12 一進一退
おたがいに大きなダメージはないまま、高橋選手とレベッカ選手の試合は第二ラウンドを迎えた。
ここで動きを見せたのは、高橋選手である。高橋選手は細かいステップを踏みながら、相手のアウトサイドに回り始めた。
しかし、百戦錬磨のレベッカ選手は動じることなく対応している。
高橋選手がどのような仕掛けを見せるかと、じっくり観察しているような雰囲気だ。なんとかペースを握ろうと苦心している高橋選手にとっては、嫌な落ち着きであるはずであった。
しかし高橋選手もめげた様子はなく、果敢に右ローを出していく。
地道に、足を削っていこうという作戦だ。レベッカ選手のように完成されたファイターを突き崩すには、そういう小さな積み重ねが肝要であると見なされていた。
(ユーリさんなんかは、一点突破で突き崩す作戦だったけどな)
それこそが、各人の資質の違いであろう。もとより堅実な高橋選手にユーリを真似ることはできなかったし、ユーリもまた高橋選手の堅実さを見習うことはできなかった。
距離を取りながら右ローを多用する高橋選手は、そこにカーフキックも織り交ぜている。
それでレベッカ選手も、バックステップを見せることが多くなった。カーフキックの衝撃を逃がすには足を大きく上げる必要があるため、バランスを崩してテイクダウンを狙われることを警戒しているのだろう。
寝技の技術はレベッカ選手がまさっているはずであるのに、用心深いことである。
その慎重さが、数々の判定勝利をものにしてきた秘訣であった。
しかしそうしてバックステップを使うようになったため、レベッカ選手は反撃の手が減っている。
そうして高橋選手が手数でまされば、リズムをつかみやすくなるはずであった。
だが、やはりレベッカ選手も、相手の好きにばかりはさせない。高橋選手が執拗に外回りで足もとを攻めていると、いきなりサウスポーに切り替えて、インサイドから踏み込んだ。
一ラウンドの終了間際ほどではないが、ギアが上げられている。
レベッカ選手は力強いワンツーからボディアッパーにまで繋げて、さらに首相撲に持ち込んだ。
すると、高橋選手も力を振り絞り、真っ向から首相撲を受けてたつ。
おたがいに、ギアを上げた状態での組手争いだ。一ラウンド目で見せた攻防が、さらなる力感で繰り返された。
だが、パワーとスピードはレベッカ選手が上であり、技術の面でもおおよそ互角である。
すると、高橋選手は組手争いの渦中で、足も出し始めた。
柔道仕込みの足技であるが、この状況では自分がバランスを崩す恐れもある。そんなリスクを抱えての、新たな一手であった。
レベッカ選手はその足技をかわしながら、高橋選手の身を左右に振ろうとする。
パワーに差があるため、やはり劣勢であるのは高橋選手のほうだ。自然、瓜子は息を詰めることになった。
しかし高橋選手は体勢を崩されながら、なおも足を飛ばしていく。
その間隙を突いて、レベッカ選手が右膝を振り上げた。
首相撲による固定は完成されていないが、鋭い膝蹴りが高橋選手の脇腹に突き刺さる。
高橋選手は苦しげに身を折りながら、レベッカ選手の軸足を刈ろうとした。
それで足を刈られる前に、レベッカ選手は高橋選手の身を突き放しつつ、右肘を旋回させる。
高橋選手は左腕でその肘打ちを受け止めつつ、後方にたたらを踏んだ。
レベッカ選手は驚異的なスタミナで、さらに右ストレートを射出する。
高橋選手はぎりぎりのタイミングでそれをかわし、自らもボディフックを繰り出した。
レベッカ選手は左腕でそれをガードして、ようやく距離を取る。
いよいよ試合が勢いを増してきたため、会場は大歓声だ。
だが、その内容は――じわじわと、高橋選手が追い詰められている格好であった。
「客観的には、完全にレベッカのペースだわけど……まあ、あきらめるのはまだ早いだわね」
「あったりまえじゃん! 勝負は、ここからっしょー!」
控え室の面々が言う通り、まだまだそうまで一方的に不利なわけではない。
しかし、すべての攻め手を潰されて、ゆるやかに主導権を握られるというのは、こちらがもっとも警戒していたパターンであった。レベッカ選手は、こういう手管で数々の判定勝利をものにしてきたのである。
(でも、思ったよりもテイクダウンの仕掛けが少ない。きっと高橋選手のガードが固いから、レベッカ選手もテイクダウンを狙えずにいるんだ)
あるいは、立ち技でも優勢であるので、無理にテイクダウンを仕掛ける必要もない、ということなのかもしれないが――何にせよ、高橋選手が積んできた稽古も随所で実を結んでいるのだ。それで何とか、やや劣勢という状態に踏み留まっているのだった。
(ただ、二ラウンド連続でポイントを取られるのはまずい。さっきの膝蹴りに匹敵するぐらいの有効打を返して、ポイントをタイに戻さないと)
レベッカ選手を相手に二つのポイントを取られたら、最終ラウンドは逃げの一手を取られる恐れがあるのだ。ディフェンス能力の高いレベッカ選手に逃げ回られたならば、もはや勝機もなくなってしまうはずであった。
しかし高橋選手は逸ることなく、力強い足取りで前進する。
それで振るわれたのは、右のミドルであった。
一ラウンド目はそこで追い突きに繋げたが、今回は蹴り足を前に下ろして、左ミドルをたたみかける。
これもまた空手流の、スイッチングであった。
一発目のミドルをバックステップで回避して、二発目のミドルを右腕でガードしたレベッカ選手は、頭を屈めて組みつこうとする。
蹴りを多用すると重心が浮きがちであるので、テイクダウンのチャンスと見なしたのだろう。うんざりするぐらい、レベッカ選手は冷静かつ賢明であった。
しかし高橋選手も、ボディアッパーでそれを迎え撃つ。
レベッカ選手が組みついてくることを、あらかじめ警戒していたのだ。高橋選手も、冷静さでは負けていなかった。
それを右腕でガードしたレベッカ選手は、執拗に組みつこうとする。
まだ高橋選手の軸は安定していないと見なしたのだろう。実際、高橋選手はボディアッパーの迎撃を優先して、足の位置がそろってしまっていた。
足は前後に開いておかないと、わずかに押されただけで倒れてしまうのだ。
それでレベッカ選手は、遠慮なく高橋選手の身を押し込んだが――高橋選手は左手で相手の肩をつかみながら、自ら後ろに倒れ込んだ。
そして、倒れながら相手の右足を両足ではさみこもうとする。
ずいぶん粗い形であるが、カウンターのカニばさみである。
レベッカ選手は高橋選手の身をそのまま突き倒すと、はさまれかけた右足を引っこ抜いて、その場を駆け抜けた。
そうしてレベッカ選手が振り返った頃には、高橋選手も寝そべったまま向きなおり、両足を開いている。グラウンドに来るならガードポジションを確保しようという体勢だ。
レベッカ選手は一瞬迷う素振りを見せたが、けっきょくそのまま後ずさった。
高橋選手はレフェリーにうながされて、立ち上がる。その姿に、鞠山選手が「ふふん」と鼻を鳴らした。
「実にお粗末なカニばさみだっただわね。見様見真似にも、ほどがあるんだわよ」
「うん、まー、こればっかりはフォローできないかなー。あんな技、ミッチーは練習してなかったもんねー」
「でもその稚拙さがレベッカの意表を突いて、リズムを狂わせたんだわよ。得意のグラウンド戦に移行しなかったのが、その証拠だわね」
確かにレベッカ選手であれば高橋選手にガードポジションを取られても、ポジションキープするのに苦労はないだろう。あとは時間が過ぎる分だけ、レベッカ選手のポイントになるのだ。
しかし、レベッカ選手は迷った末に、グラウンド戦を取りやめた。きっと、お粗末なカニばさみを披露した高橋選手に、警戒したのだ。寝技においても、高橋選手はどんな手を出してくるかわからない――そんな思いにとらわれたのではないかと思われた。
(これはたぶん、光明だ。ユーリさんも最後の最後でレベッカ選手のリズムを崩して、大逆転したんだからな)
立ち上がった高橋選手は、いっそうギアを上げて拳を振るい始めた。
ただし、がむしゃらに突っ込むのではなく、前後にステップを踏んでの的確な攻撃だ。パンチとキックを織り交ぜた、緩急のきいた攻撃であった。
しかし、そういう綺麗な戦い方は、レベッカ選手がもっとも得意とするところである。
それでレベッカ選手が打撃戦に応じようとすると――高橋選手はいきなり組みついて、三たび首相撲を仕掛けた。
レベッカ選手は出鼻をくじかれた様子で、首相撲の組手争いに移行する。
高橋選手は先刻以上の勢いで、柔道仕込みの足技を飛ばした。
先刻以上の勢いであるために、先刻以上に自分がバランスを崩している。
しかし、レベッカ選手は対応に迷っている様子であった。
先刻も不利な形で終わった高橋選手が、どうしてまた首相撲を仕掛けてきたのか、不審に思っているのかもしれない。瓜子自身、ここで高橋選手が首相撲を仕掛けるとは予想していなかった。
(でもこれで、いっそうレベッカ選手のリズムを崩せたみたいだ)
なおかつ、高橋選手は奇策に走るタイプではない。さっきのカニばさみは奇策そのものであったが、あれはおそらく咄嗟の判断であろう。なんの策もないままに、自分から首相撲を仕掛けるとは思えなかった。
そうしてレベッカ選手は反撃の手を控えつつ、有利な組手を取ることにいそしみ――いっぽう高橋選手は強引な内掛けを仕掛けたのち、いきなりレベッカ選手の身を突き放した。
レベッカ選手がたたらを踏むと、高橋選手はアウトサイドに回り込んで、右フックを叩きつける。
レベッカ選手は頭部をガードしていたが、高橋選手の右拳はそのガードの外側からこめかみを撃ち抜いた。
この試合で初めてとも言える、高橋選手のクリーンヒットである。
さらに、高橋選手は左足を振り上げた。
レベッカ選手はすかさず右腕でボディを守ったが、高橋選手の蹴り足はその内側に忍び込んでいく。
それは空手流の、三ヶ月蹴りであったのだ。
いくぶん当たりは浅かったが、高橋選手の右足は間違いなくレベッカ選手のレバーを撃ち抜いていた。
瓜子は胸を高鳴らせながら、納得する。
先刻の首相撲に、策などなかったのだ。あれはレベッカ選手のリズムを崩すためだけに振るわれた仕掛けであり、本当の狙いはその後の打撃戦であったのだった。
言ってみれば、無策であったことが策であったということであろうか。
高橋選手は奇策に走るタイプではなかったが、勝利のために限界まで頭を振り絞っているのだろうと察せられた。
しかしレベッカ選手も、頑丈な肉体を持つシンガポールのトップファイターである。
右フックと三ヶ月蹴りをくらいながら、その軸はまったく揺らいでいなかった。
そしてその後はいくばくかの打撃の攻防が交わされて、第二ラウンドも終了である。
灰原選手は、「ふひー!」と息をついていた。
「いやー、どう転ぶかわかんないから、これっぽっちも気が抜けないね! でも、今のラウンドはミッチーが取ったんじゃない?」
「どうだろうね。ジャッジによって、評価は分かれそうなところだけど……でも、そこまで持ち込めたのは大きいよ」
「そうだわね。どっちについたかわからないという時点で、レベッカも逃げられなくなったんだわよ。最終ラウンドが、おたがいにとって正念場だわね」
高橋選手の善戦に、控え室もわきたっている。
瓜子も高鳴る胸を押さえながら、ひさびさに隣のユーリを振り返った。
「高橋選手は、すごく頑張ってますね。ユーリさん的には、どうっすか?」
「うみゅ。なかなか寝技の展開にならないのが、物寂しいところでありますけれども……高橋選手は、立ち技で勝負をかけるという作戦だったものねぇ」
そう言って、ユーリはふにゃんと微笑んだ。
「ユーリのへたっぴな立ち技でも何とかなったので、きっと高橋選手なら勝利できることでありましょう。そんな風に願ってやまないユーリなのでぃす」
「ええ。ユーリさんと高橋選手じゃタイプが全然違うんで、比べることもできないっすけど……きっと、やってくれますよ」
そうして盟友たちの期待を一心に背負いながら、高橋選手はインターバルでも泰然とした顔を見せており――そして、ついに最終ラウンドを迎えることに相成ったのだった。