02 極悪バニーとパーフェクト・マシーン
試合開始のブザーが鳴らされて、灰原選手とイヴォンヌ選手はそれぞれのコーナーを飛び出した。
その勢いに優劣はなかったが、ケージの中央まで進み出たのちには灰原選手のほうがサイドステップに切り替える。そして、イヴォンヌ選手を中心にしてぐるぐると円を描き始めた。
この近年の灰原選手がもっとも得意とする、アウトスタイルである。
野を駆けるウサギのようにせわしない、灰原選手ならではの躍動感にあふれかえったステップだ。
もちろんイヴォンヌ選手は驚いた様子もなく、力強い足取りでそれを追いかけようとする。
すると、灰原選手がすぐさま大きく踏み込んで、先制の右ミドルを繰り出した。
パンチャーである灰原選手が蹴りから試合を始めるのは、きわめて珍しい話である。
蹴り技を出せば足も止まるので、なおさらであった。
その意外性が功を奏したのか、イヴォンヌ選手はバックステップでかわすことができず、左腕で受け止める。
そして灰原選手はイヴォンヌ選手が反撃する前に、蹴り足を前に下ろして左ストレートに繋げた。
灰原選手はスイッチを得意にしていないので、これも珍しい動きである。
ただし灰原選手は手慣れた動きであっても、フォームが粗くて荒々しい。このたびの左ストレートも、普段の灰原選手と遜色のない荒っぽさであった。
イヴォンヌ選手はこの攻撃もかわすことができず、右腕でブロックする。
そうして二発の攻撃を当てた灰原選手は、何事もなかったかのようにステップワークを再開させた。
イヴォンヌ選手もまた、心を乱した様子もなく追いかけようとする。
するとまた、灰原選手のほうが先に仕掛けた。
今度は鋭い左ジャブと右ストレートのワンツーだ。
それを両腕でブロックしたイヴォンヌ選手が身を屈めようとすると、灰原選手は弾かれたような勢いでアウトサイドに回り込み、ボディブローをスイングさせた。
防御も固いイヴォンヌ選手は、その攻撃もブロックする。
そして今度こそ、反撃の左ショートフックを射出した。
灰原選手は素早く跳びのいて、アウトサイドに回り始める。
そして、イヴォンヌ選手が詰め寄ろうとすると、関節蹴りで食い止めたのち、ワンツーからボディフックの連携だ。
アウトスタイルであれば相手の接近を防ぐために迎撃するのが当然であるが、灰原選手は決して一発で攻撃を終わらせない。
これこそが、立松たちの授けた戦略の一歩目であった。
「もちろんあちらさんは、灰原さんのアウトスタイルを念入りに研究してくるだろう。そいつを逆手に取って、中間距離をキープするんだ」
立松は、かつてそのように説明していた。
つまり、灰原選手のアウトスタイルは、フェイクである。自慢のステップワークで距離を取ると見せかけて、イヴォンヌ選手が追ってきたならば足を止めて迎撃する。それを繰り返すことで序盤の主導権を握ろうという戦略であった。
「レッカーほどじゃないが、イヴォンヌもムエタイの癖が残ってる。一ラウンド目はじっくり攻めて、尻上がりに調子を上げていくタイプなわけだな。だから、序盤で優位を取ってペースをつかむことが重要なんだ」
そんな立松の教えに従って、灰原選手は果敢に攻め込んでいる。
すべての攻撃はブロックされていたが、手数では圧倒的にまさっているので、まずは作戦通りだろう。灰原選手もイーハン選手と同様に、波に乗ると強いタイプであるため、トレーナー陣としてはそのシチュエーションを作りあげることが肝要であったのだった。
しかしもちろん、相手は歴戦の実力者たるイヴォンヌ選手だ。
何度かの接触で灰原選手の行動パターンを理解したイヴォンヌ選手は、やがて積極的に拳を振るい始めた。
灰原選手が距離を取ろうとしても、拳を振り回しながら追いかけてくる。
まるで、乱打戦でもかまわないというような勢いだ。
ただし、イヴォンヌ選手は『パーフェクト・マシーン』という異名をつけられるほど王道のファイトスタイルであり、乱打戦に興じるようなタイプではない。瓜子に敗北したことによってファイトスタイルを変える可能性は示唆されていたものの、こんな序盤から乱打戦を仕掛けることはないだろう。つまりイヴォンヌ選手は、牽制の攻撃でもそれだけの力感にあふれかえっていたのだった。
灰原選手はほとんどトップギアで足を使い、その猛攻から逃げようとする。
しかし、イヴォンヌ選手の勢いは止まらない。彼女はアウトスタイル対策を磨き抜いてきたはずであるので、今こそその成果を発揮しているのだ。
よって、この状態で逃げ続けるのはイヴォンヌ選手にペースを握られることと同義である。
おそらく瓜子と同じように判じた灰原選手は、意を決した様子で右ストレートを返した。
それをダッキングでかわしたイヴォンヌ選手は、頭を屈めてボディフックを振るう。
灰原選手を上回る、颶風のごとき攻撃だ。
迎撃のために足を止めた灰原選手は、それを左腕でガードするしかなかった。
次の瞬間、誰かが「あっ」という言葉をこぼす。
ボディフックを振るったイヴォンヌ選手が、そのまま灰原選手の足もとにつかみかかったのだ。
こちらがもっとも警戒していた、テイクダウンの仕掛けである。
五週間の合同稽古で地獄のトレーニングを重ねてきた灰原選手は、なんとかそれを食い止めたが――イヴォンヌ選手の前進は止まらず、そのままフェンスに押し込まれてしまう。
しかし、フェンスに背中をぶつけた瞬間、灰原選手はその勢いを利用してイヴォンヌ選手の身体を突き飛ばし、横合いに跳びのいた。
イヴォンヌ選手はすぐさまそちらに向きなおったが、灰原選手はぴょんぴょんと跳びはねて逃げていく。その姿に、控え室では喝采があげられた。
「壁レスリングには持ち込ませなかったね。これは、大きいよ」
「はい! さすがは、灰原さんですね!」
「ふふん。これで、勝負は五分だわね。もういっぺん、主導権の奪い合いだわよ」
ウォームアップに励みながら、瓜子もほっと息をつく。
すると、立松がにわかにミットを下ろした。
「また休憩を入れるか。灰原さんの試合も、長くなりそうだしな」
「押忍。ありがとうございます」
「お礼を言う前に、集中しろよ。お前さんが試合直前できっちり気持ちを切り替えられることは承知してるが、そうじゃなかったら引っぱたいてるところだぞ」
立松は苦笑を浮かべつつ、ミットの角で瓜子の頭を小突いた。
瓜子が頭をかきながらモニターに向き直ると、熱戦が再開されている。勢いを増したイヴォンヌ選手の猛攻をかわしながら、灰原選手が何とか中間距離をキープしているところだ。
今のところ、おたがいに有効打は許していなかったが――灰原選手は、すでに全身を汗で光らせている。イヴォンヌ選手を相手に五分の勝負を演じているのは素晴らしい結果であるが、そのために大きくスタミナを使っているはずであった。
いっぽうイヴォンヌ選手は試合前と変わらない、にこやかな面持ちだ。イヴォンヌ選手やレベッカ選手の恐ろしいところは、このハイペースを最終ラウンドまで継続できるスタミナ配分の妙であった。
立松は、イヴォンヌ選手が尻上がりに調子を上げていくと評していたが、数々の試合を分析した瓜子はあまりそういう印象を抱いていない。イヴォンヌ選手は最初から最後まで変わらぬペースで、相手選手がペースを落としていくという印象であったのだ。
試合の進行とともにスタミナが減少してペースが落ちていくのは、当然の話である。
しかしイヴォンヌ選手には、そんな常識が通用しない。それで結果的に、イヴォンヌ選手は時間の経過とともにどんどん優勢になっていき、数々の判定勝利をものにしてきたのだった。
(本当に、無限にスタミナがあるんじゃないかっていうぐらい、最後までペースが落ちないんだよな。だから、序盤で優勢に立たなきゃいけないんだけど……)
しかし、現在の状況は、五分である。
これで一ラウンド目をしのいだとしても、残る二ラウンドで優勢を取られたら、もうおしまいであるのだ。きわめて過酷な話であったが、灰原選手はこのラウンドを優勢な形で終えるのが必須条件であった。
(頑張ってください、灰原選手。きっと、チャンスはあるはずです)
灰原選手はもはや余裕の表情もかなぐり捨てて、極悪バニーの本性を剥き出しにしている。
その目は爛々と燃えあがり、眉を吊り上げながら笑っているような形相だ。発汗量も、一ラウンド目とは思えない域に達していた。
「こりゃあもう、出し惜しみはしてられねえな」
立松のつぶやきとともに、灰原選手が攻勢に転じた。
足を止めてワンツーを放つや、続けざまに左フックを叩きつける。
それをブロックしたイヴォンヌ選手が左フックをお返しすると、同じようにブロックしたのちに、今度は横殴りのレバーブローだ。
レバーブローをもガードしたイヴォンヌ選手は、左足を引いてから左フックを射出する。
スイッチをはさんでの、奥手からの重い攻撃だ。
その攻撃をダッキングでかわした灰原選手は、すくいあげるような右アッパーを発射した。
イヴォンヌ選手は、スウェーバックで右アッパーを回避する。
足を使って逃げるならばこのタイミングであるが、灰原選手はさらに左フックを繰り出した。
イヴォンヌ選手はのけぞっているため、灰原選手の左拳は丸い鼻先をかすめていく。
そして、イヴォンヌ選手が身を起こしながら左フックをお返しすると、その内側にもぐりこませる格好で右ストレートを繰り出した。
スウェーバックから回帰したばかりのイヴォンヌ選手は首を振ることもできず、その右ストレートを顔面にくらう。
この試合における、初めてのクリーンヒットであった。
しかし、頑丈なイヴォンヌ選手はいっかな痛痒を受けた様子もなく、左足を踏み込みながら右フックを振りかざす。
そのときこそ、灰原選手はバックステップで逃げていた。
そうしてそのままステップを踏んで、イヴォンヌ選手の周りを回り始める。
灰原選手はぜいぜいと荒い息をついていたが、会場はもう大熱狂であった。
「やりましたね! かなりスタミナを使っちゃったみたいですけど……でも、初めての有効打です!」
「うん。リスクを背負って、ポイントを取ったんだ。まずは、作戦通りだね」
「ふふん。初回から、背水の陣だわね」
控え室の面々も灰原選手の戦略はおおよそわきまえているため、そんな言葉を交わしている。
序盤で優勢を取るのが難しい場合は、乱打戦もやむなし――というのが、作戦のひとつであったのだ。先刻の灰原選手はダメージを負う覚悟でインファイトに臨み、なんとか一発の成果を挙げたわけであった。
本来の灰原選手は、インファイターである。灰原選手は天性の当て勘を有しているため、かつてはインファイトでKO勝利を飾ってきたのだ。
その後、瓜子たちと稽古をともにするようになってから、灰原選手はアウトスタイルを体得した。今ではそちらが灰原選手の代名詞になっていたが、インファイトの手腕も決して鈍ってはいなかったのだった。
(こんな早い段階でイヴォンヌ選手に有効打を当てられたのも、灰原選手の当て勘あってのことだ。本当に、さすがだな)
ただし、イヴォンヌ選手はきわめて頑丈な肉体を有しており、灰原選手は――打たれ弱いとは言わないまでも、決して打たれ強いわけではない。人並み以上の攻撃力と機動力に対して、防御力や耐久力は人並みであるはずであった。
よって今の攻防も、限界いっぱいまで集中を振り絞っての結果であろう。
大きくスタミナを削りながら、灰原選手は一発の有効打を当てた。なおかつ、序盤では大きく手数でまさっていたため、このままラウンド終了まで逃げきれば、ポイントを取ることがかなうだろう。
それで控え室には大きな期待の思いがわきかえっていたし、客席もそれは同様であったが――しかし、イヴォンヌ選手はかつての絶対王者である。
試合時間が残り一分となったところで、イヴォンヌ選手は攻勢に転じた。そうして両足タックルを仕掛けられると、灰原選手はあえなくテイクダウンを取られてしまったのだった。
控え室と客席に、悲嘆のどよめきがわきおこる。
寝技では、圧倒的に不利であるのだ。灰原選手も懸命に寝技の稽古を積んでいたが、世界級のトップファイターたるイヴォンヌ選手との差がそう簡単に埋まるわけもなかった。
あっさりとテイクダウンを奪取したイヴォンヌ選手は当然のような顔でポジションキープに励み、時おりパウンドを落としていく。
イヴォンヌ選手にとっては、これで十分であるのだ。敗戦によってファイトスタイルの変化が想定されていたイヴォンヌ選手であったが、今のところはそんな気配もなかった。
そうして灰原選手は一分間、ひたすらイヴォンヌ選手の重圧に耐えることになり――存分にスタミナを削られながら、ポイントも奪われることに相成ったのだった。