないんじゃないですか? 灰原さんに、それだけのスタミナが残っていればですけど……」


 モニターを見守る小笠原選手たちも、期待と不安がないまぜになっている様子である。

 ウォームアップに励む瓜子も、それは同様であった。


 そんな中、『セコンドアウト』のアナウンスが響きわたる。

 灰原選手は顔をしかめながら目を開き、最後にドリンクボトルの水をがぶ飲みしてから立ち上がる。その身がまた汗だくになっていたため、レフェリーの指示でセコンドがタオルで全身をぬぐうことになった。


 いっぽう傷だらけの顔をしたイヴォンヌ選手は自分の拳をもみほぐしながら、黒い瞳をきらきらと輝かせている。その分厚い身体からかもし出される力感は、試合前と何ひとつ変わっていなかった。


「……よし。もういっぺん休憩だ」


 と、立松がミットを下ろす。


「ラスト五分は、しっかり見守ってやれ。その後は、ウォームアップに集中しろよ?」


「押忍。ありがとうございます」


 瓜子はパイプ椅子に陣取った面々の頭ごしに、モニターを注視した。

 最終ラウンド開始のブザーが鳴らされて、両者はケージの中央に進み出る。その足取りにも、はっきりとスタミナの差が出ていた。


 それでも灰原選手は、懸命にサイドへとステップを踏む。

 どれだけ疲れていようとも、棒立ちで待ちかまえていたらテイクダウンの餌食であるのだ。今の灰原選手に、イヴォンヌ選手のタックルを受け流す余力は存在しないはずであった。


 そんな灰原選手に対して、イヴォンヌ選手はぐいぐいと接近していく。

 二ラウンド目のポイントが不確定であるため、イヴォンヌ選手の側も積極的に攻め込む必要があるのだ。スタミナが切れかかっている灰原選手は、どうしようもないぐらいの正念場であった。


 だが――イヴォンヌ選手を見据える灰原選手の目には、また凶悪な迫力があふれかえっている。

 足取りは重く、すでに全身が汗にまみれていたが、心だけは折れていない。それだけで、瓜子は胸が詰まってしまいそうだった。


 しかしまた、イヴォンヌ選手は逃げる灰原選手を追いかけつつ、なかなかパンチの間合いに入ろうとはしない。

 おそらくセコンドから、打ち合いを避けるように指示を飛ばされたのだろう。さきほど小柴選手も言っていた通り、あまりに出血がひどい場合はドクターストップもありえるのだ。疲労困憊である灰原選手を仕留めるのに、そんなリスクを背負う必要はないはずであった。


「さあ、さっそく正念場だわよ。これでウサ公が守りに入るようなら、イヴォンヌは中間距離からのテイクダウンに狙いを絞るだろうだわね」

「うん。この状態でテイクダウンを取られたら、万事休すだよね」

「で、でも、こんな状態で自分から仕掛けるなんて……」


 小柴選手が気弱げな声をもらしたとき、灰原選手が大きく踏み込んだ。

 中間距離に達したならば、自分から仕掛けるというのが基本戦略であったのだ。これだけスタミナが尽きた状態でも、灰原選手は初志を貫徹しようとしていた。


 そうして繰り出された灰原選手の左ジャブは――いくぶん勢いが弱まりつつ、まだ生きている。

 首を振ってそれをかわしたイヴォンヌ選手は、すぐさま左のショートフックで迎撃した。


 余力がない灰原選手は、右腕でそれをガードする。

 そして、その勢いでよろめきながら距離を取ろうとしたが、もちろんイヴォンヌ選手は逃がさなかった。


 まずは足もとに、タックルのフェイントである。

 灰原選手は決死の形相で左足を引き、それをスイッチの動作として右ストレートを繰り出した。

 粗く、荒々しい攻撃である。

 それをダッキングで回避したイヴォンヌ選手は、右アッパーをお返しした。


 灰原選手は身をよじり、右アッパーを回避しながら、左腕を振り回す。

 無茶苦茶なフォームの、左フックだ。

 しかし、体重はしっかり乗せられている。どんなフォームでもそれなりの破壊力を出せるのも、灰原選手ならではの格闘センスであった。


 その左フックが、イヴォンヌ選手の顔面にヒットする。

 フォームの汚い打撃というのは、軌道を読みにくいものであるのだ。イヴォンヌ選手がこれだけ被弾しているのも、灰原選手の不安定なフォームの恩恵であるはずであった。


 しかし頑丈なイヴォンヌ選手は、小揺るぎもしない。

 ただ――山のように盛られていたワセリンが弾け散り、右の目尻から血が四散した。


 瓜子は(よし!)と身を乗り出す。

 しかし、次の瞬間、灰原選手が身を折った。

 イヴォンヌ選手のレバーブローが、再び炸裂したのだ。


 客席と控え室に、期待と不安の声が同時に巻き起こる。

 そんな中、イヴォンヌ選手が灰原選手の足もとにつかみかかろうとした。

 レバーブローで明確なダメージを与えながら、テイクダウンを狙ったのだ。

 この期に及んでも、『パーフェクト・マシーン』たるイヴォンヌ選手の堅実な所作に変わりはなかった。


 これでテイクダウンを取られたら、万事休すである。

 苦手な寝技に持ち込まれたならば、灰原選手のなけなしのスタミナは一滴も余さずにしぼり尽くされてしまうはずであった。


「根性を見せるだわよ!」


 鞠山選手の怒号めいた声が響きわたる。

 するとまるでその声が聞こえたかのように、灰原選手は両足を後方に跳ねあげた。

 タックルをかわす、バービーの動きである。

 イヴォンヌ選手の両腕は空を切り、両足タックルは不発に終わった。


 イヴォンヌ選手は、何事もなかったかのように身を起こす。

 そうしてイヴォンヌ選手が、粛然と近づこうとすると――バービーの体勢から立ち直ったばかりの灰原選手が、ぎゅりんと横方向に旋回した。


 不安定な体勢で、スタミナも尽きかけているため、無茶苦茶なアクションである。

 そんな無茶苦茶なアクションで、灰原選手はバックスピンエルボーを繰り出した。


 ユーリと同様に、瓜子を真似て練習し始めた技だ。

 イヴォンヌ選手は、人間離れした反応速度で顔を引こうとしたが――その過程で、灰原選手の右肘が顔面に激突した。


 鮮血が、火花のように弾け散る。

 それでもなお、イヴォンヌ選手は倒れない。

 そうして灰原選手が勢い余ってたたらを踏むと、イヴォンヌ選手がつかみかかろうとしたが――そこに、レフェリーが割って入った。今の一撃で、目尻の出血がいっそうひどくなったのだ。


 大歓声の中、リングドクターが三たび招集される。

 イヴォンヌ選手が診察を受けている間、灰原選手はフェンスにもたれてふいごのように呼吸を繰り返していた。


「いよいよ荒れてきたね。でも、流れは悪くないはずだ」

「そ、そうですよね。この時間にも、スタミナを回復できますし!」

「レバーと目尻の削り合いっていう、世にも珍妙な展開になってきただわね。低能ウサ公にはお似合いの醜態なんだわよ」

「あはは。そんなこと言って、花さんが一番エキサイトしてるじゃん」

「してないだわよ!」


 そんな言葉が交わされている間に、リングドクターは引き下がった。

 イヴォンヌ選手の右目尻からは、血が細く伝っている。激しい出血ではなかったが、ワセリン無しに止めることはできないようであった。


「さあ、お次の正念場だわよ。十中八九、イヴォンヌは遠い距離からテイクダウンを仕掛けてくるだわよ」


 鞠山選手が言う通り、試合が再開されてもイヴォンヌ選手は近づこうとしなかった。

 すると、灰原選手はよたよたとした足取りでイヴォンヌ選手の周囲を回り始める。テイクダウンを避けるために、足を使っているのだ。

 しかも灰原選手は、両方の拳を細かく腹の前で振っていた。

 テイクダウンを牽制する、ボディブローの仕草である。なおかつ、要所では足を止めて、膝蹴りのモーションも見せていた。


 もしも顔面に膝蹴りでもくらってしまったら、イヴォンヌ選手の傷口はいっそう広がるかもしれない。

 また、灰原選手はどんなに不格好なフォームでも、効果的な攻撃を生み出せることが立証されているのだ。こんな力ない挙動でも、牽制としては十分なようであった。


 すると――イヴォンヌ選手は、思わぬ勢いでステップを踏み始めた。

 前後ばかりでなく、左右にも移動する。その周囲を回ろうとしている灰原選手が足を止めざるを得ないほどの、激しいステップワークであった。


 そうして灰原選手が動きを止めたならば、弾丸のような勢いで前進する。

 しかし、カウンターの膝蹴りを警戒しているのか、身を屈めようとはしない。そのまま胴体につかみかかって、フェンスまで押し込もうという動きであった。


 壁レスリングまで持ち込まれてしまったら、やはり万事休すであろう。

 瓜子が息を詰めて見守る中、灰原選手は横合いに飛び跳ねた。


 しかしイヴォンヌ選手もそのていどの動きは想定していたらしく、突進の勢いのままに向きなおる。

 その顔面に、灰原選手の右フックが飛ばされた。

 イヴォンヌ選手は左腕でそれを受け止めて、右フックをお返しする。

 もはや、回避できるタイミングではない。

 しかし灰原選手はガードを固めるのではなく、無茶苦茶なフォームで左肘を振りあげた。


 ムエタイ流の縦肘――などと称するのはためらわれるほどの、粗雑なフォームである。

 それにそもそも、灰原選手は縦肘の練習などしていないのだ。それはもう瞬間的に繰り出した、無我夢中の攻撃なのだろうと思われた。


 しかし、それゆえに、イヴォンヌ選手の虚を突くことが可能であるのだ。

 灰原選手の左肘は、イヴォンヌ選手の団子鼻に真正面から叩きつけられた。


 それでもイヴォンヌ選手は痛痒を受けた様子もなく、左拳を旋回させる。

 三度目の、レバーブローである。

 灰原選手はぎりぎりのタイミングでブロックしたが、それでも苦しげにうめきながら横合いによろめくことになった。


 イヴォンヌ選手は変わらぬ勢いで、そちらに近づこうとする。

 すると――四たび、レフェリーが割って入った。今の一撃で、今度はイヴォンヌ選手の鼻から鮮血が噴き出したのだ。


「いよいよ無茶苦茶になってきただわね。四回もストップをかけられる試合なんて、そうそうないんだわよ」

「でも、真っ当な攻撃の結果だからね。誰にも文句をつけられる筋合いはないよ」

「真っ当が聞いて呆れるだわね。ま、反則じゃないのは幸いなんだわよ」


 本当に、他に類を見ないような混戦模様である。

 灰原選手はフェンスにもたれながら、右の脇腹を抱え込んでいる。ガードをしても、衝撃がレバーに響いたのだろう。それでまた、残り少ないスタミナが削られているはずであった。


(でも、こうやってたびたび試合が止められるから、なんとか回復できてるんだろうな)


 そうでなければ、灰原選手はどこかのタイミングで致命的な一撃をもらっていたのかもしれなかった。

 しかしこれは、灰原選手の攻撃によってもたらされたタイムストップであるのだ。反則行為によるタイムストップではないのだから、何も恥じる必要はないはずであった。


 なおかつ、今回のタイムストップはずいぶんと時間がかかっている。

 すでに出血は止まっているが、イヴォンヌ選手のもともと大きい鼻が倍ほども膨張していたのだ。もしかしたら、鼻骨が折れているのかもしれなかった。


 そしてリングドクターは、視力の確認まで行っている。

 イヴォンヌ選手の右目の下もいっそう大きく腫れあがり、右目がほとんど隠されてしまっていたのだ。本当に、イヴォンヌ選手は首から上だけがひどい有り様に成り果てていた。


 しかしそれでも、イヴォンヌ選手の明るい眼差しに変わりはない。

 その身にあふれかえった力感も、もとのままだ。思えば彼女は瓜子との試合を終えた直後も、元気いっぱいの姿をさらしていたのだった。


 焦れたような大歓声の中、リングドクターはようやくケージを下りていく。

 これだけの惨状でも、ドクターストップには至らなかったのだ。その裁定の正しさを証明するように、イヴォンヌ選手は力強い足取りでケージの中央に進み出た。


 いっぽうレフェリーに呼ばれた灰原選手は、両足を引きずるようにして進み出る。

 スタミナが枯渇しかかっている灰原選手に、顔の表面だけが傷ついているイヴォンヌ選手――ラウンド開始時の状況が、さらに深刻化していた。


 試合の残り時間は、二分である。

 現在は、どちらが優勢であるのだろう。有効打の数は灰原選手がまさっているが、主導権を握っているのは明らかにイヴォンヌ選手であった。


(泣いても笑っても、あと二分だ。後悔のないように頑張ってください、灰原選手)


 瓜子がそのように祈る中、試合が再開された。

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