04 サムライ・キックとザ・ストーン
リングアナウンサーの宣言とともに、サキが再び花道に現れた。
《アトミック・ガールズ》の公式ウェアで、カラーリングはブルーとホワイトだ。それに追従するのは、柳原と小笠原選手と小柴選手であった。
客席には、大変な熱狂が渦巻いている。
本日は《アトミック・ガールズ》を観戦したこともないお客も多数おしよせているはずであるが、サキには初見の人間をひきつける魅力が備わっているのだ。短い髪を真っ赤に染めて、切れ長の目を鋭く光らせるサキの姿は、誰よりも瓜子の胸を高鳴らせていた。
そして、《アトミック・ガールズ》に馴染みのある人間であれば、いっそう胸を震わせていることだろう。
《アトミック・ガールズ》の選手がこのような大舞台に立つというのは快挙であるし、アトム級の王者で数多くのKO劇を築いてきたサキが第一試合というだけで、常ならぬ昂揚を覚えるはずだ。《アトミック・ガールズ》ではありえないこの早い登場こそが、このイベントの規模の大きさを物語っていた。
(言ってみれば、普段は邑崎さんや犬飼さんが受け持つような役割を、王者のサキさんが担わされてるわけだもんな)
これは推測に過ぎないが、きっと運営陣はサキに大きな期待をかけて、一番槍に抜擢したのだ。この興行を華々しくスタートさせるために、数々の試合でKO勝利を収めてきたサキをトップバッターに任命したのだろうと思われた。
そしてさらに、これは鞠山選手の言であるが――そんなサキが敗北するならば、それはそれで衝撃的な結末であるのだ。
つまり、勝っても負けても盛り上がるに違いないということで、サキがトップバッターに抜擢されたのだろうという論調であった。
もちろん相手は《ビギニング》の前王者であるのだから、客観的にはあちらのほうが格上なぐらいである。同じ王者でも、《アトミック・ガールズ》と《ビギニング》では格が違うのだ。ベアトゥリス選手は執念で連勝をもぎ取ってみせたが、ムーチェン選手も素晴らしい手腕で長きにわたって王座を保持していた世界級のトップファイターであったのだった。
また、ムーチェン選手はシンガポールの三大ジムならぬ、小規模なジムの所属である。
つまりは、三大ジムの並み居る強豪を退けた上で、王座に君臨していたのだ。シンガポールにおいて、それは素晴らしい快挙であるはずであった。
(それでもサキさんは、勝ってくれるはずさ)
そんな思いを込めながら、瓜子はサキとムーチェン選手の入場を見守った。
やがて両名がケージに上がったならば、リングアナウンサーがあらためて進み出る。
『第一試合、アトム級、105ポンド以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』
《ビギニング》のルールに則って、ウェイトはポンドで発表される。
そして、リングアナウンサーが間を取って、その間に英語のアナウンスも流された。
『青コーナー、《アトミック・ガールズ》代表! 104.8ポンド! 新宿プレスマン道場所属! 《アトミック・ガールズ》アトム級第七代王者……サムライ・キック! サキ!』
サキはかったるそうにたたずんだまま、腕を上げようともしない。
しかし、客席の歓声は勢いを増すいっぽうであった。
『赤コーナー、《ビギニング》代表! 105ポンド! クェックMMAファクトリー所属! 《ビギニング》第三代王者……ザ・ストーン! ムーチェン・ワン!』
ムーチェン選手は、固めた右拳を高々と振りかざす。
《ビギニング》流の選手紹介では身長が公開されなかったが、プロフィールによると百五十八センチだ。サキよりは四センチ低い数値であったが、体格の逞しさは比較にもならなかった。
そもそもサキは平常体重が五十キロを切ったため、アトム級に転向した身となる。
しかしその後はじわじわとウェイトを上げて、また元の五十一キロを超えるようになったのだ。それでもストロー級の五十二キロを超えることはそうそうなかったため、わずかばかりの減量に取り組みながらアトム級における選手活動を継続していた。
よって、リカバリーをした現在も、ウェイトは五十一キロていどであろう。
ハーフトップとファイトショーツに包まれたその身体は、革鞭のようにしなやかである。アトム級としては身長があるほうであるし、頭が小さく、手足が長いため、瓜子がほれぼれするぐらいすらりとしたシルエットであった。
それに対して、ムーチェン選手はいかにも逞しい体格をしている。
均整の取れた体格ではあるが、やはり骨格の出来が違っているのだ。おそらくは中華系の出自で、顔立ちなどは日本人と区別もつかなかったが、身体の厚みは立派なものであった。
ただムーチェン選手は、それほど個性的なファイトスタイルではない。
立ち技も組み技も寝技も巧みなオールラウンダーで、ボクシング&レスリングの王道スタイルである。そして、判定勝負が多いというのも、《ビギニング》の他なる王者たちと同様であった。
「ほとんどKO決着のサキと、ほとんど判定勝負のムーチェンだもんね。そういう意味でも、興味深いマッチメイクだと思うよ」
灰原選手のかたわらに控えた多賀崎選手が、そんなつぶやきをこぼした。
「でも、王道で強い選手は、怖いからね。パワーは明らかにあっちが上だし、瞬発力なんかも並じゃない。たとえサキでも、まったく油断はできないはずだ」
《ビギニング》は大手配信サービス会社と提携したことで、過去の試合映像をおおよそ公開することになった。それで瓜子の身近な人々も、数々の試合を視聴することになったのだ。もちろん瓜子も、ムーチェン選手の試合をいくつか拝見していた。
多賀崎選手の言う通り、王道で強い選手は怖い。それは瓜子もイヴォンヌ選手と対戦することで、嫌になるぐらい実感していた。
いっぽうサキは、組み技と寝技を苦手にする純然たるストライカーだ。
立ち技の技量があまりに際立っているため取り沙汰されることも少ないが、これほど組み技と寝技を二の次にして《アトミック・ガールズ》の王座を獲得した人間は、そうそういないはずであった。
よって、相手に組みつかれるだけで、サキは大ピンチである。
そのために、サキは普段から相手に組みつかれない稽古を重視している。五週間に及ぶ合同稽古でも、その技術にいっそうの磨きをかけていた。
組み技にも寝技にも持ち込ませず、立ち技で圧倒してKO勝利を奪取する。
サキは今もなお、ストライカーとしてのそんな理想を追い求めていたのだった。
「それでもサキだったら、勝ってくれるさ! 勢いをつけるために、派手なKOをお願いするよー!」
灰原選手のそんな声に、試合開始のブザーの音色が重ねられた。
サキはしなやかな足取りで、ムーチェン選手は小刻みのステップで進み出る。
サキは半身に構えたサウスポー、ムーチェン選手はオーソドックスのクラウチングだ。
ムーチェン選手は打撃のディフェンスが巧みである上に、打たれ強い。それでベアトゥリス選手との二度にわたる戦いでも、さんざん攻撃をくらいながら判定勝負までもつれこんだのだ。その粘り強さから、『ザ・ストーン』という異名が与えられたとのことであった。
ムーチェン選手は前後にステップを踏みながら、しきりに両手を動かしている。
その手がたびたび、腰から下にも向けられた。打撃ばかりでなく、組みつきのフェイントを織り交ぜているのだ。当然あちらも、サキのファイトスタイルは入念に研究し尽くしているはずであった。
いっぽうサキは、マットの上をすべるようなステップを見せている。
左膝を故障したのちに体得した、サキの新たなステップだ。初見では、その優美なステップのリズムをつかむことも困難なはずだった。
(長丁場は、相手の有利になるはずだ。理想を言えば、相手がサキさんの動きに慣れる前に仕留めたい)
瓜子がそのように思案すると同時に、ムーチェン選手が鋭い踏み込みを見せた。
基本のスピードは並であっても、ここぞという場面における瞬発力は世界級だ。そこから生じる攻撃の緩急は要注意と、トレーナー陣はかねてより警戒していた。
それで振るわれたのは、奥足からのローキックである。
しかも、ふくらはぎの下部を狙ったカーフキックであった。
リーチとコンパスに差のあるサキは、危なげなくその蹴りを回避する。
ただ――ボクシングを得意にするムーチェン選手がいきなり蹴りを放つというのは、常ならぬ攻め手であるはずであった。
「おそらくは、サキからテイクダウンに来ることはないと踏んで、蹴りを戦略に組み込んだんだろうな」
瓜子の背後に控えた立松が、そんなつぶやきをこぼした。
ボクシング&レスリングのスタイルで蹴り技を控えるのは、バランスを崩してテイクダウンを取られるリスクが生じるためである。寝技も組み技も不得手なサキが相手であれば、ムーチェン選手が蹴り技をためらう理由もなくなるわけであった。
「しかしこいつは、付け焼刃じゃねえな。普段から蹴りもしっかり練習した上で、試合では使いどころを吟味してるんだろう。さすがは《ビギニング》の元チャンピオン様だぜ」
「ああ。それにこいつは、ブラジルのなんとかってやつに連敗してるんだろ? 誰だって、三連敗してたまるもんかって気合を入れるだろうな」
立松に続いて、サイトーの声も聞こえてくる。
その間に、ムーチェン選手が右のミドルキックを放った。
確かに付け焼刃とは思えない、力感のこもった攻撃だ。
サキは悠然と回避していたが、得意のカウンターを出すことはできなかった。
「サキはサキで、リズムを読んでるんだろう。基本のスピードでは圧勝してるはずだが……テイクダウンのプレッシャーを、どれだけ感じてるかだな」
「ふん。あの赤毛だったら、そんなもんは鼻息で吹き飛ばすだろうぜ」
サイトーの不敵な言葉とともに、今度は左のインローが飛ばされた。
サキはふわりとアウトサイドに逃げ――そして、初めての反撃を試みる。
それは、だらりと垂らしていた右腕による、フリッカージャブであった。
インローをかわした直後の遠い距離であるため、サキの長いリーチでもぎりぎり相手の頬に触れたていどの当たり加減だ。
ムーチェン選手は意に介した様子もなく、さらに小刻みにステップを踏んだ。
スタミナに自信がある選手特有の、一見はせわしなく見えるステップワークだ。
相手に的を絞らせない、いい動きであった。
それでサキも、相手の動きが止まる攻撃の直後を狙ったのであろうが――あまりに浅い当たりであった。
(でも、相手にさわれば距離感もつかめるからな。きっとサキさんなら――)
瓜子がそのように考えたとき、今度はサキのほうが前進した。
再びのフリッカージャブが、ぺしんと相手の鼻面を叩く。
ムーチェン選手もすかさず左ジャブを返したが、リーチ差によって届かなかった。
「サキがジャブを連発するなんて、珍しいね。さすがに、慎重になってるのかな」
「らしくないなー! ズバッと、燕返しでもキメちゃいなよー!」
灰原選手の言葉とは裏腹に、サキはフリッカージャブを連発した。
そのすべてが、遠い距離からムーチェン選手の顔面を浅く叩く。
これでは、ダメージも溜まらないだろう。
ただ――ムーチェン選手はディフェンスも巧みであるのに、すべての攻撃が顔面にヒットしている。これは、大きな成果であるはずであった。
(さすがは、サキさんだ。これなら、ムーチェン選手も焦るかも――)
その瞬間、サキの右拳が引かれる動きに合わせて、ムーチェン選手が前進した。
いきなりの、両足タックルである。
しかし、間合いの取り方もタイミングも、完璧である。傍から見ている瓜子でも、その鋭い動きに息を呑むほどであった。
しかし、その腕は空を切る。
完璧なタイミングであったはずであるのに、サキの姿がその場から消えていた。
ムーチェン選手は困惑をあらわにしながら、横合いに向きなおる。
その顔に、フリッカージャブが浅く当たった。
アウトサイドに回り込んだサキが、悠然とジャブを当てたのだ。
そうしてムーチェン選手が反撃する前に、逃げていく。その足取りが、サキ本来の力強くもしなやかなステップに切り替えられていた。
このステップでは、サキのスピードが一段階上昇する。
ただその代償として、爆弾を抱えた左膝に負荷がかかるのだ。よほどのことがない限り、サキが初回からそのステップを披露することはなかった。
(それぐらい、今のは危ない攻撃だったんだ)
瓜子は拳を握りしめながら、サキの勇躍を見守る。
サキは同じステップを継続して、フリッカージャブを振るい続けた。
ムーチェン選手はしっかりガードを固めて、しきりに頭を振っているのに、すべての攻撃が顔面にヒットする。まるで、標的をロックオンした巾木選手のような手腕だ。
ムーチェン選手は決死の形相で、再びサキに組みつこうとする。
すると――腰のあたりに溜められていたサキの左拳が、槍のように射出された。
奥手からの左ストレートが、ムーチェン選手の顔面に突き刺さる。
しかもこれは、カウンターだ。ムーチェン選手の踏み込みの鋭さが、そのまま破壊力に転化されていた。
それでも打たれ強いムーチェン選手はさしたるダメージを負った様子もなく、体勢を整えるべく後ずさる。
そこに、サキの左足がふわりと振りかざされた。
その瞬間、瓜子の背筋に電流めいた感覚が走り抜ける。
燕のタトゥーが刻まれたサキの左足は、優美な軌道を描きながら舞い上がり――ムーチェン選手の右こめかみをこするようにして、さらに高みへと振りかざされた。
テンプルをこすられたムーチェン選手は、がくりとバランスを崩している。
その脳天に、サキの左かかとがめりこんだ。
サキの必殺、燕返しである。
ムーチェン選手は膝から崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
一瞬の静寂の後、試合終了のブザーと大歓声が爆発する。
そして瓜子は、「やったぁ」とはしゃぐユーリに、横合いから抱きつかれた。
『一ラウンド、二分二十四秒! 左ハイキックにより、サキ選手のKO勝利です!』
リングアナウンサーも、そのように宣言している。
サキが、勝利したのだ。
世界級のトップファイターを相手に、ノーダメージの一ラウンドKO勝利である。
ただ――レフェリーに右腕を上げられたサキは、そのしなやかな体躯がバケツの水をかぶったように濡れそぼっていた。
そしてさりげなく、右足重心になっている。おそらくは、咄嗟にステップを切り替えたため、左膝に大きな負担がかけられたのだ。
結果を見れば、普段通りの圧勝である。
しかしサキはこの短い時間で、死力を振り絞ることになったのだろう。その上で、サキは華麗なるKO勝利をもぎ取ってみせたのだった。