10 ロシアン・ボンバーとザ・サップル
青田ナナは青田コーチとマリア選手に付き添われて、救急病院に搬送されていった。
瓜子たちは無念の思いを力にかえて、あらためてモニターを取り囲む。プレリミナルカードも残すところは三試合で、次に登場するのはオルガ選手とイーハン選手であった。
まずは青コーナー陣営から、オルガ選手が姿を現す。
《アクセル・ファイト》の公式ウェアを纏った、勇壮なる姿だ。かつては《アトミック・ガールズ》で、現在は《アクセル・ファイト》で活躍する身であるため、オルガ選手にも惜しみなく歓声が届けられた。
そして赤コーナー陣営から、イーハン選手も登場する。
こちらも『アクセル・ロード』に参戦していたため、日本ではそれなりの知名度であるのだろう。また、ユーリと対戦した選手はさらに拍車が掛けられるはずであった。
「実際のところ、この試合はどうなんだろうねー。あたしはオルガが圧勝するイメージしかないんだけど!」
「うん、まあ、イーハンも過去の試合を見る限り、立派なトップファイターだけど……あたしらが注目するような試合では、いいところがなかったからね」
多くの日本人選手にとっては、それが正直な感想であろう。イーハン選手は『アクセル・ロード』で沖選手に圧勝していたが、何せ階級が違っていたため、あまり参考にはならないのだ。
そうしてユーリに敗北したイーハン選手は膝靭帯の損傷で長期欠場を余儀なくされ、そこからの復帰後は三勝三敗という戦績であったが――瓜子たちに馴染みのあるエイミー選手、ランズ選手、レベッカ選手に敗北しているため、どうしてもそちらのイメージが印象に残されてしまうのだった。
(エイミー選手いわく、イーハン選手は波に乗せると強いって話だけど……オルガ選手は、そう簡単に波に乗せないだろうしな)
オルガ選手は五月の大会を皮切りに、すでに《アクセル・ファイト》で三勝をあげている。八ヶ月という期間で、これが四試合目であるのだ。それはいずれも中規模の大会であったものの、《アクセル・ファイト》においてこれほど矢継ぎ早に試合を組まれるというのは、そうそうありえないという話であった。
そして、それらのすべてがKO勝利であったため、《アクセル・ファイト》との正式契約も目前――というか、すでに内定しているのだと聞き及んでいる。今日の試合でよほどぶざまな姿を見せない限りは内定を取り消されることもないだろうと、オルガ選手本人が語っていた。
《アクセル・ファイト》ではロシアの男子選手が凄まじい実力を見せているため、オルガ選手にも大きな期待がかけられているらしい。
また、父親たるキリル氏も、かつては短期間ながら《アクセル・ファイト》で活躍しており、現在ではチーム・マルスのトレーナーとして数多くの強豪選手を世に輩出している身であるのだ。
それでオルガ選手は正式契約に至っていない身でありながら、今回のイベントにおいてバンタム級の一角として大抜擢されたのだった。
つまりこれは、のぼり調子であるオルガ選手と下り調子であるイーハン選手の一戦であるのだ。
ただしどちらもまったく異なる舞台で実績を築いてきたため、相対的な実力を比べることも難しい。
両選手に共通するのは、ただ一点――過去にユーリに敗れたことがあるという記録のみであった。
(そういう意味では、イーハン選手もオルガ選手に負けないぐらい、ユーリさんを苦しめてたけど……その後の戦績が、ふるわないからな)
しかし決して油断できる相手ではないし、オルガ選手の側に油断などはひとかけらも存在しないことだろう。瓜子は安心して、オルガ選手の勇壮なる姿を見守ることができた。
『第五試合! バンタム級、135ポンド以下契約! 五分三ラウンドを開始いたします! ……青コーナー、《JUFリターンズ》代表! 135ポンド! チーム・マルス所属! ロシアン・ボンバー……オルガ・イグナーチェヴァ!』
日本人にはいささかチープに聞こえる異名であるが、ボンバーというのは爆撃機という意味であるらしい。バンタム級でも屈指の破壊力を有しているであろうオルガ選手には、相応しい呼称であった。
『赤コーナー、《ビギニング》代表! 134.9ポンド! プログレスMMA所属! ザ・サップル! ……イーハン・ウー!』
サップルとは馴染みのない英単語であるが、「しなやか」だとか「柔軟」だとかいう意味であるらしい。おそらくは、イーハン選手の優雅な立ち居振る舞いから名付けられたのだろうと察せられた。
オルガ選手とイーハン選手は、レフェリーのもとで向かい合う。
オルガ選手は身長百七十四センチ、イーハン選手は百六十九センチで、身長差は五センチだ。しかしオルガ選手が分厚い体格をしているため、もっと差があるように感じられた。
イーハン選手は日本人選手よりも体格に恵まれているはずだが、オルガ選手はそれよりもさらにひと回りは大きい。ロシア人というのは、海外でも屈指の頑強な骨格であるというもっぱらの評判であるのだ。
それを象徴しているのは、オルガ選手の拳である。
オルガ選手は、並の日本人男性よりも拳が大きいのだ。オープンフィンガーグローブも、男性用であるはずであった。
そんなオルガ選手と相対しながら、イーハン選手は普段通りの悠然とした面持ちである。
見目のいい、タレントのような顔立ちだ。それで彼女はシンガポールでも大きな人気を獲得していたが、格下であるランズ選手に敗北したことで土俵際に追い込まれているはずであった。
「にやけた顔は、相変わらずか。オルガさんを相手に、どこまでそれがもつんだろうな」
立松も、厳しい言葉でイーハン選手を評している。
べつだんイーハン選手に罪はないのだが、彼女はいつも瓜子たちと対立する陣営であるのだ。こればかりはマッチメイクの妙であるので、如何ともし難かった。
ちなみにこれは本日の興行において、《アクセル・ファイト》と《ビギニング》の所属選手の最初の対戦となる。
日本においては注目度が下がる分、世界的には注目されているはずであった。
「オルガっち、頑張れー! あんたが大好きなトッキーも応援してるからねー!」
「それは何だか、人聞きが悪いよ」
と、小笠原選手が苦笑まじりの声をあげたところで、試合開始のブザーが鳴らされた。
オルガ選手は力強い足取りで進み出て、イーハン選手は――軽やかなステップで遠ざかる。どうやらイーハン選手は、アウトファイトでオルガ選手を相手取ろうという算段であるようであった。
「ふん。まあ、オルガと真正面からやりあうのは、避けたいだろうだわね」
「うん。イーハンってのは小器用そうだから、きっと付け焼刃ではないんだろうね」
小笠原選手が言う通り、イーハン選手はなかなかに巧みなステップワークを見せている。彼女とて、シンガポールのトップファイターであるのだ。その技術やフィジカルは、世界級であるはずであった。
そんなイーハン選手を前にして、オルガ選手は力強く前進していく。
パット選手やアメリア選手のような猛烈なる突進ではないが、一定の速度で突き進む重戦車のごとき迫力だ。本日は味方陣営でありながら、背筋に寒気を覚えるような迫力であった。
それでもイーハン選手は軽妙な足取りでステップを踏み、牽制のジャブを振るう。
それをガードで弾きつつ、オルガ選手も左ジャブを繰り出した。
しっかりとガードを固めたイーハン選手の右腕に、オルガ選手の左拳が叩きつけられる。
その一撃で、イーハン選手の足取りが乱れた。
オルガ選手もかつてはフックを主体にしていたが、プレスマン道場における出稽古でみっちり左ジャブを鍛えなおすことになったのだ。
それはユーリが渡米する前、二年以上も前の話であったが、オルガ選手の左ジャブはいっそう鋭さを増したようだった。
イーハン選手はまだ余裕の表情を取りつくろっているが、ステップの足取りがせわしなくなっている。
するとオルガ選手は大股で踏み込んで、右のオーバーフックを射出した。
ロシアンフックという異名がつけられるぐらい、ロシアの選手が得意にする攻撃だ。よって、イーハン選手もこの攻撃は十分に警戒しているはずであったが――ガードした左腕をしたたかに叩かれると、一気に惑乱の表情になりながらよろめくことになった。
完全に、オルガ選手の迫力に呑まれてしまった様子である。
そしてイーハン選手は、いったんメンタルを崩すとなかなか復調しないと見なされていた。
そんな考察を裏付けるように、イーハン選手はもつれた足取りで逃げようとする。
そこで再び大きく踏み込んだオルガ選手は、右手をイーハン選手の左膝にかけつつ、左手で右肩を押しやった。
テイクダウンの技術、ニータップである。
イーハン選手はなすすべもなく倒れ伏し、オルガ選手がその上にのしかかった。
イーハン選手はハーフガードのポジションを取ろうとするが、オルガ選手は問答無用の勢いで相手の足を乗り越えて、腰にまたがる。
あっという間に、マウントポジションである。
オルガ選手は灰色の瞳を冷徹に光らせながら、大きな拳を振りかざした。
イーハン選手は狂ったようにもがいたが、オルガ選手の身は微動だにしない。
コンバットサンボの使い手であるオルガ選手は、グラウンドの技術にも隙はないのだ。
そして、マウントポジションからのパウンドというのは、父たるキリル氏が現役時代に何度となくTKO勝利を奪取していた勝ちパターンであった。
石のように硬くて大きいオルガ選手の拳が、無慈悲にイーハン選手を殴りつけていく。
イーハン選手は自分の頭を抱え込み、もはやエスケープの動きを取ることもできない。また、どれだけガードを固めようとも、オルガ選手はその隙間を狙ってイーハン選手の顔面やこめかみに拳を叩きつけた。
傍目には凄まじい勢いであるが、当のオルガ選手は冷静そのものであるのだ。
彫像のような無表情で粛々と拳を振り下ろすオルガ選手の姿は、《JUF》で活躍していたキリル氏と生き写しであった。
そのパウンドの数が十発を超えたところで、レフェリーが両者の間に割って入る。
大歓声の中、オルガ選手は息ひとつ乱さずに立ち上がった。
『一ラウンド、一分十五秒! パウンドによるレフェリーストップで、オルガ・イグナーチェヴァ選手のTKO勝利です!』
レフェリーにあげられたオルガ選手の右拳から、前腕のほうにまで鮮血が滴った。
いつしかイーハン選手は、鼻血を噴出させていたのだ。顔面を血まみれにして倒れ伏したイーハン選手と無表情に勝ち名乗りを受けるオルガ選手の対比が、勝負の無情さをあらわにしていた。
「やったやったー! 百秒以内の、秒殺だね! さすが、オルガっちだなー!」
「うん。味方としては、こんなに頼もしいやつもなかなかいないよね」
灰原選手も小笠原選手も、とても嬉しそうな様子である。
かつてはオルガ選手も合宿稽古やライブ観戦をともにした間柄なのである。瓜子もまた、温かな気持ちで手を打ち鳴らすことになった。
『圧倒的な迫力で秒殺KO勝利をものにした、オルガ選手です! オルガ選手、《JUFリターンズ》のみならず《アクセル・ファイト》の代表として、素晴らしい実力を見せつけましたね!』
リングアナウンサーの言葉を通訳の女性が説明すると、オルガ選手は『はい』と日本流に答えてから英語で語った。
『今日も一ラウンドで勝利できたので、《アクセル・ファイト》との正式契約に期待します。また、私は日本人選手の勇躍にも期待しています』
通訳の女性が日本語に翻訳すると、リングアナウンサーは『日本人選手の勇躍ですか?』と反問した。
『はい。今日のイベントに出場するユーリ・モモゾノに、ヤヨイコ・アカボシ、ミチコ・タカハシ、ナナ・アオタは、みんな素晴らしいファイターです。そして私は、かつて敗れたトキコ・オガサワラにもリベンジしなくてはなりません。彼女たちが世界クラスの選手であることに疑いはありませんので、私は《アクセル・ファイト》の舞台で彼女たちを待ちたいと思います』
オルガ選手のそんな言葉に、会場はいっそうの大歓声に包まれる。
そして控え室においては、灰原選手が小笠原選手の背中をどやしつけた。
「やっぱオルガっちは、トッキーのことが大好きだよねー! しっかり期待に応えてあげなよー?」
「はいはい。まったく、世界中に配信されてる映像で、ずいぶんな宣言をしてくれるもんだね」
そのように語る灰原選手と小笠原選手は、やはりとても嬉しそうな様子だ。
そして瓜子は温かいを通り越して、胸を熱くすることになったのだった。