インターバル②最後の集い
計量後のインタビューも滞りなく終えたのち、一行は帰路を辿ることになった。
ただし、青コーナー陣営の車両は、のきなみ同じ場所に向かっている。この後は、計量明けのランチと腹ごなしの軽いトレーニングをともにする約束であったのだ。それは言ってみれば、五週間にも及んだ合同稽古の締めくくりであった。
会場は、瓜子のバースデーパーティーでもお世話になったダイニングバーである。
本日もその二階が貸し切りとされて、合同稽古の参加メンバーが一堂に会するのだった。
「それにしても……やっぱり心配なのは、弥生子ちゃんだな。ただでさえ相手は世界級の化け物なのに、本番の一週間前まで稽古ができなかったんだからよ」
ダイニングバーに向かう道中で、立松はそんな言葉をこぼしていた。
さきほど目にした両者の計量のシーンで、思うところがあったのだろう。赤星弥生子と対戦するガブリエラ選手は、それこそ野獣のごとき頑強そうな肉体をさらしていたのだった。
ブラジル出身であるガブリエラ選手は骨格もがっしりしており、きわめて分厚い体格をしていた。計量に備えてドライアウトしているにも拘わらず、赤星弥生子をひと回り以上も上回る体格であったのだ。
なおかつ、赤星弥生子はベリーニャ選手と同様にナチュラルウェイトで試合に臨むため、明日になっても体重の変動はない。ガブリエラ選手はここからの一日半で十キロばかりもウェイトを戻して、明日にはもうひと回り大きくなっているはずであった。
「でも、大怪獣様は普段から、もっと馬鹿でかいオトコの選手とやりあってるんだからさ! なんだかんだ、最後は勝ってくれるっしょ!」
灰原選手がいつもの調子で元気に言いたてると、立松は苦笑のにじんだ声音で「そうだな」と応じた。
「あのガブリエラってのは、そうまで甘い相手じゃねえだろうが……本人が勝利を目指すって言い切ってるんだから、俺たちは黙って見守るしかねえな」
「そーそー! 赤星道場には、頼もしい仲間がいーっぱいいるんだしさ! あたしらまで心配しなくても、だいじょーぶさ!」
こういう際には多賀崎選手も灰原選手の頭を引っぱたいたりはしないし、瓜子も灰原選手の能天気さをありがたく思っている。そして、赤星弥生子の底力を信じようと、あらためて覚悟を固めることに相成った。
そうして賑やかな車内において、ユーリはぼんやりと窓の外に視線を飛ばしている。
おそらくは、ベリーニャ選手と再会できた喜びにひたっているのだろう。窓に映ったユーリの顔はとても穏やかな表情をたたえていたので、瓜子も安心して見守ることができた。
やがて一時間余りのドライブを経て、四台のワゴン車は目的の駐車場に到着する。
ユニオンMMAやオルガ選手の陣営も、空いていた座席に同乗したのだ。明日のイベントで青コーナー陣営に割り振られた十二名の選手とその関係者は、一丸となってダイニングバーへと踏み込んだ。
そちらの二階には、すでに合同稽古の参加メンバーたちが集っている。
プレスマン道場のトレーナー陣が増えた分、瓜子のバースデーパーティーを上回る人数であった。
プレスマン道場の関係者は、出場選手である瓜子とユーリとサキ。計量に同行した、立松とジョンと柳原。この場所で合流した、愛音とサイトーと蝉川日和。
赤星道場は、出場選手の赤星弥生子と青田ナナ。大江山軍造と青田コーチと是々柄。そしてこの場には、大江山すみれとマリア選手と二階堂ルミ、レオポン選手と六丸も居揃っていた。
天覇館東京本部道場は、出場選手の高橋選手と魅々香選手。計量に同行した来栖舞と二名のトレーナー。こちらで合流したのは、柏支部の鬼沢選手だ。
天覇ZEROは、出場選手の鞠山選手と、壮年のトレーナー。
四ッ谷ライオットは、出場選手の灰原選手と、セコンドのひとりである多賀崎選手。
ユニオンMMAは、出場選手のグウェンドリン選手とエイミー選手。ランズ選手を含むセコンド陣が六名。
チーム・マルスは、出場選手のオルガ選手と、父親でありトレーナーであるキリル氏と通訳の男性。
あとはのきなみ、合同稽古の参加メンバーで――小笠原選手、小柴選手、オリビア選手。兵藤アケミ、雅、浅香選手、香田選手。横嶋選手、巾木選手、武中選手。犬飼京菜、大和源五郎といった顔ぶれになる。
不在であるのは赤星道場のメンバーの心情を慮って辞退した卯月選手ひとりであり、総勢は五十名にも及びそうだ。
そして、一部のトレーナー陣を除けば、みんな合同稽古の参加メンバーなのである。あらためて、瓜子は自分たちがどれだけ充実した五週間を過ごしてきたかを実感させられていた。
(こんな顔ぶれでこんな長期間の合同稽古に取り組むことなんて、この先もそうそうありえないんだろうな)
瓜子がそんな感慨を噛みしめていると、灰原選手が「みんな、おつかれー!」と声を張り上げた。
「もう連絡が入ってると思うけど、みーんな計量をパスしたよー! これで心置きなく、豪華なランチを楽しめるねー!」
「はは。確かに、連絡はもらってるけどさ。それ以前に、みんなリアルタイムで動画を拝見してたんじゃないのかな」
この場で合流したメンバーの責任者という風格で、小笠原選手がそのように答えた。
「何はともあれ、みんなお疲れ様でした。なにか、開会の挨拶とか必要なのかな?」
「もーおなかがぺこぺこだから、さっさと始めちゃおーよ! 今日はあたしらのおごりだから、遠慮なく食べてねー!」
その場には、バイキング形式でさまざまな料理が並べられている。なおかつ、減量明けでも胃腸に負担のかからない料理をリクエストしているのだ。それらの代金は、出場選手の十二名で割り勘にしていた。
「こいつは、五週間の合同稽古の慰労でもあるからな。ま、この後にも軽く身体を動かす予定だが、そいつは地獄の稽古のクールダウンみたいなもんだから勘定に入れなくてもいいだろう。みんな、それぞれお疲れさん」
珍しくも立松が挨拶の言葉を発すると、それが号令になってランチが開始された。
おおよその面々は、笑顔で料理に群がっていく。瓜子はメイとの再会でまだ胸が詰まっていたので、しばらくその賑わいを見物させていただくことにした。
なおかつ海外の陣営は、別の理由でその場に留まっている。ひときわ過酷な減量に取り組んだメンバーは、計量明けの食事も綿密な計算の上で摂取していくのだ。いきなり食事を口にしたりはせず、まずは適量のミネラルウォーターを摂取して、ドライアウトした筋肉に少しずつ水分を戻していくのが常であった。
それと同じ理由からか、鞠山選手や魅々香選手や青田ナナなどもミネラルウォーターのグラスを手に取っている。魅々香選手や青田ナナも海外の選手に負けないぐらい過酷な減量に臨んだはずであるし、鞠山選手は――何につけても計算高さが持ち味であるので、やっぱり綿密なリカバリーの手順を構築しているのだろうと察せられた。
結果として、出場選手の過半数は料理に手をのばさず、静かにたたずんでいる。
赤星弥生子や高橋選手は料理の皿を手にしていたが、猛烈な勢いで食欲を満たしているのは灰原選手ただひとりであるのかもしれなかった。
(やっぱり同じ選手でも、人それぞれだよな)
柳原なども、減量明けには炭酸飲料を一気飲みするのが何よりの楽しみだと言っていたことがある。おそらくリカバリーとしてはあまり望ましくない行いなのであろうが、それで精神的な昂揚や満足感が得られるならば、意義はあるはずだ。理屈と感情のどちらを優先しようとも、いかに自分の力を高められるかが肝要であるはずであった。
「ユーリさんは、食べないんすか? 計量明けの豪華なランチは、ユーリさんにとっても大切なご褒美でしょう?」
「うみゅ。明日の試合のことを思うだけで、ユーリはお胸がいっぱいになってしまうのでぃす」
そんな風に言いながら、ユーリは大きくせり出た胸もとに両手をあてがう。
しかしその手はすぐさま腹部にまで下げられて、淡い鳶色の瞳にはおねだりの眼差しがたたえられた。
「でもでも……美味しそうな匂いを嗅いでいたら、おなかがきゅるきゅると騒ぎ始めたのでぃす」
「あはは。だったら、食べましょうよ。自分も午後の稽古に備えて、カロリーを補充します」
ということで、瓜子とユーリもバイキングの場へと乗り込むことになった。
そちらで胃腸に優しそうな献立をチョイスしたのち、賑やかな会食の場を見回す。すでにあちこちで歓談の場が形成されていたが、瓜子は優先して声をかけておきたい一団が存在した。
「失礼します。最後に、ご挨拶をいいですか?」
それは、柔術道場ジャグアルの面々であった。
彼女たちは午後からの稽古に参加せず、このランチの終了とともに名古屋へと帰還するのだ。午後の稽古は調子を整えるための軽い内容であったので、すべての人間が居残る必要はなかったのだった。
「あらためまして、今日までありがとうございました。みなさんのおかげで、本当に充実した稽古を積むことができました」
「こっちこそ、いい経験をさせてもらったよ。こんなのは、一生に一度あるかないかの馬鹿騒ぎだろうからね」
誰よりも厳つい顔立ちをした兵藤アケミは、土佐犬のような顔で屈託なく笑う。
そちらに笑顔を返してから、瓜子は香田選手に向きなおった。
「香田選手も、お疲れ様でした。慌ただしくて、あまりお声をかける機会もありませんでしたけど……お忙しい中、参加してもらえて、本当にありがたかったです」
「い、いえ……わたしはけっきょく、一週間ていどしか参加できませんでしたし……」
ボディビルダーのごとき頑強な肉体に丸顔の童顔という個性的な容姿をした香田選手は、恐縮しきった様子で頭を下げる。彼女は現役の大学生であったため、最後の一週間しか参加できなかったのだ。
なおかつ、香田選手は卯月選手と同時期にやってきたため、いささかならず影の薄い印象であったが――しかし瓜子は、心から感謝していた。その短い期間のためにわざわざ出向いてくれたことが嬉しかったし、何より香田選手のフットワークは仮想・メイにうってつけであったのである。もとより踏み込みの鋭い香田選手はフライ級に階級を落としたことで、いっそう動きにキレが増していたのだった。
また、兵藤アケミと雅はおもに寝技の指導で、浅香選手は寝技のスパーリングで、それぞれお世話になっている。今回の合同稽古には実にさまざまな陣営が入り乱れていたが、ジャグアルもその一角を担う重要な存在であった。
「今回は、サポート役に徹するしかなかったけどな。次の機会には、香田と浅香を主役に祀りあげてみせるよ」
「ふふん。こないな騒ぎは、これきりかもしれへんさかい……まずは、アトミックのベルトを巻くこっちゃねぇ」
雅が妖艶に微笑みながら横目でねめつけると、香田選手と浅香選手はそろって背筋をのばして「はいっ」と応じた。
きっと来年は、こちらの両名がフライ級とバンタム級を賑やかすことだろう。瓜子もまた、ユーリと浅香選手が対戦する日を心待ちにしたかった。
「失礼するっす。ユーリさん、お加減はいかがっすか?」
背後からそんな風に呼びかけられて、瓜子はユーリとともに振り返る。
そこでは是々柄が、六丸の手で羽交い絞めにされていた。
「えーと……それは、どういう状況っすか?」
「お二人の背後に回ると無意識に手がのびそうだったんで、あらかじめ六ちゃんに拘束してもらったんす。お二人と友好的なご関係を紡ぎたいっていう、誠実さのあらわれっすね」
「はあ……それはどうも、いたみいります」
そうして無事に瓜子たちと正面から向かい合ったため、六丸の羽交い絞めは解除される。いつでも野暮ったいジャージ姿である是々柄は、遠視用の眼鏡で巨大化した目であらためてユーリの姿を見据えた。
「それで、ユーリさんはどうっすか? 見るからにお元気そうっすけど、試合直後の他に異常はないっすか?」
「はいぃ。おかげさまで、元気もりもりなのですぅ」
皿の料理をついばみながら、ユーリはそっと瓜子を盾にする。
それを気にした様子もなく、是々柄は「そうっすか」と腕を組んだ。
「それなら、何よりっす。ユーリさんと猪狩さんは弥生子ちゃんの生きる希望なんで、末永く健やかに過ごしてほしいっす」
「あはは。それはさすがに、オーバーじゃないっすか? 弥生子さんが何より大事にしているのは、道場のみなさんでしょう?」
「あたしらはファミリーで、猪狩さんたちはフレンドなんすよ。そんでもって、弥生子ちゃんにとってのフレンドってのは、今のところお二人だけなんす。だから二の次にはできないんすよ。ね、六ちゃん?」
「はい。僕も、そう思います」
と、いつ見ても子犬のような印象である六丸は、にこりと微笑んだ。
「ただ厳密に言うと、猪狩さんはお友達で、ユーリさんはライバルって感じかもしれませんね」
「ああ、宿敵と書いて、友っすね。対戦相手としてはもちろん、猪狩さんのハートを奪い合うって意味でも宿敵っすよね」
「いやいや、それだと語弊が……ユーリさんも、すねないでくださいってば」
「すねてないですぅ」
「何にせよ、明日も無事にお目ざめすることを祈ってるっす。いざとなったら、あたしも蘇生の施術をお手伝いするっすよ」
それはあまりに不吉な物言いであったが、きっと是々柄は本心からの善意で言っているのだろう。そのように考えた瓜子は、「ありがとうございます」と応じることにした。
「それを伝えるために、わざわざ声をかけてくれたんですか? 重ねがさね、ありがとうございます」
「いえいえ。けっきょく合同稽古とやらには参加できなかったんで、今の内にご挨拶をさせてもらいたかったんすよ。この後の稽古でも、フル稼働の予定っすからね」
「フル稼働? 午後の稽古に、是々柄さんもいらっしゃるんですか?」
「そうっすよ。弥生子ちゃんじきじきのご指名で、出場選手のみなさんに特別マッサージをプレゼントするんす。これでみなさん、過酷な稽古の疲労も綺麗さっぱり霧散して、万全の状態で試合に臨めること間違いなしっす」
そうして是々柄が両手の指先をわきわき動かしたため、ユーリはいっそう縮こまってしまった。
「まあ、嫌がるお人には手を出さないようにと厳命されてるのが、痛恨の極みっすね。お二人が弥生子ちゃんの愛情をしっかり受け止めてくれることを祈ってるっす」
そんな言葉を残して、是々柄と六丸は早々に立ち去っていく。
ユーリが小雨に濡れるゴールデンリトリバーのような眼差しを向けてきたので、瓜子は笑顔でなだめることにした。
「どうやら強制じゃないみたいだから、心配はいらないっすよ。気にせず、ランチを楽しみましょう」
「うん……でもでも、弥生子殿がお気を悪くしたりはしないかにゃあ?」
赤星弥生子は、ユーリの接触嫌悪症について知らされていないのだ。しかしまた、是々柄のマッサージをお断りされたからといって、気分を害するとは思えなかった。
「大丈夫っすよ。その分まで、自分がお世話になるっすから」
「うみゃ? うり坊ちゃんは、ぜーさんの毒牙にかかってしまわれるの?」
「それはさすがに、気の毒の物言いっすね。まあ確かに、ちょっと気が進まない部分もありますけど……今回ばかりは、いっさいの妥協なしで試合に臨みたいんすよ」
「ああ、明日はメイちゃまとの対戦なのだものねぇ」
と、ユーリはふいに優しく目を細めた。
「ユーリも、ココロはひとつなのですけれども……ぜーさんのお手をわずらわせずに、万全のコンディションに仕上げる所存なのです」
「ええ。それでいいと思いますよ」
そんな風に答えながら、瓜子はあらためて会食の場を見回した。
グウェンドリン選手たちもようやく食事を開始したようで、料理の皿を手に鞠山選手たちと語らっている。オルガ選手は小笠原選手、ランズ選手は魅々香選手と、それぞれ旧交を温めていた。
それ以外の面々もあちこちで談笑しており、いちいち数えあげていたらキリがないほどだ。犬飼京菜や大和源五郎も、かつての仇敵であった大江山軍造を相手に何やら語らっている様子であった。
これだけの顔ぶれが同じ目的に向かって邁進するというのは、確かにこれまにはなかった話であるのだろう。しかもそれが五週間も継続されたというのは、なかなかありえない話であった。
そのおかげで、十二名の出場選手はこれ以上もなく錬磨できたはずだ。
あとはその成果を、明日の試合でぶつけるのみである。
どの選手も、勝敗に関しては予測も難しかったが――きっとどのような結果に終わろうとも、後悔を抱え込むことにはならないだろう。勝利を逃がしてしまったならば、次なる勝利を目指して奮起するしかなかった。
瓜子たちはこれまでもそのように生きてきたし、これからもそのように生きていくのだ。
それで瓜子は、これだけの人々と同じ志を抱くことができて、心からの幸福を噛みしめることがかなったのだった。