05 豪腕のオールラウンダーとブラッディ・ブレット
サキの陣営が控え室に凱旋すると、盛大な拍手と歓声が出迎えた。
しかしサキは、小柴選手に肩を借りている。花道では平気なふりをしていたが、やはり左膝に大きな負担がかかってしまったのだ。それで瓜子がやきもきしていると、誰よりも早く六丸がサキの前に進み出た。
「大丈夫ですか? ステップを切り替えるときに、ちょっと左膝をひねっちゃったみたいですね。僕でよければ、見てさしあげますよ」
「へん。大事なご主人様をほっぽって、余所の道場の人間にかまってる場合かよ?」
「はい。僕は名ばかりのセコンドですから、この時間はやることもありません」
そうしてありがたいことに、サキは六丸の診察を受けることになった。
他の面々はそれを邪魔しないように、モニターへと向きなおる。そちらでは、すでに魅々香選手が入場を始めていた。
プレリミナルカードの第二試合は、魅々香選手とゾエ選手の一戦である。
今回の出場選手の中で瓜子が唯一存在をわきまえていなかったのがこのゾエ選手であったが、今はもちろん過去の試合映像を拝見している。彼女は俊敏なるステップワークと回転の速い打撃技を得意にする、ストライカー寄りのオールラウンダーであった。
いっぽう魅々香選手も、豪腕を武器にしたオールラウンダーだ。
ただし、俊敏さではなく一発の重さと長いリーチがストロングポイントになる。肩書きは一緒でも、まったくファイトスタイルの似ていない両選手であった。
『第二試合! フライ級、125ポンド以下契約! 五分三ラウンドを開始いたします!』
二人がケージインすると、リングアナウンサーの宣言がいっそうの歓声を誘発した。
『青コーナー、《アトミック・ガールズ》代表! 124.8ポンド! 天覇館東京本部所属! 《アトミック・ガールズ》フライ級第七代王者……豪腕のオールラウンダー! 魅々香!』
魅々香選手は爬虫類めいた無表情で、うっそりと一礼する。
スキンヘッドで眉毛もなく、げっそりと頬のこけたその顔は、本日も指折りの迫力であった。
『赤コーナー、《JUFリターンズ》代表! 124.8ポンド! ゴードンMMA所属! 《アクセル・ファイト》ランキング第七位……ブラッディ・ブレット! ゾエ・フェレイラ!』
ゾエ選手は瓜子にとっても馴染みのある、ゴードンMMAの所属であった。
フェンスの向こう側には、厳つい顔立ちをしたゴードン会長が勇猛な顔で笑っている。彼もまた、かつては卯月選手やジョアン選手やキリル氏としのぎを削っていた、かつての《JUF》の四天王であった。
大歓声の中、両選手はケージの中央で対峙する。
身長もウェイトも同等であるが、やはり体格には大きな相違が見て取れた。肩幅や腕の長さでは魅々香選手がまさり、身体の厚みや腰の太さではゾエ選手がまさっている。魅々香選手もリカバリーの数値は海外の選手に負けていないはずであったが、骨格の違いだけはどうしようもなかった。
ただ一般的な日本の選手のように、一方的に体格で劣っているわけではない。あくまで、質が違っているのだ。同じ身長でリーチがまさっているというだけで、十分に有利な条件であった。
そんな両選手を見守る観客たちは、いよいよ熱狂している様子で歓声を張り上げている。
おそらくは、サキのKO劇が人々をいっそう昂揚させたのであろうが――もしかしたら、二人の試合衣装も関係しているのかもしれない。《アトミック・ガールズ》と《アクセル・ファイト》の試合衣装を纏った選手がケージで対峙するというのは、格闘技界の歴史において初めてのことであったのだった。
「頑張れ、ミミー! 人生をかけた大一番なんだからねー!」
と、このたびも灰原選手が元気な声を響きわたらせる。
魅々香選手はこの試合で結果を出せず、格闘技一本で食べていく目処が立たなかったならば、本業を優先してプロ活動を縮小するという覚悟であったのだ。心なし、落ちくぼんだ目もとにも普段以上に思い詰めた光が宿されているように感じられた。
いっぽうゾエ選手は、泰然としたポーカーフェイスだ。
ルール確認を行っている間もしきりに身を揺すって、リズムを刻んでいる。そんなささやかな動きだけで、その身に備わった躍動感がこぼれ出ているように思えてならなかった。
そんな両選手をフェンス際まで下がらせたのち、試合開始のブザーが鳴らされる。
魅々香選手はひたひたと、ゾエ選手は俊敏なステップワークで進み出た。
ゾエ選手で警戒すべきは、この俊敏さである。彼女はひときわ瞬発力に秀でており、KOパワーがない代わりに数多くの攻撃を命中させる手腕に長けているのだ。それで対戦相手は、顔面を血に染めることが多く――そこから『ブラッディ・ブレット』という異名が授けられたようであった。
しかし魅々香選手も、五週間の合同稽古で対策を練り抜いている。
魅々香選手は瓜子や犬飼京菜やマリア選手を中心にスパーを積んで、俊敏なステップワークに対抗するすべを磨いていた。
まずはおたがいに、ジャブで距離を測り始める。
魅々香選手は長いリーチ、ゾエ選手は瞬発力を活かして、とりあえず相手のガードした腕に拳を触れさせることはできていた。
そこでいきなり、ゾエ選手がミドルキックを繰り出す。
魅々香選手は咄嗟にボディをガードしたが、その腕が一発で赤くなるほどの一撃だ。やはり南米系であるゾエ選手は、マリア選手をも凌駕するバネを有しているようであった。
(でも、いきなりのミドルか。リーチ差を埋めるのに、蹴り技は有効だろうけど……テイクダウンを怖がってないのかな)
ゾエ選手もまた寝技や組み技を得意にしているので、積極的に蹴りを使うという方針であるのだろうか。さすが《アクセル・ファイト》のランカーだけあって、自信のみなぎる所作であった。
対外的に見れば、『アクセル・ロード』で敗退した魅々香選手よりもゾエ選手のほうが遥かに格上ということになる。魅々香選手は《アクセル・ファイト》の舞台にのぼることもかなわなかったが、ゾエ選手はランカーであるのだ。たとえ魅々香選手が《アトミック・ガールズ》の王者であろうとも、世界的には評価されていないはずであった。
しかしまた、魅々香選手が『アクセル・ロード』にチャレンジしたのは、二年も昔の話である。
魅々香選手はその後に長期欠場から復活して、《アトミック・ガールズ》の王者となったのだ。それ以降は《フィスト》のタイトルマッチで多賀崎選手に敗れたのみであり、これまでで一番の活躍を見せていた。
今も決して、一方的に攻め込まれてはいない。ゾエ選手の俊敏さと強烈な蹴り技に怯むことなく、自分のリズムで攻撃を返していた。
「悪くない立ち上がりだわよ。落ち着いていけば、勝てない相手じゃないだわよ」
出番が近づいて本格的なウォームアップに突入したはずである鞠山選手の声が、瓜子の背後から聞こえてくる。鞠山選手はひときわ魅々香選手を可愛がっているので、きっと見守らずにはいられないのだろう。
瓜子も心して見守っているが、ケージ内に大きな動きは見られない。
ただし、玄人の目で見れば、両者はきわめて高度な攻防を繰り広げていた。相手に有利な距離と角度を取られないように的確にステップを踏みながら、打撃技にテイクダウンのフェイントも織り込んでいるのだ。それはまるで、近代MMAの教科書に載っていそうな様相であった。
なおかつそれは、選手の質が高い《アクセル・ファイト》でよく見られる光景であり――魅々香選手は、立派にその役を演じていた。
打撃の挙動は豪快だが、魅々香選手は堅実な強さも持っているのだ。ゾエ選手を相手に一歩もひかない、素晴らしい手腕であった。
「だけど……このままだと、ポイントを失うかもしれない」
多賀崎選手のつぶやきに、灰原選手が「えー?」と不満げな声をあげる。
「どーしてさ? ミミーだって、頑張ってるじゃん!」
「ああ。手数では負けてないし、有効打がないのもお互い様だけど……蹴りを使ってる分、相手の攻撃のほうが深く入ってるんだよ。互角だからこそ、そういうちょっとしたことでポイントが左右されるはずだ」
多賀崎選手の言う通り、もっとも効果的に見えるのはゾエ選手の蹴り技であった。ゾエ選手はミドルとミドルハイを上手く使い分けて、蹴り足を取られないように考慮しながら、魅々香選手の腕を着実に痛めつけていたのだった。
蹴られているのはガードをしている腕であるので、有効打とは言えない。
しかし、魅々香選手の腕は見る見る赤くなって、ダメージのほどをあらわにしているのだ。その一点のみが、ゾエ選手の優勢を示していた。
そんな状況を打開できないまま、第一ラウンドは終了してしまう。
天覇館のチーフセコンドは厳しい面持ちで魅々香選手の腕に氷嚢をあてがい、来栖舞はフェンス越しに助言を授けた。
今日は魅々香選手と高橋選手が出場しているが、来栖舞は魅々香選手のセコンドについたのである。
誰よりも尊敬する来栖舞を背後に控えさせた魅々香選手は、その目にいっそう思い詰めた光をみなぎらせていた。
(普通だったら、ちょっと心配になるぐらい意気込んでいるように見えるけど……)
しかしおそらく、魅々香選手はこれでいいのだ。繊細で心優しい魅々香選手は、強く思い詰めることで闘争心を絞り出しているはずであった。
そうして第二ラウンドが開始されると、とたんに戦況が変化した。
魅々香選手もゾエ選手も、組み技を多用し始めたのだ。
奇しくも、両陣営が同じタイミングでリズムチェンジを考案したようである。魅々香選手は劣勢をくつがえすために、ゾエ選手はいっそうの優勢を確保するために、作戦を切り替えたようであった。
ここでも、両名のファイトスタイルの相違が浮き彫りにされる。
ゾエ選手はレスリング、魅々香選手は柔道と、基盤に置いている技術が異なっているのだ。さらに、キックの世界でも名を馳せた魅々香選手は、積極的に首相撲も狙っていた。
ゾエ選手はタックルが主体であり、もともとの俊敏性も相まって、なかなかの厄介さである。
しかし魅々香選手は、MMAであまり主流でない柔道の足技も磨いている。ゾエ選手は明らかにやりにくそうな様子で、必要以上に大きな挙動で魅々香選手の足技を回避していた。
もちろんその合間には、打撃の攻防もはさまれている。
そして、組み技に意識を割けば、打撃の防御が甘くなるのが道理であり――おたがいに、相手の拳を顔面にくらう場面が増えていた。
ゾエ選手の細かい連打をくらった魅々香選手は、すぐさま目尻が切れてしまう。
しかし、魅々香選手の重い拳をくらったゾエ選手も、時おりバランスを崩していた。そこで魅々香選手が組み技を仕掛けるため、いっそうリズムを乱されているようであった。
「いい感じにごちゃついてきただわね。ここで主導権を握るんだわよ」
鞠山選手の語る通り、戦況はじわりと魅々香選手に傾いたように見える。
ほんのわずかな差であったが、ゾエ選手の嫌そうな顔がその印象を深めるのだ。いっぽう魅々香選手の爬虫類めいたポーカーフェイスは、勝負の場においてきわめて有効であった。
だが、第二ラウンドも大きな変化はないまま、あっという間に終わってしまう。
おそらくは、魅々香選手がポイントを取ったように思えるが――ただし、有効打の数はゾエ選手のほうがまさっている。確実に優勢とは言いきれないラウンドであった。
(このままだと……魅々香選手は、勝てないかもしれない)
明確な理由はないままに、瓜子はそんな焦燥にとらわれることになった。