ACT.5 B×J×A Main card 01 開会セレモニー
そうしてついに、午後の七時となり――メインカードに出場する五名の選手と付き添いのトレーナー陣は開会セレモニーに参じるため、入場口に向かうことになった。
ここで激励を浴びるのは、初戦を飾る灰原選手である。
試合を終えた選手たちとセコンド役を務めていた選手たちが、四方八方から灰原選手にエールを送った。
「灰原さん、頑張ってください! 灰原さんだったら、きっとどこかにチャンスはあるはずです!」
「うん。自慢の足でひっかき回せば、きっと勝機はあるだろうと思うよ」
「ふふん。判定狙いのイヴォンヌにKOや一本をくらわないように、せいぜい用心することだわね」
「あいつらは、やっぱり強敵だけどさ。灰原さんなら、届くと思うよ」
「みんなで、ヒサコを応援してますからねー。頑張ってくださーい」
「ご、ご武運をお祈りしています」
「なるごとなるばい。いつも通りに暴れてきぃ」
グウェンドリン選手やオルガ選手は、無言のままに遠巻きで見守っている。
それらを含めた全員に、灰原選手は「うん!」とめいっぱいの笑顔を返した。
「イヴォンヌなんか、KOでぶっ飛ばしてみせるよー! うり坊より早いタイムで片付けたら、なんかおごってねー!」
虚勢でなくそんな言葉を口にできるのが、灰原選手の強みであろう。瓜子としても、心強い限りであった。
そうして四ッ谷ライオットのみフルの編成で、一行は入場口を目指す。
すでに七試合も終えているためか、通路にも入場口の裏手にも濃密な熱気が感じられた。
「それでは、開会セレモニーを開始します。名前を呼ばれた選手から、花道に出てください」
インカムマイクをつけたスタッフが、緊張の面持ちで扉に手をかける。
今日のように地上波テレビの生放送が入っている日は、進行役のスタッフもいっそうの緊張を強いられるのだろう。そんな人々の苦労をねぎらいたくなるぐらい、瓜子自身はリラックスできていた。
(でも、今日はあたしも興奮と沈静のサイクルがせわしないよな。それだけあたしにとっても、特別な日ってことだ)
もうあと数十分から一時間ていどで、メイとの試合が行われるのである。
それでもリラックスできている自分が、不思議なほどであった。
「バニーQ選手、どうぞ」
スタッフに名前を呼ばれた灰原選手は「はいはーい!」と笑顔で扉をくぐり抜ける。
その次がエイミー選手で、その次が瓜子だ。
瓜子は背後にたたずむユーリと赤星弥生子に笑いかけてから、いざ花道に足を踏み出した。
とたんに、凄まじい熱気と歓声が満身を包んでくる。
一時間ものインターバルがあったにも拘わらず、人々の熱狂は無事に再燃されたようである。瓜子もまた、満たされた心地で花道を踏み越えることができた。
『赤コーナー! 《JUFリターンズ》代表、メイ・キャドバリー!』
瓜子が歩いているさなか、そんなアナウンスが響きわたる。
その瞬間だけ、瓜子の胸は大きく弾んだ。
しかし、ケージの外側に到着して、エイミー選手の隣に並んだならば、メイが入場する姿は見えない角度となる。
後ろ髪を引かれる心地であったが、瓜子はひたすら眼前の客席を見据えて、メイの存在は背中で味わうことにした。
次にユーリの名が呼ばれると、いっそうの歓声が渦を巻く。
ベリーニャ選手、赤星弥生子、ガブリエラ選手と続いても、その歓声がなりをひそめることはなかった。
その後は、あらためて運営陣の挨拶だ。
駒形代表の声は、気の毒なぐらい震えてしまっている。しかし、その誠実さに変わるところはなかったし、ブーイングをあげる人間はいなかった。
ユーリ本人に対しても、それは同様である。
不穏な健康状態でありながら選手活動を継続しているユーリにも、それを許しているプレスマン道場やパラス=アテナにも、いまだ非難の声をあげる人間は少なくないという話であったが――少なくとも、この会場に詰め掛けてくれた人々は、誰もがユーリたちの行いを喜んでくれていた。
(文句のある人間が、わざわざチケットを買ってまで大晦日に駆けつけることはないんだろうな)
しかし、文句をつける人間が世に存在することは確かなのである。
そんな声をねじふせるには、ユーリがファイターとしての力を見せつけて――そして、無事に試合を終えるしかなかった。
『メインカードの五試合は、いずれもメインイベントの価値がある組み合わせでしょう。私も最前列から見守り、みなさんと同じ興奮を味わわさせていただきます』
《アクセル・ファイト》のアダム代表の挨拶を最後に、開会セレモニーは終了した。
瓜子たちは一列になって、花道を引き返す。その際にも、瓜子は意識的にメイのほうを振り返らなかった。
「よーし! いよいよ、本番だー!」
入場口の裏手に舞い戻るなり、灰原選手は《アトミック・ガールズ》公式のウェアをぽいぽいと脱ぎ捨てた。
バニースーツ仕様の試合衣装と肉感的な肢体が、あらわにされる。思うさま食事をむさぼった灰原選手は、かつてないほどにむっちりとリカバリーを果たしていた。
「灰原選手、頑張ってください。きっと、チャンスはありますからね」
「ユーリもみなさんと一緒に、見守ってまぁす」
「セコンドの声を、よく聞いてな。いつものふてぶてしさで、自分のペースを守り抜くことだ」
「ヒサコなら、きっとカてるよー。テイクダウンにはキをつけてねー」
プレスマン陣営が激励を終えると、赤星弥生子と大江山軍造とエイミー選手も言葉少なくそれに続いた。
「灰原さんの健闘を祈っているよ」
「パンチ力なら、負けてねえからな。思うぞんぶん、ぶっ飛ばしてやりな」
「……ヒサコ、ガンバってください」
「ありがとー! ぜーったい、勝ってみせるからねー!」
ウサギの耳を意識して二つに結った金色の髪を揺らしながら、灰原選手はにっと白い歯をこぼした。
そのかたわらで、多賀崎選手は相棒の分まで表情を引き締めている。残る二名のトレーナー陣は、どちらも不敵な笑顔だ。
「それでは、控え室のほうにお願いします」
スタッフの誘導で、瓜子たちは通路を舞い戻る。
そうして控え室に到着すると、モニターを取り囲んだ面々が「お疲れ様」とねぎらってくれた。
そして、奥のほうでは青田ナナが是々柄にマッサージを受けている。開会セレモニーが行われている間に、救急病院から戻ったのだ。
青田ナナは右足の指先を白い包帯で覆われており、壁には松葉杖がたてかけられている。
今はうつ伏せの状態であるため、どんな表情をしているかもわからない。そして瓜子も、今は目前の試合に集中しなければならなかった。
瓜子たちは、最後のウォームアップである。
最後の出番である赤星弥生子も、ようやくゆったりと身体を動かし始める。練習不足でスタミナに不安があるのか、これがいつものペースであるのか、赤星弥生子は何事につけても行動がゆるやかであった。
瓜子は最初の二試合が秒殺で終わっても慌てずに済むように、入念に身体を温めなくてはならない。
ただし、最初の試合に限っては、秒殺などありえないだろう。灰原選手もイヴォンヌ選手も、百秒以内に敗北を喫するような選手ではなかった。
(まあ、それもイヴォンヌ選手しだいだけどな)
イヴォンヌ選手は瓜子にKO負けをくらったことで、ファイトスタイルを変える可能性も想定されている。レベッカ選手は以前のままのファイトスタイルであったが、より読みにくいのはイヴォンヌ選手のほうであった。
瓜子はウォームアップに集中しながら、目の端でモニターの様子をうかがわせてもらう。
ただでさえ、同じ階級の選手の試合は気になるものであるのだ。それが灰原選手とイヴォンヌ選手の一戦とあっては、なおさらであった。
「お前さんを除いたら、灰原さんにとって過去最大の強敵だからな。どんな風に試合が転ぶのか、俺にも予測がつかねえよ」
瓜子の盗み見をとがめることなく、立松はそんな言葉をかけてくれた。
確かに実績ではイヴォンヌ選手がナンバーワンであるし、その実績に実力がともなっていることも瓜子は痛感させられている。灰原選手はこの近年で、瓜子と鞠山選手にしか負けていなかったが――イヴォンヌ選手は、鞠山選手を上回る強敵であるはずであった。
(もちろん実際に試合をしたら、鞠山選手がイヴォンヌ選手に勝つ可能性もあるだろうけど……灰原選手にとって、より強敵なのはイヴォンヌ選手のほうのはずだ)
それはすなわち、ファイトスタイルの相違から導き出される想定である。
鞠山選手は寝技に特化しているため、灰原選手であれば立ち技で勝利を目指す道筋を立てることができる。しかし、イヴォンヌ選手は世界級のオールラウンダーである上に、ムエタイでも確かな実績を築いているのだった。
(そんな相手に、立ち技で勝利を目指さないといけないんだからな。あたしも同じ目にあったからわかるけど、どう考えたって大変だ)
なおかつ、灰原選手はその華やかな容姿とファイトスタイルでメインカードの座を勝ち取った感がある。それで、格上である鞠山選手よりも強敵をぶつけられることになったのだ。鞠山選手と対戦したミンユー選手はイヴォンヌ選手に王座を奪われて、リベンジマッチでも敗北しているのだから、どこをどうつついても《ビギニング》における番付は確定していた。
現在の《ビギニング》ストロー級において、もっとも強いのは瓜子であり、それに次ぐのがイヴォンヌ選手であるのだ。
初めて世界クラスの相手と試合を行う灰原選手が、そんな強敵をぶつけられてしまったのである。いずれも過酷なマッチメイクである本大会において、灰原選手が屈指の試練にさらされていることに疑いはなかった。
『メインカード、第一試合を開始いたします! 青コーナーから、バニーQ選手の入場です!』
やがてリングアナウンサーの声とともに、大歓声が響きわたる。
そして灰原選手が色香あふるるバニーガールの姿で再登場すると、さらなる歓声がわきたった。
灰原選手はユーリに負けない勢いで、元気いっぱいにアピールしている。
いつも以上にぶんぶんと手を振って、時には投げキッスのモーションを見せる。心から、この大舞台を楽しんでいる様子であった。
そんな灰原選手がケージインすると、赤コーナー側からイヴォンヌ選手が現れる。
こちらも、きわめて朗らかな面持ちだ。丸い輪郭で目と口が大きくて団子鼻であるその顔は、瓜子が知るファイターの中で指折りの愛嬌を備え持っていた。
彼女もまた、その明るいキャラクターを買われてメインカードの第一試合に抜擢されたのかもしれない。
日本中のお茶の間では数多くの人々が、いったいどのような試合になるのだろうかと胸を弾ませているはずであった。
『第一試合! ストロー級、115ポンド以下契約! 五分三ラウンドを開始いたします! ……青コーナー、《アトミック・ガールズ》代表! 114.6ポンド! 四ッ谷ライオット所属! 極悪バニー……バニーQ!』
灰原選手は右腕を振り回しながらくるりとターンを切ったのち、テレビカメラに向かってセクシーポーズとウインクを送り届けた。
『赤コーナー、《ビギニング》代表! 115ポンド! プログレスMMA所属! 《ビギニング》第二代王者……パーフェクト・マシーン! イヴォンヌ・デラクルス!』
イヴォンヌ選手はにこにこと笑いながら、丸太のようにどっしりとした右腕を高々と掲げた。
大歓声の中、両者はレフェリーのもとで向かい合う。
身長は、一センチだけ灰原選手がまさっている。しかし、身体の厚みは比較にもならなかった。
イヴォンヌ選手は、全身が短い丸太で構成されているような体格であるのだ。胴体などは横幅と同じぐらい厚みがあり、腕も足も真っ直ぐなラインで太かった。
いっぽう灰原選手も腕だけは起伏の少ない棒状のシルエットで、日本人としては立派なサイズであるものの、イヴォンヌ選手の前ではほっそりと見えてしまう。そして、腕以外の部位は凹凸が激しく、そのへこんでいる分だけ細身に見えた。
そうして間近から向かい合いつつ、灰原選手はふてぶてしい笑顔、イヴォンヌ選手は無邪気な笑顔をしている。
レフェリーがグローブタッチをうながすと、イヴォンヌ選手が両手を差し出し、灰原選手はその拳を勢いよく引っぱたいた。
「さあ、いよいよだわね」
パイプ椅子の最前列に陣取った鞠山選手のつぶやきが、瓜子のもとにまで聞こえてくる。
そうして瓜子はウォームアップを再開させながら、灰原選手の死闘を見守ることになった。