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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
33th Bout ~Winter of Fate~
936/955

03 ピンチとチャンス

 一ラウンド終了後のインターバルにおいて、灰原選手は疲弊しきった姿をさらしていた。

 手足を氷嚢でマッサージされながら、浴びるように水を摂取している。特注のレオタードに包まれた胸もとは大きく上下しており、ふいてもふいても汗が滴った。


 いっぽうイヴォンヌ選手はゆったりと椅子に座し、ほとんど笑顔でセコンド陣と言葉を交わしている。右ストレートをクリーンヒットされたために団子鼻が赤くなっていたが、それ以外は試合前と変わらぬたたずまいであった。


「早くも、土俵際だわね。次のラウンドでポイントを取り返さないと、どうにもならないだわけど……こうまでスタミナを削られたら、当初の作戦を遂行できるかどうかもあやしいんだわよ」

「で、でも、灰原さんはまだほとんどダメージを受けていません! あきらめるには、早いです!」

「うん。だけど、ダメージ以上にスタミナが不安だよね」


 控え室の面々も、食い入るようにモニターに見入っている。

 そんな中、また立松がミットで瓜子の頭を小突いてきた。


「そら、もういっぺん熱を入れておくぞ。……やっぱりこれは、長丁場になりそうだからな」


「押忍。……でも、判定までもつれこむのは、まずそうっすよね」


「かといって、玉砕覚悟の乱打戦を仕掛けても勝ち目はないだろう。乱打戦も計画的に織り込むってのが、基本戦略だからな」


 そう言って、立松は不敵に笑った。


「灰原さんは、一歩ずつ積み上げていくしかない。あとの結果は、神のみぞ知るだ。灰原さんの底力を信じてやりな」


 瓜子は「押忍」と応じて、ウォームアップを再開させた。

 しかしやっぱり、モニターから目を離すことはできそうにない。引き続き、瓜子はモニターの様子を盗み見ることになった。


 第二ラウンドが開始されると、灰原選手は足を使ってイヴォンヌ選手の周りを回り始める。

 そして、イヴォンヌ選手が近づこうとしたならば、中間距離に留まっての攻防だ。灰原選手は死力を尽くして、戦略の遂行に励んでいた。


 それに対するイヴォンヌ選手は、気負いの気配もなく受けて立っている。

 もとよりイヴォンヌ選手は、相手がどのようなファイトスタイルでもおかまいなしに、自分のスタイルを貫き通すタイプであるのだ。瓜子に敗北して王座から陥落しても、その堅実かつ力強いスタイルに変化は見られなかった。


 灰原選手が足を使えば追いかけて、攻撃を仕掛けられれば迎撃する。奇襲も奇策も、何もない。自分がこれまでに積み上げてきた武器を頼りに、イヴォンヌ選手は真正面から灰原選手の存在を受け止めていた。


 機動力は灰原選手のほうがまさっているが、瞬発力はイヴォンヌ選手がまさっている。そして、基本の技術もパワーもスタミナも頑丈さも、すべてイヴォンヌ選手がまさっているのだ。灰原選手がまさっているのは、機動力と天性の当て勘のみであった。


(いや、あとは……精神力だって、負けてないはずだ)


 灰原選手は底抜けに前向きで、負けず嫌いである。どんな苦境に陥ろうとも、灰原選手は決して勝負をあきらめないはずであった。


 しかし、時間が進むほどに、灰原選手の動きは落ちていく。

 ステップを踏む足取りも、パンチの勢いも、じわじわ鈍っているのだ。まだまだ踏ん張ってはいるものの、試合の主導権はどんどんイヴォンヌ選手の側に傾いていった。


「ここまで有効打をもらってないのは、立派なもんだけど……やっぱり、スタミナがきついよね」


 控え室の空気も、じわじわ重くなっていく。

 そんな中、このラウンドで初めての乱打戦が開始された。灰原選手の足取りが鈍ったため、ステップワークで逃げきれなくなってしまったのだ。


 灰原選手はウサギの耳を模した髪を振り乱しながら、懸命に拳を振るう。

 イヴォンヌ選手は決して気負わず、それでも的確な攻防を交わした。


 イヴォンヌ選手はムエタイをルーツにしているため、打撃の攻防でも隙はない。

 それでも灰原選手が劣勢にならないのは、やはり天性の当て勘の恩恵だ。灰原選手の荒っぽい攻撃が意想外な鋭さを秘めているため、イヴォンヌ選手も防御にそれなり以上の意識を割かざるを得なかった。


 そして――イヴォンヌ選手が堅実なスタイルを保持してもなお、灰原選手の右拳が再びクリーンヒットした。

 今回は右フックで、命中したのは左目の上部だ。イヴォンヌ選手のガードをすりぬけての、見事な一撃であった。


 その一撃で、イヴォンヌ選手の右目尻に血がにじむ。

 しかし、頭も胴体もビクともしていない。表面上は傷ついても、衝撃はすべて頑丈な肉体に呑み込まれてしまった。


 それで灰原選手はアウトサイドに逃げようとしたが、イヴォンヌ選手の勢いがまさって、すぐに追いつかれてしまう。

 そうして、乱打戦の再開である。危険なことこの上なかったが、ステップワークで逃げられないのならばインファイトで相手取る他なかった。


 灰原選手はきつく眉をひそめ、マウスピースを剥き出しにしながら、左右の拳を振り回す。

 右の目尻に血をにじませながら、イヴォンヌ選手は涼しい表情だ。


 そして――三たび、灰原選手の拳がクリーンヒットした。

 今回は、左のショートフックである。


 さらに、次の瞬間には、右アッパーがイヴォンヌ選手の団子鼻を削った。

 イヴォンヌ選手はスウェーバックでかわそうとしたが、かわしきれずに鼻先にヒットされたのだ。


 そうしてイヴォンヌ選手が身をのけぞらせたならば、離脱のチャンスである。

 灰原選手は血気に逸って追撃することなく、作戦の通りに距離を取った。


 イヴォンヌ選手は悠然とそれを追いかけようとしたが、レフェリーが割って入る。

 イヴォンヌ選手の大きな鼻から、ふた筋の鮮血が滴ったのだ。レフェリーは『タイムストップ!』と宣告して、リングドクターを呼び寄せた。


「よしよし。どうせ頭の中身はノーダメージだろうけど、こいつはいいインターバルになるよ」

「そうですね! ……ただ、その前には二発のフックをくらってるのにノーダメージだなんて、なんだか納得がいかないです!」

「納得がいかんでも、しょんないやろ。相手は世界級ん化け物なんやけん」


 イヴォンヌ選手がリングドクターに鼻の状態を確認されている間、灰原選手はくびれた腰に手をやって頭上を仰ぎながら、ぜいぜいと息をついている。

 どんなに苦しくて前屈みの姿勢を取らないのは、立派な心がけだ。前屈みの状態では肺が圧迫されて呼吸が妨げられると、瓜子も前々から指導を受けていた。


(鼻血でも、ダメージはダメージだ。それで息が詰まれば、スタミナを削れるかもしれないぞ)


 そんな期待を込めながら、瓜子はミットに右ミドルを叩き込んだ。


 イヴォンヌ選手の顔やマットに滴った血がざっとぬぐわれて、試合再開である。

 多少のスタミナを取り戻した灰原選手はステップワークで距離を取ろうとしたが、十秒ももたずに追いつかれてしまう。そして、数発の攻撃を出しても逃げる隙が生まれなかったため、さらなる乱打戦であった。


 灰原選手の優勢を願って、客席には大変な歓声がわきおこっている。

 そんな中、灰原選手の右フックがイヴォンヌ選手の顔面をとらえた。


 それでさらなる歓声が巻き起こったが――次の瞬間には、驚愕と悲嘆のどよめきに切り替えられる。

 イヴォンヌ選手のレバーブローが炸裂したのである。


 灰原選手は力なく身を折って、後ずさろうとする。

 イヴォンヌ選手は逸る様子もなく、それに追いすがった。


 難なく追いついたイヴォンヌ選手は、丸太のような右腕を振りかぶる。

 すると――灰原選手は前屈の状態から、右アッパーを繰り出した。


 イヴォンヌ選手の右腕が弧を描くより早く、灰原選手の右拳がイヴォンヌ選手の下顎に突き刺さる。

 しかし、イヴォンヌ選手の身は小揺るぎもしない。首を固めて、衝撃に耐えたのだ。瓜子も同じ手際でアッパーを無効化された経験があった。


 ほんの一瞬だけ停滞したのち、イヴォンヌ選手はあらためて右フックを発射する。

 すると灰原選手は左腕で頭部を守りながら、自らも右フックを繰り出した。


 おたがいが防御を固めての、右フックである。

 イヴォンヌ選手の右拳は、灰原選手の左前腕に衝突し――灰原選手の右フックは、イヴォンヌ選手の左腕の外側を通過して目もとに命中した。


 それでもイヴォンヌ選手はダメージを負った様子もなく、左膝を振り上げる。

 灰原選手はほとんど倒れかかるようにして逃げながら、その過程で左腕を振り回した。


 灰原選手の左拳が、イヴォンヌ選手の右頬にクリーンヒットする。

 それでもなお、イヴォンヌ選手はダメージを負った様子もなく、灰原選手につかみかかろうとしたが――そこでまた、レフェリーが割って入った。


 今度はイヴォンヌ選手の右目尻から、血が滴っていた。

 もともと割れかかっていた目尻が、再度のクリーンヒットで完全に割れたのだ。頬から咽喉もとに伝った血がウェアの胸もとを汚すほどの出血量であった。


「おいおい、なんだか面白いことになってきたね」

「はい! ドクターストップはないでしょうけど、これは灰原さんのほうが優勢なんじゃないですか?」

「うん。灰原さんは、レバーブローしかくらってないもんね。その一発がきつかったけど……これだけ有効打でまさってたら、ポイントを取れるはずだよ」


 控え室は、大いにわきたっている。

 追い込まれているのは灰原選手の側であるはずなのに、有効打を数多く当てているのは灰原選手のほうであるのだ。瓜子にしてみても、こんな奇妙な試合を他に見た覚えはなかった。


 それに、灰原選手はスタミナの残存量も深刻である。

 いっぽうイヴォンヌ選手は元気いっぱいで、体内にダメージを負った様子もない。ただ、外傷だけがどんどんかさんでいるのだ。右の目尻は大きく割れて、右目の下側も腫れ始めていた。


 それでもリングドクターがタオルでぬぐうと、右目尻の出血はすみやかに止まる。

 ワセリンによる治療はラウンド間のインターバルにしか許されないため、このまま試合が続行されるのだ。鼻も右目尻も、さらなる攻撃を当てられることで出血する危険があるはずであった。


『試合再開です!』


 大歓声の中、試合が再開される。

 気づけば、第二ラウンドの残りも一分だ。


 近代MMAの基本戦略として、ラスト一分ではギアを上げてポイントの獲得を目指す。それでイヴォンヌ選手が両足タックルを仕掛けると、灰原選手はあえなく倒れ伏してしまった。


「何やってんだよ! ここで踏ん張れば、絶対にポイントを取れたのに!」

「で、でも、テイクダウンの一回だけで、ポイントがひっくり返りますか?」

「テイクダウンにポジションキープが重なれば、ポイントを取られてもおかしくないだわね。ただし、ジャッジによっては打撃技の優勢を取るはずだわよ」


 何にせよ、レバーにダメージを負っている灰原選手はイヴォンヌ選手の重量を跳ね返すこともできず、一ラウンド目と同じ姿をさらすことになった。


 そのまま一分が過ぎ去って、第二ラウンドは終了である。

 ラウンド終了のブザーが鳴らされて、イヴォンヌ選手が身を起こしても、灰原選手はなかなか起き上がることができない。大の字に寝そべったまま、しばらくは大きい胸もとを大きく上下させていた。


 ただ――力強い足取りで自陣に向かうイヴォンヌ選手は、右目尻と鼻からぽたぽたと血を流している。

 なんの攻撃も受けていないのに、自分が仕掛けたテイクダウンとパウンドの勢いで、傷口が開いたのだ。


 いったいこの試合は、どんな結末を迎えるのか――控え室にも客席にも、大きな期待と大きな不安が同じ質量で渦巻くことに相成った。

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