03 開演
その後も問題なく時間は流れ過ぎ、無事に開場の時間を迎えることになった。
開場の時間は午後三時、開演の時間はその三十分後となる。メインカードの生中継が午後七時からと決定されているため、こういうイベントでは普段よりも早い開始になるのが通例であった。
やがて開演時間の十分前に至ったならば、プレリミナルカードに出場する七名の選手が付き添いのチーフセコンドとともに控え室を出陣する。
その際に、サキは居残りのメンバーに取り囲まれることになった。
「サキさん、頑張ってください。サキさんだったら、誰が相手でも絶対に勝てます」
「うんうん。ユーリもサキたんの華麗なKO勝利を期待しているのですぅ」
「サキセンパイなら、心配いらないのです。どうか《アトミック・ガールズ》アトム級王者の実力を世界に見せつけていただきたいのです」
「ふふん。ま、変にリキんで空回りしねえように、せいぜい気をつけろや」
「あたしも、めいっぱい応援してるッスから! 頑張ってください!」
第一試合のサキは、このまま控え室に戻らず試合に臨むのである。
それでおもにプレスマン道場の面々が激励の言葉を浴びせかけると、サキは「うるせーなー」とぼやきながら瓜子の頭を小突いてきた。
「こんな前座で、大騒ぎするんじゃねーよ。おめーらは手前の心配だけしておきやがれ」
そうしてサキがさっさときびすを返してしまったため、瓜子は未練がましく柳原にも声をかけることになった。
「ヤナさん。どうかサキさんを、お願いします」
「ああ。俺の出番がないように、立ち技でケリをつけてほしいところだけどな」
そんな軽口を叩きながら、柳原は自らが出場選手であるかのように気合をみなぎらせていた。
そして、ゆったりと微笑む小笠原選手と緊張をあらわにした小柴選手も、サキのセコンドとして退室していく。その姿を見送ってから、瓜子たちは我先にと控え室のモニターを取り囲んだ。
モニターには、すでに試合場が映されている。
照明が落とされた無人のケージと、人影が蠢く客席だ。
リングサイド席は、本日も空席が多い。ケージに近ければ近いほどチケット代がかさんでいくため、よほど経済的にゆとりのある人間でなければ手が出ないのだ。そのどこかには、卯月選手がひとりで座しているはずであった。
「いやー、ワクワクしてきたなー! キヨっぺたちもこんな風に、テレビやパソコンの前でそわそわしてるんだろうねー!」
灰原選手がそのように言いたてる中、ついにケージ上に動きがあった。
立派なスーツを纏ったリングアナウンサーの姿が、まばゆいスポットに照らし出される。それで客席から、歓声が爆発した。
『ただいまより、《ビギニング》、《JUFリターンズ》、《アトミック・ガールズ》合同イベント、《B×J×A》を開始いたします! プレリミナルカードに出場する、十四名の選手の入場です!』
リングアナウンサーが朗々たる声でそのように宣言すると、今度は女性の声で英語の言葉が繰り返される。本日は、日本と海外の視聴者の両方のために、日本語と英語で同時進行されることになったのだ。
『青コーナー、《アトミック・ガールズ》代表、サキ!』
そんなアナウンスが、客席にいっそうの熱狂をもたらす。
しかしサキはいつも通りのふてぶてしさで、かったるそうに花道を闊歩した。
『赤コーナー、《ビギニング》代表、ムーチェン・ワン!』
続いて、サキと対戦するムーチェン選手が現れた。
各選手がどの団体の所属であるかを紹介するというのも、合同イベントならではの趣向だ。それでいっそう、三団体の対抗戦であるという事実が強調されていた。
同じ調子で、総勢十四名の選手が続々と入場する。
青コーナーは、魅々香選手、鞠山選手、青田ナナ、オルガ選手、高橋選手、グウェンドリン選手――赤コーナーは、ゾエ選手、ミンユー選手、パット選手、イーハン選手、レベッカ選手、フワナ選手――いずれも、錚々たる顔ぶれである。日本国内の興行であれば、それはいずれもメインイベントに相応しい対戦であるはずであった。
そうしてすべての選手がケージを取り囲むようにして立ち並ぶと、三団体の運営代表がケージに上がり込んだ。
駒形氏と、スチット氏と、瓜子もほとんど面識がない《JUFリターンズ》の運営代表である。その三名が短く挨拶の言葉を述べると、スペシャルゲストとして《アクセル・ファイト》のアダム氏が招聘された。
今回の《JUFリターンズ》は名前を貸しただけであり、真なる責任者はアダム氏であるのだ。
スキンヘッドで厳つい容姿をしたアダム氏はにこにことした顔でもっとも長々と語り、それが通訳の女性によって解説された。
『このたびのイベントに関しては、《JUFリターンズ》の親元である我々《アクセル・ファイト》も少なからず協力することになりました。《ビギニング》と《アトミック・ガールズ》の協力もあって、素晴らしいイベントを実現できたと自負しています。世界中のみなさんとこの興奮を分かち合うことができれば、何より嬉しく思います。それぞれの団体から選び抜かれた選手たちの活躍を、どうぞお楽しみください』
まずは穏便な内容であったので、瓜子はこっそり息をつく。
一万名からの観客たちも、大盛り上がりだ。
『なお、メインカードにおきましてはアダム氏にスペシャル・インタビュアーとして登場していただきます! 《アクセル・ファイト》さながらの名司会をご期待ください!』
リングアナウンサーがそんな言葉を添えると、また歓声が爆発する。《アクセル・ファイト》におけるアダム氏の勝利者インタビューというのは、立派な風物詩であるようであった。
「へー、あのおっちゃんがインタビュアーなんだねー! 口説かれないように、気をつけないと!」
「誰がおっちゃんだよ。絶対に、本人の前でそんな口を叩くんじゃないよ?」
多賀崎選手が苦笑しながら、灰原選手の頭を引っぱたく。多賀崎選手は『アクセル・ロード』で、アダム氏のお世話になった経験があるのだ。
そして瓜子も、アダム氏個人には悪い感情を抱いていない。番組のスタッフがユーリに悪さを仕掛けた際、アダム氏が厳しい態度で処断してくれたからだ。どこの誰に話を聞いても、アダム氏というのは選手ファーストで公正な人柄であるという評判であった。
しかしまた、《アクセル・ファイト》ぐらい巨大な組織になると、一枚岩というわけにはいかなくなるのだろう。
まあ、《アクセル・ファイト》が赤星弥生子を潰そうとしているというのは、あくまで憶測に過ぎなかったが――最重量のバンタム級だけは勝利を譲らないという方針に間違いはないように思える。そうでなければ、バンタム級だけランキングの上位三名を取りそろえた事実に説明がつかなかった。
(でも、運営陣が好きにできるのはマッチメイクだけだ。あとは、それぞれの選手がベストを尽くすだけさ)
赤星弥生子と青田ナナとエイミー選手であれば、きっと運営陣の思惑など打ち砕いてくれるだろう。瓜子は、そのように信じていた。
『それでは、選手退場です!』
大歓声と拍手の中、十四名の選手たちは花道を引き返す。
そうして控え室には、サキの陣営を除く面々が舞い戻ってきた。
「いやぁ、やっぱり一万人規模の観客ってのは、迫力が違うね。思わず膝が震えそうだったよ」
そんな風に語りながら、高橋選手はいつも通りの穏やかな笑顔であった。
いっぽう魅々香選手や青田ナナは張り詰めた面持ちであったが、これはいつものことである。鞠山選手の不敵な面持ちにも変化はないし、グウェンドリン選手やオルガ選手はこういった大舞台にも手馴れた身であった。
「みんな、おつかれー! いやー、いよいよ始まっちゃうねー! 青コーナー陣営の完全勝利を目指して、みんな頑張ろー!」
相変わらず、灰原選手はひとりではしゃいでいる。しかし、それを迷惑そうにしている人間はいなかったので、立派にムードメーカーの役目を果たしているように思われた。
そんな中、ひとり輪から外れているのは――赤星弥生子である。
赤星弥生子は控え室の奥まった場所に引っ込んで、パイプ椅子に黙然と座している。セコンド陣すら近づこうとしないのが、いささかならず不穏な雰囲気であったが――六丸いわく、赤星弥生子はいかなる試合においてもそうしてひとりで精神を集中しているのだという話であった。
(そういえば、選手としての弥生子さんと同じ陣営になるのは、これが初めてなんだもんな)
しかし赤星弥生子も個室に移ろうとはせずに、同じ場所に身を置いてくれている。それだけで、瓜子には十分であった。
「おー、すげー! 試合直前でも、オッズはサキが有利なまんまだよー!」
と、携帯端末を手にした灰原選手が、逆の手で瓜子の肩を抱いてきた。
北米やシンガポールにおいては、本日の試合も大々的に賭けの対象とされているのだ。出場選手でそのようなものを気にしているのは灰原選手ただひとりであったが、そのおかげで瓜子も世間の評価というものを知ることができた。
灰原選手が言う通り、第一試合はサキが優勢と見られているらしい。
相手は《ビギニング》の前王者であるというのに、頼もしい限りである。青コーナー陣営で他に優位と見なされているのは瓜子とオルガ選手のみであるようなので、《アトミック・ガールズ》の陣営ではサキだけが優位と見なされているわけであった。
「ムーチェンは直近の試合でベアトゥリスに連敗してる上に、サキはベアトゥリスに勝った雅ちゃんに勝ってるだわから、そのあたりの戦績も響いてるんだろうだわね。あとはやっぱり、うり坊との激戦が高評価に繋がってるはずだわよ」
「へー? でも、サキはうり坊に負けてんじゃん」
「試合時間は短かっただわけど、サキは明らかにうり坊を限界の限界まで追い込んでたんだわよ。見る人間が見れば、サキの強さははっきり理解できるはずだわね」
「ふーん。でも、これって海外の賭場でしょ? 海外でアトミックの試合を見る人間なんて、熱心な関係者だけじゃない?」
「うり坊は海外の人気もうなぎのぼりだわから、アトミックの違法動画も続々とアップされてるんだわよ。……つくづくアトミックの運営陣は、商機を逃しているわけだわね」
そんな風に言ってから、鞠山選手はにんまり微笑んだ。
「まあ何にせよ、ブックメーカーのオッズなんて気にかける甲斐はないんだわよ。番付通りなら、あんたは惨敗なんだわよ」
「へっへーん! そんなもん、実力でひっくり返してやるさー! イヴォンヌに賭けた連中なんて、大損させてあげるよー!」
「そういうことだわね。せいぜい泣きを見ないように、踏ん張るんだわよ」
そんな言葉を残して、鞠山選手もウォームアップを開始した。
その前後の出番である魅々香選手と青田ナナは、とっくにウォームアップを始めている。オルガ選手も軽く身体を動かしており、プレリミナルカードの出場選手で身を休めているのは後半の出番である高橋選手とグウェンドリン選手のみであった。
しかし誰もが力強い面持ちで、その身は鋭く引き締まりつつ、パンプアップしている。減量後のリカバリーに失敗した選手もおらず、控え室は大変な熱気と気迫に満ちていた。
瓜子などはユーリともども呑気な顔をさらしているが、その内側には誰にも負けない闘志を燃やしている。メイとケージで対峙するまで、残すところは数時間であるのだ。昂揚のあまりに体力を消耗してしまわないように、自制が必要なほどであった。
そんな中、モニターでは再びリングアナウンサーがケージにのぼり、ついに第一試合の開始を宣言したのだった。