インターバル①前日計量
そして――その日が、やってきた。
三団体の合同イベント、『B×J×A』の開催日の前日、十二月三十日である。
試合の前日たるその日は、もちろん前日計量であった。
基本的に、前日計量のシステムは《ビギニング》の方針に則っている。計量そのものは関係者のみを集めた場所で粛々と行われて、その模様を動画で世界に配信するのだ。名目上、今回のイベントは三団体が対等な立場であるとされていたが、もとをただせば《ビギニング》の日本大会を合同イベントに切り替えた形であったため、そういった進行では《ビギニング》のカラーが打ち出されるようであった。
まあ、瓜子は派手な公開計量など求めていないので、文句をつける筋合いはまったくない。
その日は立松がマンションの前までワゴン車を回してくれたので、なんの苦労もなく計量の会場まで向かうことができた。
同乗しているのは柳原と、途中で合流した灰原選手および多賀崎選手である。横浜に住んでいるサキは、ジョンが迎えに出向いたとのことであった。
「グウェンたちは、マイクロバスでお迎えなんでしょー? うり坊たちもシンガポールでは、そうやって送迎されてたってこと?」
「そうっすよ。海外から出向いた選手は土地勘もないから、フォローが必要なんでしょうね」
そしておそらく《アクセル・ファイト》の所属選手たちも、ひとまとめで送迎されているのだろう。メイがベリーニャ選手やオルガ選手とともに車内で揺られている姿を想像するのは、なんとも奇妙な気分であった。
ちなみにメイは三週間ほど前に来日して、レム・プレスマンとゆかりのある横須賀のジムに身を寄せていたらしい。そこで十三時間に及ぶ時差を調整しながら、最後のトレーニングに励んだとのことだ。そんなメイと間もなく対面するのかと思うと、瓜子は胸が騒いでならなかった。
「いやー、ワクワクしちゃうなー! それに、計量の後のランチが楽しみだねー!」
と、灰原選手は子供のようにはしゃいでいる。
多賀崎選手が苦笑しながらたしなめると、灰原選手は「だってさー!」と反論した。
「あたしは去年から、うり坊のことが羨ましかったんだもん! 一年かけて、やっとおんなじ舞台に上がれるのが嬉しいんだよー!」
「まあ、これだけの大舞台でビビらないのは、大した心臓だよ。その調子で、明日の試合も頑張りな」
「もちろんさー! 明日は、日本陣営の全勝だー!」
灰原選手のはしゃいだ声が、瓜子の胸をまた異なる形で高鳴らせていく。確かにアリーナ会場の大舞台に《アトミック・ガールズ》の選手が八名も出場するというのは、まごうことなき快挙であったのだ。
(一昨年の《JUFリターンズ》は弥生子さんと二人きり、去年の《アクセル・ジャパン》と《ビギニング》はユーリさんと二人きりだったんだもんな)
もちろん今回のイベントは、常ならぬ経緯で開催されることになった特殊なイベントである。これを明るい未来に繋げられるかどうかは、選手ひとりひとりの奮闘にかかっているはずであった。
そうしてワゴン車は、前日計量の会場に到着する。
計量が行われるのは、試合会場である『ティップボール・アリーナ』に併設されたコミュニティアリーナという施設である。普段は展示会やフリーマーケット、さらには格闘技の試合会場として使用されることもあるという、立派な施設だ。試合の際には三千名もの観客を収容できるというのだから、《アトミック・ガールズ》が常打ち会場にしている『ミュゼ有明』よりも規模が大きいということであった。
「公開計量でもないのにこんな立派な場所を押さえるなんざ、さすがだよな。ま、出場選手の関係者だけでもけっこうな人数だから、手頃な会場ってのはそうそう存在しないんだろう」
そんな風に語りながら、立松は関係者専用の駐車場にワゴン車を回していく。
そちらにはすでに数多くの車がとめられており、その一台がジョンのワゴン車であった。
「なんだ、どこかで追い抜かれてたか。そっちも、お疲れさん」
「ウン。ホカのみんなも、ダイタイそろってるみたいだよー」
ジョンのそんな言葉とともに、あちこちの車から馴染み深い面々がわらわらと降りてきた。
赤いペイントがされたワゴン車からは赤星道場の一行、銀色のワゴン車からは天覇館の一行、黒塗りのワゴン車からは天覇ZEROの一行である。日本人選手は、これにて勢ぞろいであった。
「なんだ、みんなで待機してたのかい。待たせちまって、申し訳なかったな」
「ふふん。あと五分待って来なかったら、出発するつもりだったけどな」
豪放なる笑顔でそのように答えたのは、大江山軍造である。出場選手である赤星弥生子と青田ナナに、青田コーチや是々柄までもが居揃っていた。
天覇館は高橋選手と魅々香選手に、来栖舞と老若のトレーナー、天覇ZEROは鞠山選手と壮年のトレーナーただひとりだ。やはりどの陣営も、選手一名につきひとりか二人の付き添いという編成になっていた。
「じゃ、行くかい。こんな大舞台で計量にしくじる粗忽者はいねえだろうし、気楽なもんだ」
「ああ。計量器がイカれてないことを祈るばかりだぜ」
かくして、日本人選手の一団はひとかたまりになってコミュニティアリーナの入り口を目指すことになった。
そうしてそちらに足を踏み入れると、運営のスタッフによって大部屋の控え室へと案内される。青コーナー陣営はひとまとめにされていたので、ひとり《ビギニング》の所属選手である瓜子も引き離されることはなかった。
しばらくするとユニオンMMAの陣営が、その少し後にはオルガ選手の陣営も到着する。
これにて、青コーナーの陣営は勢ぞろいである。そのすべてが合同稽古でお馴染みの顔ぶれであるというのが、なんとも愉快な心地であった。
「それでは、計量を開始いたします。サキ選手、魅々香選手、鞠山選手、青田選手、こちらにどうぞ」
どうやら本日は、試合の順番に従って四名ずつ計量が開始されるらしい。
指定された四名が控え室を出ていくと、ずっとうずうず身を揺すっていた灰原選手がこらえかねた様子で声を張り上げた。
「いやー、ついに始まったねー! でもさ、ミッチー以外のアトミックの王者が三連続でトップバッターなんて、なーんかおかしな感じだよねー!」
「三連続でトップバッターって、日本語として破綻してるだろ。ま、言わんとすることはわかるけどさ」
「まあ、他の陣営も格式通りってわけじゃないみたいだから、あくまで興行の盛り上がりを考慮してのことじゃない? サキがトップバッターなんて、考えただけでワクワクするしさ」
「うんうん! サキにはいつもの調子で秒殺でも決めてもらって、勢いをつけてほしいところだよねー!」
「あんたはよそ様にも、要求が高いね。ま、いつも通りのテンションで、何よりなこった」
常ならぬ会場の控え室でも、熱気のほどに変わりはない。
昨年や一昨年は、こういう時間もプレスマン道場の関係者だけで寄り集まっていたのだ。瓜子にとっても、心強い限りであった。
しばらくして、次の四名――オルガ選手、高橋選手、グウェンドリン選手、灰原選手にお呼びがかけられる。そして、サキたちも順番に控え室へと舞い戻ってきた。
本日は全選手にインタビューがされるという話であったので、すべての計量が終了するまで待機となるのだ。それで控え室には、いつまでも同じだけの熱気がわきたつことになった。
そしてその次は、最後の四名――エイミー選手、瓜子、ユーリ、赤星弥生子の出番である。
それぞれの付き添いを引き連れて、明るい通路を案内される。その末に待ち受けていたのは、三千名の観客を収容できる広々とした空間であった。
その片隅に、計量のためのスペースとインタビューを行うスペースが確保されている。しかしけっきょく運営スタッフやコミッショナーぐらいしか存在しないため、実に閑散としたものであった。
そんな中、瓜子が胸を高鳴らせながら視線を巡らせると――計量のスペースをはさんだ向こう側に、果てしなく懐かしい姿を発見した。
メイと、リューク・プレスマンと、ビビアナ・アルバである。
メイは一心に、計量を行っているグウェンドリン選手のほうを見据えている。
まるで、視界に瓜子を入れないように心がけているかのようなたたずまいであったが――瓜子もこんな遠い距離からメイを見てしまうのは惜しいという気持ちがわいてきて、すぐさま目をそらすことになった。
(一年間も離ればなれで、再会の場所が計量の会場なんて……ある意味、できすぎだよな)
瓜子はいっそう胸を高鳴らせながら、自らも計量の場へと視線を戻す。
ハーフトップとショートスパッツの姿をしたグウェンドリン選手は、同じような姿をしたフワナ選手とビデオカメラの前で対峙してから、すみやかに計量の場を後にした。
そして、配信動画のためにインカムマイクをつけたスタッフが「バニーQ」と呼びかけると、セットの脇に待機していた灰原選手が「はーい!」と元気いっぱいに答えながら進み出た。
ビデオカメラの前に立った灰原選手は、ざっくりとしたプルオーバーとワイドパンツをぽいぽいと脱ぎ捨てて、同行した多賀崎選手に受け渡していく。
その下からあらわにされたのは、トロピカルなカラーリングのタイサイド・ビキニである。灰原選手も五キロぐらいは減量しているため、肉感的な肢体がいつも以上にくっきりとシェイプされていた。
灰原選手はビデオカメラに投げキッスをしてから、計量台に乗る。
読みあげられた数値は、114.64ポンド――52キロジャストである。ストロー級の規定は115ポンド、52.163キロであったので、無事に計量クリアーであった。
灰原選手はグラビア活動で培った悩殺ポーズと表情をお披露目してから、横合いに引き下がる。
すると、対戦相手であるイヴォンヌ選手がにこにこと笑いながら進み出た。
およそ三ヶ月前に瓜子と死闘を繰り広げた、《ビギニング》前王者のイヴォンヌ選手だ。イヴォンヌ選手は今回も、丸太を組み上げたようなどっしりとした体躯であった。
そしてそちらは、115ポンドジャストである。
イヴォンヌ選手は笑顔でダブルバイセップスのポージングを取ってから計量台を下りて、灰原選手と向かい合った。
どちらも、実ににこやかな面持ちである。
今さらながら、この両名が対戦するというのが何とも奇妙な心地であった。
そうしてさらに、計量は進められていく。
次の順番はエイミー選手とアメリア選手で、その次が瓜子とメイであった。
立松とともに進み出た瓜子はなるべくメイのほうを見ないように心がけながら、ジャージの上下を脱ぎ捨てる。
その下に着込んでいたのは、古いタイプの試合衣装だ。しかし今回は数グラムだけオーバーしてしまったため、瓜子は人目にさらしてもかまわないスポーティーな下着姿をさらすことになった。
その結果は、114.75ポンドである。
瓜子がほっと息をつきながら引き下がると、「メイ・キャドバリー」の名が呼ばれた。
瓜子は正面を向いたまま、視線をそっと足もとに落とす。
その耳に、「115ポンド」という言葉が聞こえてきた。
イヴォンヌ選手と同様に、リミットいっぱいの数値である。
きっとメイは綿密な計算のもとに、理想の肉体を仕上げてきたのだろう。それで瓜子は、いっそう胸を高鳴らせることになった。
瓜子は目を伏せたまま移動して、メイと向かい合う。
最初に見えたのは、艶やかに黒い足の先だ。
そうしてゆっくり視線を上げていくと、しなやかな両足に続いて引き締まった腰、腹筋が割れた腹部、純白のハーフトップに包まれた胸もとが視界に収まっていき――最後に、顔へと到達した。
メイは真っ直ぐ、瓜子を見つめている。
赤みがかった金色のドレッドヘアーも、光の強い瞳も、ちょっと幼げだが表情を殺すと凛々しい顔も、どこにも変わりはない。瓜子が知る通りの、メイの魅力的な姿であった。
メイは、黒くて大きな瞳に炎のような闘志を燃やしている。
そして――そのまま、にこりと微笑んだ。
「ウリコ、やっと会えた」
ちょっとハスキーで心地好いメイの声が、瓜子の鼓膜を震わせる。
瓜子は一瞬で目頭が熱くなってしまったが、なんとか涙をこらえながら笑ってみせた。
「会いたかったですよ、メイさん」
瓜子が小声で答えると、メイは「うん」とうなずいてからファイティングポーズを取った。
しっかり脱力しているのに、隙のない構えだ。その姿にまた胸を震わせながら、瓜子もまたファイティングポーズを取った。
ここから先は、明日のお楽しみである。
瓜子たちはおよそ一年も離別していたのだから、まだまだ空いた穴は埋められない。それは明日、死力を尽くして殴り合うことでどうにかするしかなかった。
スタッフから「OK」という言葉が飛ばされると、メイは何の未練も見せずに身をひるがえす。
瓜子もその背中から視線をもぎ離して、メイを見習った。
そうして横合いに下がっていくと、そこにはユーリが待ち受けている。
瓜子は目もとににじんだものを手の甲でぬぐってから、ユーリに微笑みかけた。
「次は、ユーリさんの番っすね」
ユーリはとても静かな笑顔で、「うん」とうなずいた。
瓜子はユーリと拳をタッチさせてから、さらに距離を取り、ジャージの上下とデッキシューズを身につける。ただし、スタッフに見とがめられない限りはその場に留まって、ユーリたちの計量を見届けようという所存であった。
名前を呼ばれたユーリはビデオカメラの前に進み出て、オレンジ色のジャージを脱ぎ捨てる。
その下に着込んでいたのは、灰原選手を上回る煽情的なピンクのビキニだ。一世一代の大一番でも――いや、そうであるからこそ、ユーリはいつも通りのユーリであった。
ユーリはビデオカメラにウインクを送ってから、モデルウォーキングで計量台に乗る。
数値は、133.8ポンド、およそ60.7キロで、無事クリアーだ。
ユーリは灰原選手を上回る熟練の手際で色香あふるるポージングを取ってから、計量台を後にした。
そして――「ベリーニャ・ジルベルト」の名が呼ばれる。
黒いパーカーとスウェットパンツに身を包んだベリーニャ選手は、珍しく長い黒髪を自然に垂らしていた。
そんなベリーニャ選手がパーカーを脱ぎ捨てると、会場の人々がわずかにどよめいた。ベリーニャ選手もまた、その褐色の肢体に純白のビキニを纏っていたのだ。
計量の場で水着姿を披露する女子選手は、少なくない。ユーリや灰原選手のみならず、海外にも容姿や色香を個性として主張する女子選手は多数存在するのだ。
しかし、瓜子が知る限り、ベリーニャ選手が水着姿で計量に臨んだことはなかった。
彼女がそんなものを披露していたのは、プロファイターとしてデビューした当時――グラビアモデルや映画俳優として活躍していた、数年前までであるはずであった。
それらの姿は、ユーリが録画したドキュメンタリー番組に収められている。
その番組と同じように、ベリーニャ選手はちょっぴり気恥ずかしそうにはにかんでいた。
間もなく三十歳となるベリーニャ選手は、あの頃よりも大人びている。
しかし、そのあどけない表情や瑞々しい生命力は、むしろ輝きを増しており――その褐色の肢体もアスリートとして理想的に引き締まりながら、野生の獣のように美しかった。
これこそが、ユーリが憧れたベリーニャ・ジルベルトなのである。
ユーリいわく「強くてかわゆい」、女子最強の選手――ベリーニャ・ジルベルトその人であった。
ベリーニャ選手は自然に垂らした黒髪をかきあげながら、計量台に身を移す。
数値は、132.2ポンド、およそ60キロだ。規定よりも1キロばかりも軽いということは、やはり今回もナチュラルウェイトであった。
しかし、その姿は美しい。
ユーリのような色香は望むべくもないが、彼女は生き物として美しかった。瓜子はトシ先生に黄金比のプロポーションなどという過分なお言葉をいただいていたが、そんな言葉はベリーニャ選手にこそ相応しかった。
まったく異なる美しさを持つユーリとベリーニャ選手が、中央で向かい合う。
そうすると、おたがいの輝きがおたがいを照らし合うかのようで――瓜子は、目が眩んでしまいそうだった。
憧れのベリーニャ選手を前にして、ユーリもちょっぴり恥ずかしそうな顔をしている。
ベリーニャ選手もまだはにかんでいるので、こんなにも美しい両名が子供のように恥じらっているかのようだ。
だけど二人は、とても幸せそうだった。
数年の時を経て、ついに再戦の約束が果たされるのである。
瓜子もまた、メイと一年ぶりの約束を果たす身であったが――ユーリとベリーニャ選手はさらに長い時間、おたがいの存在を求めてやまなかったのだった。
(勝ち負けなんて、関係ない……でも、勝利を目指して頑張ってくださいね、ユーリさん)
また目もとににじんできた熱いものをジャージの袖でぬぐいながら、瓜子はそのように祈った。
そしてその後には、赤星弥生子とガブリエラ選手も無事に計量をパスして――明日の大一番の下準備は、滞りなく終了したのだった。