09 赤と白
フェンス際に出された椅子に腰を落とした青田ナナは、疲弊しきった姿をさらしていた。
グラウンド状態で窮地に陥った青田ナナは、死に物狂いで相手にしがみつくことで、九死に一生を得たのだ。パット選手のパワーに対抗して抱きついているだけで、青田ナナは存分にスタミナを削られたはずであった。
そんな青田ナナにマッサージを施しているのは、是々柄である。
その特異な才能を見込まれて、今回も是々柄がチーフセコンドに任命されたのだ。司令塔である青田コーチはフェンス越しに助言を授けており、マリア選手はフェンスから身を乗り出して青田ナナの首筋に氷嚢をあてがっていた。
いつも冷徹な青田コーチは、普段以上に鋭い面持ちで娘の背中に語りかけている。
そういえば、青田コーチはかつて赤星道場を捨てた卯月選手を追いかけて、《JUF》に参戦した身であったのだ。それでもまったく結果を残すことができなかったため、赤星道場と《レッド・キング》は衰退の一路を辿ったのだった。
本日はあくまで合同イベントであるし、そうでなくてもそんな私怨を試合に持ち込むことはないだろうと思われたが――ただ、青田ナナと青田コーチの両眼にみなぎる激情の炎は、犬飼京菜を思い出させてやまなかった。
いっぽうパット選手は赤コーナー側の椅子にふんぞり返って、ドリンクボトルの水を頭から浴びている。
あれだけ暴れ回っていたのだから相応にスタミナをつかっているはずであるが、まだまだ余力は十分なようだ。膝蹴りをクリーンヒットされた腹にも、まったくダメージはないようであった。
「勝負は、ここからだね。仕切り直しのチャンスを使って、蹴りを出せるだけの間合いをキープするんだ」
「うんうん! どーせあっちはまた突っ込んでくるだろーけど、押し負けるなよー、青鬼!」
多賀崎選手や灰原選手は自らを鼓舞するように、そんな言葉を交わしている。
どこからどう見ても、優勢なのはパット選手のほうであったが――しかし、青田ナナはどれだけ疲弊しても、試合前とまったく変わらない気迫をみなぎらせていた。
(青田さんは、粘り強さが身上なんだ。きっと、最後には勝ってくれる)
無言でたたずむ赤星弥生子の殺気をひしひしと感じながら、瓜子もそのように祈っていた。
そんな中、第二ラウンドの開始である。
試合再開のブザーが鳴らされると同時に、パット選手は突進してきた。
それを迎え撃つ青田ナナは遠い位置から身をよじり、右足を真っ直ぐ射出する。
五週間の合同稽古で錬磨を重ねた、サイドキックである。
瓜子とのスパーで隙の多さを指摘された青田ナナは、不屈の闘志でこの蹴り技も磨き抜いたのだ。
なおかつ、サイドキックというのは他の蹴り技ほど、MMAで多用される技ではない。おそらくはその意外性が功を奏して、パット選手は真正面から腹を蹴り抜かれることになった。
パット選手の突進力がカウンターとして跳ね返ったのだから、これはかなりの破壊力であったことだろう。
なおかつパット選手は、第一ラウンドでも腹に膝蹴りをクリーンヒットされている。
だが――パット選手は一瞬動きを止めただけで、すぐさま前進しようとした。
すると今度はその顔面に、左の足先が飛ばされる。青田ナナは右の蹴り足を下ろすなり、逆の足で前蹴りを放ったのだ。
危うく下顎を蹴り抜かれそうになったパット選手は、それでようやく足を止める。
その眼前で、青田ナナは軽やかにステップを踏んだ。
スタミナの消耗を感じさせない、軽妙な足取りだ。そして、両腕のガードが腹のあたりまで下げられていた。
ガードを下げたのは、視界を広く保つためである。
そして今度は奥足から、腹を狙った前蹴りを繰り出した。
パット選手は険しい面持ちで、腹をガードする。
その前腕に、青田ナナの前蹴りがめりこんだ。
「よーしよし! やーっとペースをつかめたねー!」
灰原選手が嬉々とした声をあげ、瓜子もひそかに息をつく。
これこそが、青田ナナが当初から狙っていた展開であったのだ。一ラウンド目の劣勢をようよう乗り越えたことで、青田ナナはようやく最初の一歩を踏み出せたのだった。
パット選手が前進の素振りを見せると、今度は膝を狙った関節蹴りが繰り出される。
それをすかしたパット選手が近づこうとしたならば、ステップワークで後退だ。
蹴り技とステップワークで、パット選手の拳が届かない距離を保つ。そうしてスタンド状態における主導権を握った上で、テイクダウンを成功させるというのが、青田ナナの基本戦略であった。
「腹に二発くらって、相手もようやく警戒したのかもね。これだったら、なんとか――」
多賀崎選手がそのように言いかけたとき、パット選手が大きく踏み込んだ。
青田ナナはすかさず前蹴りを繰り出したが、それは不発に終わる。パット選手は大きく踏み込みながら身をねじり、バックスピンハイキックを繰り出したのだ。
ボクシング&レスリングのスタイルであるパット選手が、これまでにそんな大技を見せたことはない。
それでも青田ナナは、なんとか身を屈めてその蹴りを回避していたが――その代償として、ステップを踏む足が遅れた。
一回転したパット選手は、その勢いのままに右拳を振りかざす。
青田ナナは腹まで下げていた左腕を上げて、ぎりぎりのタイミングで頭部をガードした。
なんとか事なきを得たが、またパンチの間合いになってしまっている。
あらためて、パット選手は左右の拳を振り回した。
「わーっ! さっさと、距離を取らないと!」
「だけど、ここまで間合いが詰まったら――」
多賀崎選手がそのように言いかけたとき、青田ナナの右拳がパット選手の下顎にめりこんだ。
青田ナナはその場に踏みとどまって、右アッパーを繰り出したのだ。
それでもパット選手はダメージを負った様子もなく、右フックをお返しする。
それを再びかいくぐった青田ナナは、鋭いレバーブローをパット選手の右脇腹に叩きつけた。
それでも、パット選手の勢いは止まらない。
これだけフィジカルの差があるからこそ、パンチ勝負は分が悪いと見なされたのだ。
しかし青田ナナはステップワークで逃げようとせず、苛烈なインファイトに身を投じた。
パット選手の攻撃は極力回避しようとするが、何発かは腕でガードする羽目になっている。そのたびに、青田ナナの身は頼りなく揺らいだ。
いっぽうパット選手はどれだけの攻撃をくらっても、おかまいなしで拳を振り回している。その頑丈さは、もはや人間離れしていた。
「これじゃー、やばいって! 真正面からやりあうのは、ムボーだって話だったでしょー!」
「それでも距離を取れないなら、臨機応変に対応するしかないだわよ」
と、ふいに鞠山選手の声も入り混じった。ようやく傷の手当とクールダウンが終了したのだろう。
しかし瓜子は、モニターから目を離すこともできない。パット選手の豪腕は、一発でもクリーンヒットされたら試合が終わりかねないのだった。
「もとより青鬼はインファイターなんだわから、完全に不利というわけではないんだわよ。だから今も、互角の攻防を実現できてるわけだわね」
「でも、これじゃあジリ貧でしょー?」
「これで勝負を決めようとするなら、勝ち目はないだわね。青鬼親子は、そこまで愚かではないはずだわよ」
瓜子としては、鞠山選手のそんな言葉と青田ナナの底力を信じるしかなかった。
もとより一ラウンド目でスタミナをつかっている青田ナナは、見る見る苦悶の形相になっていく。とてつもない緊張感の中でインファイトに興じているだけで、さらなるスタミナを消耗していることだろう。腕にくらうダメージと衝撃が、さらに拍車をかけるはずであった。
いっぽうパット選手はようやく望み通りの展開に至って、嬉々としているように見える。こうしてインファイトで相手を叩き潰すというのが、パット選手の勝ちパターンであるのだ。
(でも、だからこそ……こっちのチャンスも生まれるのかもしれない)
パット選手は見るからに、直情的なファイターだ。自分の庭場では途方もない勢いを発揮するが、そのぶん油断の気配もちらついていた。
(ここで何か、相手の意表を突くことができれば――)
そのとき、果敢に反撃していた青田ナナが、いきなりパット選手の身を突き放した。
その顔は、ほとんど泣き顔になってしまっている。スタミナの限界が近づいたときに見せる、青田ナナならではの表情だ。
しかし、どれだけ表情が崩れても、その双眸には闘志の炎が燃えさかっている。
それで青田ナナは多賀崎選手との試合でも最後まで死力を尽くし、判定勝利をもぎ取ったのである。
パット選手の身を突き放した青田ナナは、そのまま後ろ向きに走るような格好で逃げ出そうとした。
そうはさせじと、パット選手は猛然と追いすがる。
楽しいインファイトを終わらせてたまるものかと、その顔はほとんど憤怒の形相になっている。異名の通り、獲物を追うピット・ブルさながらの迫力であった。
すると、青田ナナが左腕を真っ直ぐ突き出す。
しかも、拳ではなく、手の平だ。大きく開かれた手の平が、パット選手の顔面と衝突した。
ルール上、掌打は反則ではない。
ただ、ダメージを与えにくいし、自分の手首を痛める危険も大きいため、使う人間が少ないだけのことである。
よって、青田ナナの掌打もダメージを狙ったものではなかった。
その左の手の平を相手の顔面に押しつけた状態のまま、青田ナナは右足を振り上げたのである。
おそらくは、その掌打が目隠しの役割を果たしたのだろう。
そして、パット選手は鼻っ柱を叩かれた衝撃にもめげずに右拳を振りかざしていたが――それよりも早く、青田ナナのハイキックが左のこめかみを撃ち抜いたのだった。
さしものパット選手も横合いによろめいて、フェンスに取りすがる。
蹴り足を下ろした青田ナナは大きく息をついてからファイティングポーズを取りなおし、そちらに近づこうとした。
「やったやったー! 今の内に、蹴りまくっちゃえー!」
「ああ! 今のは、クリーンヒットだった! これなら、いくら頑丈でも――」
と、控え室と客席が同時にわきかえったとき――慌てた顔をしたレフェリーが、両者の間に割って入った。
まさか、レフェリーストップではないだろう。パット選手はフェンスにへばりついたままであったが、自分の足で立っていたし、意識も失っていなかった。
客席の歓声は、不審げなどよめきに切り替えられる。
そんな中、『タイムストップ』の宣告がされて、リングドクターが招集された。
そして、リングドクターが駆けつけたのは、パット選手ではなく青田ナナのもとである。
なおかつリングドクターは、青田ナナの足もとに屈み込んだ。
それを追いかけるようにして、カメラが青田ナナの足もとを映し出す。
それと同時に、控え室のあちこちからどよめきがあげられた。
青田ナナの右足の人差し指が、おかしな方向に折れ曲がり――そこから、赤いものと白いものが覗いていたのである。
「これは……おそらく、爪先で蹴り抜いてしまったんだわね」
「あ、あれって、折れた骨が飛び出てんの? うわー、さぶいぼが立っちゃった!」
リングドクターは、悲しげな面持ちで首を横に振る。
そうしてレフェリーが両腕を頭上に掲げようとすると、青田ナナが決死の形相でつかみかかろうとした。
すると、いつの間にかケージに上がり込んでいた青田コーチが、娘を羽交い絞めにする。
そうしてレフェリーは、頭上で両腕を交差させて――試合終了のブザーが鳴り響くと同時に、客席からブーイングの声が爆発したのだった。
『二ラウンド、三分四十八秒! ドクターストップにより、パット・アップルビー選手のTKO勝利です!』
そんなアナウンスが響く中、赤星弥生子は無言のままきびすを返した。
そちらに手を差し伸べかけた瓜子は、途中で拳を握り込む。赤星弥生子を呼び止めても、その後に続ける言葉が見つからなかった。
「えー! これで、青鬼の負けになっちゃうのー? これから大逆転ってところだったのに、納得いかないなー!」
「最後のハイで、相手がダウンでもしてたら、まだ見込みはあったけど……これじゃあ、しかたないよ」
多賀崎選手はそのように言っていたが、パット選手は勝利の宣告がされると同時にへたりこんでいた。
レフェリーがうながしても立ち上がることができなかったため、座った状態で右腕が掲げられる。その姿に、さらなるブーイングが吹き荒れた。
青田ナナのハイキックは、それだけのダメージを与えていたのだ。
しかしルール上は、先に試合続行不可能の状態と見なされた、青田ナナの敗北である。たとえ指先でも、開放骨折という深手ではドクターストップをくらっても致し方がなかった。
青田ナナは父親に羽交い絞めにされたまま座らされて、リングドクターに応急処置を受けている。
そして、眉を下げながら微笑むマリア選手に頭からタオルをかぶせられると、青田ナナもうつむいて動かなくなったため、青田コーチは身を離した。
「……こりゃあ、病院に直行だな。すみれ、ナナの荷物と車のキーを準備しておけ」
と、大江山軍造の野太い声が響きわたる。
そちらに視線が集められると、大江山軍造は赤鬼の顔で笑った。
「勝負に勝って、試合に負けたってやつだな。ま、こんなことは珍しくもねえさ。あんたがたは、勝負でも試合でも勝てるように踏ん張ってくれよ」
「ああ。ナナ坊も、頑張ったよ。赤星道場の底力を見せつけられた気分さ」
立松が静かな声で応じると、大江山軍造は「ああん?」と口もとをひん曲げた。
「こんなもんは、まだまだ序の口よ。ナナの底力を見せつけるのは、これからのこった」
「そうだな。これからも、期待して見守らせていただくよ」
そうして控え室には、感情を持て余しているようなどよめきがあふれかえり――パット選手の勝利者インタビューが開始されたところで、青田ナナたちが戻ってきた。
タオルをかぶった青田ナナは、マリア選手に肩を貸されている。
大江山軍造は、その背後にたたずむ青田コーチへと笑いかけた。
「荷物は準備しておいたぜ。さっさと病院に送ってやれよ」
「ああ。その前に、師範に報告をさせてくれ」
青田コーチは冷徹なる面持ちで、マリア選手にうなずきかける。
そうしてたくさんの眼差しに見守られながら、青田ナナとマリア選手は赤星弥生子のほうに近づいていき――青田ナナは、パイプ椅子に座した赤星弥生子の足もとに取りすがった。
「ごめんなさい……弥生子さんが、せっかくチャンスをくれたのに……」
子供のような泣き声が、瓜子たちのもとにも聞こえてくる。
青田ナナが人前で赤星弥生子の名を呼んだのは、おそらくこれが初めてのことであろう。
殺気の塊と化している赤星弥生子は、優しく微笑みながら青田ナナの震える肩に手を置いた。
「ナナは立派に、道場の看板を守ってくれたよ。私も頑張るから、まずは手当をしておいで」
きっと彼女たちも、幼い頃は普段からこういう姿を見せていたのだろう。
六歳年長である赤星弥生子は、青田ナナが生まれた頃からその姿を見守っていたのだ。
瓜子はまた、熱いものに目もとをふさがれてしまったが――今は彼女たちの同志として、試合で死力を尽くすしかなかった。