05 最後の月
合同稽古を開始してから一週間が過ぎ去って、時節は十二月に突入した。
十二月からは、新たなメンバーが稽古に加わる。シンガポールから来訪するユニオンMMAの面々および、ロシアのオルガ選手とトレーナーのキリル氏、そして柔術道場ジャグアルの指導員たる兵藤アケミである。
これにて、香田選手を除くメンバーは勢ぞろいということになる。
なおかつ、まだ大学生である香田選手は最後の一週間ていどしか参加できないため、実質的にはこれがフルメンバーであった。
ちなみに十二月の初日は日曜日であったが、合同稽古の期間内は日曜祭日も関係なく開放されている。これだけの人数で休日を合わせるのは難しい上に非効率的であったので、稽古場は常にオープンさせつつ、休日の日取りは各人で設定してもらうことになったのだ。
そうしてその日も、瓜子とユーリは朝一番で道場に向かい――そこで待ちかまえていたグウェンドリン選手に、とびっきりの笑顔を届けられることになったのだった。
「ウリコ、ひさしぶりです」
彼女たちは昨日の夜に到着して、朝一番からの参加であったのだ。およそ二ヶ月ぶりの再会となる瓜子も、満面の笑みで彼女たちを迎えることに相成った。
「グウェンドリン選手、お元気そうで何よりです。また日本語がお上手になったんじゃないですか?」
「いえ。マダマダです」
そんな風に語りながら、グウェンドリン選手はにこりと笑う。減量を始めていないグウェンドリン選手は顔もいくぶんふくよかで、善良な内面がいっそうあらわにされていた。
そんな彼女を含めて、シンガポールからやってきた精鋭は八名である。
出場選手のグウェンドリン選手とエイミー選手、セコンド役を務めるトレーナー陣――そして、セコンドの雑用係とスパーリングパートナーを務めるランズ選手という顔ぶれであった。
「やー、ランランもおひさー! セコンドになれて、よかったねー!」
夏の出稽古で親睦を深めた灰原選手は、ランズ選手の広い背中を遠慮なくどやしつける。どうやら灰原選手は、ランズ選手や魅々香選手のように寡黙な相手をかまうことを好んでいるようであるのだ。ランズ選手は困ったような顔をしながら、それでも嬉しそうな表情を覗かせていた。
「ようこそ、日本に。一ヶ月も前乗りしたことを後悔させないように、こっちも存分にもてなすからな」
携帯端末の翻訳アプリを使って、立松はそのように挨拶をした。
二度にわたるシンガポール遠征とブラジルにおける共闘を経て、トレーナー陣ともすっかり顔馴染みだ。今回もジムの会長は同行しておらず、壮年と若手の男性トレーナーたちが居揃っていた。
選手陣に関しては夏の出稽古と合宿稽古をともにしているので、初顔合わせの相手はいない。赤星道場やジャグアルの面々も、彼女たちの強靭さは思い知らされているはずであった。
「メンバー、りっぱです。けいこ、きたいです」
たどたどしい日本語に外来語まで交えて、グウェンドリン選手はそんな風に言っていた。十二月初日の本日はシンガポール陣営をお迎えしようという気持ちもあって、出稽古のメンバーもおおよそ勢ぞろいしていたのだ。不在であったのは、日曜日でも昼まで仕事があったサキのみであった。
そうしてさっそく肩慣らしのスパーリングに励んでいると、昼前には兵藤アケミもやってくる。
名古屋から駆けつけた兵藤アケミは、真っ先に瓜子のもとへと近づいてきた。
「お待たせしたね。あんたに雇われたトレーナーとして、粉骨砕身の働きを見せてみせるよ」
「あ、いえ。どうぞ自分ひとりにこだわらず、すべての選手の指導をお願いします」
「わかってるさ。でも、あんたに雇われるっていうシチュエーションが、なんとも愉快でね」
そう言って、兵藤アケミは土佐犬を思わせる顔に力強い笑みをたたえた。
「それに、半分がたは本音だよ。今回はうちの門下生が出場するわけでもないから、あんたを筆頭とする出場選手のためにめいっぱい尽くすつもりだ。こんな機会を作ってくれて、本当に感謝しているよ」
「いえ。言いだしっぺは鞠山選手ですし、自分こそ感謝しています。最終日まで、どうぞよろしくお願いします」
そんな挨拶を交わした矢先に、さらなるゲストが登場する。
オルガ選手と父親にしてトレーナーのキリル氏、そして以前から両名の面倒を見ていた通訳の男性である。
オルガ選手と再会するのは二年以上ぶりであるので、瓜子も思わず胸を高鳴らせてしまう。そして、初の対面となるシンガポールの陣営は誰もが熱烈な眼差しを向けていた。《アクセル・ファイト》で活躍するオルガ選手の勇姿は、誰もが配信動画で見届けているのだ。
二年以上ぶりに相対するオルガ選手は、以前よりもさらに逞しくなったように感じられる。体格がしっかりしているのは最初からであるが、そこからみなぎる力感が増したように感じられるのだ。
淡い褐色の髪と灰色の瞳で、面長の顔は彫りが深い。ロシア人らしく、きわめて精悍な面立ちだ。
しかしオルガ選手は、瓜子と同年代なのである。瓜子も実感しているが、二十歳からの数年間というのはファイターにとって伸び盛りであるはずであった。
「……ミナサン、おヒサしぶりです。オオミソカまで、ヨロしくおネガいします」
と、オルガ選手は片言の日本語で挨拶をして、頭を下げる。その毅然とした所作も、以前のままであった。
「やあ、オルガ。すっかり、アンタに置いていかれちゃったね。すぐに追いついてみせるから、もう少しだけ待ってておくれよ」
稽古の手を止めた小笠原選手が笑顔で言葉を届けると、えびす顔をした通訳の男性がそれを伝えてくれた。
オルガ選手はひとつうなずき、ロシア語で答える。通訳の男性はうんうんとうなずいてから、その内容を語り始めた。
「トキコとユーリの試合は、私も拝見しました。それ以外の試合も、すべてチェックしています。あなたがたゆみなく成長していることは明らかですので、私は何も焦っていません。いずれ世界の舞台で戦える日を心待ちにしています。……だそうです」
「ありがとう。アンタに失望されてなくて、ほっとしたよ」
小笠原選手がにこやかに笑うと、オルガ選手もぎこちなく微笑んだ。
かつては小笠原選手がオルガ選手に勝利して、再戦を約束した間柄であるのだ。
そしてもう一名、オルガ選手が再戦を熱望している相手がいる。
オルガ選手がその人物に向けてロシア語で語り、通訳の男性が解説した。
「そして、ユーリ。あなたのモンスターっぷりも、すべて拝見しています。今回はベリーニャ・ジルベルトに出番を譲りますが、次は私が再戦のチャンスをつかみたいと願っています。……だそうです」
「うにゃあ。そのあたりのことは、ユーリには手の出せないリョーイキでありますので……でもでも、オルガ選手とも試合をできたら、ユーリは幸せいっぱいなのですぅ」
ユーリがもじもじしながら答えると、オルガ選手はその所作だけで微笑んだ。
そして通訳の男性が言葉の内容を伝えると、冷たい灰色の瞳に優しい光がたたえられた。
「そのように言ってもらえるだけで、私は満足です。《ビギニング》の契約解除は残念でなりませんが、あなたが世界級のファイターであることに疑いはありませんので、いずれ夢が実現するでしょう。……だそうです」
「うにゃあ。キョーシュクのイタリなのですぅ」
すると、苦笑を浮かべた立松が割り込んだ。
「とにかく、歓迎するよ、オルガさん、キリルさん。あんたがたが同じ青コーナー陣営だったのは、幸いだったな」
オルガ選手は《アクセル・ファイト》の所属選手でただひとり、青コーナー陣営であったのだ。それは対戦相手であるイーハン選手が同門のイヴォンヌ選手もろとも赤コーナー陣営にまとめられた結果に過ぎなかったが、そのおかげで心置きなく日本陣営と最終調整をともにできるわけであった。
「とはいえ、そろそろメシ時だな。本格的な稽古は午後からってことにして、とりあえず着替えてきたらどうだい?」
「承知しました。勝手知ったる場所ですので、ご案内は無用です。……だそうです」
オルガ選手とキリル氏と通訳の男性は、稽古場を出て更衣室に引っ込んでいく。
その隙に、グウェンドリン選手が瓜子に囁きかけてきた。
「オルガ・イグナーチェヴァ、じつりょく、きたいです。キリル・イグナーチェフ、コーチング、きたいです」
まだまだ日本語の覚束ないグウェンドリン選手であるが、その熱情はひしひしと伝わってくる。そして、オルガ選手と同じ階級であるエイミー選手やランズ選手などは、それよりもはっきりと闘志をあらわにしていた。
(今回は協力関係を結ぶけど、いずれはライバルになり得るんだもんな。それはそれで、すごい刺激になりそうだ)
そうしてオルガ選手が着替え終わった頃には正午が間近となったため、ランチタイムに突入した。
ランチに関しても、出稽古の期間は特別な措置が取られている。何せ人数が人数であるので、稽古場にレジャーシートを敷き詰めて、出前を注文することになったのだ。その出前も通常の料理店ではなく、いわゆる宅配弁当が主流であった。
「最近はヘルシー志向とかで、立派な弁当が出回ってるからな。これならカロリー計算も楽だし、うってつけだ」
出場選手も試合まで残り一ヶ月となり、いよいよカロリー計算が必要になってきたのだ。また、ヘルシー志向の宅配弁当であれば塩分や糖質や脂質もひかえめであり、大きな減量に挑む面々にも最適であった。
「でも、ユニオンのみなさんはかなりシビアに食事制限するんすよね? この弁当で、問題ないっすか?」
瓜子が道場からの借り物である携帯端末で翻訳アプリを活用すると、グウェンドリン選手は肉声で「はい」と答えてから、自らも携帯端末を手に取った。
『細かい部分は、朝食と夕食で調整します。こちらの弁当は栄養価も明記されていますし、献立も多彩なので、理想的です』
そんな次第で、ユニオンMMAの面々も心置きなく同じ昼食を腹に収めることになった。
道場で食事をとるというのはなかなかに珍妙な体験であるが、すでに一週間を突破しているのでみんな手慣れたものである。瓜子も上品な味わいをした弁当とともに、シンガポールの面々と再会できた喜びを噛みしめることがかなった。
『ユーリの契約解除について語るのは、不適切ですか?』
と、ランチのさなかにそう言い出したのは、エイミー選手であった。
ユーリは一瞬きょとんとしてから、「いえいえぇ」と笑顔で応じる。
「ユーリもこんな立派なイベントでベル様と対戦できることになったので、何も気にしていないのですぅ。みなさんにはご心配やご迷惑をかけてしまって、申し訳ない限りなのですぅ」
「だから、あんたも翻訳アプリを使う習慣をつけるんだわよ」
親切な鞠山選手が通訳すると、エイミー選手は厳しい面持ちで首肯した。
『ユーリとベリーニャの対戦は、私も楽しみです。ですが、その後はどうなのでしょう?』
「うにゃ? その後とは?」
『たとえベリーニャとの試合がどのような結果になっても、ユーリが《ビギニング》に戻ることは不可能なのでしょう? 今後も、《アトミック・ガールズ》で活動していくのですか?』
ユーリはふわりと微笑みながら、「はい」とうなずいた。
「ユーリが試合をすることを許してくれたのは《アトミック・ガールズ》だけなので、ユーリはこれからも《アトミック・ガールズ》で頑張りたいと思います」
『そうですか。ユーリと《ビギニング》で対戦できないのは、非常に残念です』
そんな風に言ってから、エイミー選手はぐっと身を乗り出した。
『それでは、《アトミック・ガールズ》が世界級のプロモーションに発展することを希望します。私は空位となった《ビギニング》の王座を目指しますので、いずれ《アトミック・ガールズ》の王座を獲得したユーリとダブルタイトルマッチを実現したいです』
ユーリはいっそうやわらかく微笑みながら、再び「はい」とうなずいた。
「アトミックにも強い方々がたくさんいらっしゃるので、ユーリがチャンピオンになれるかどうかはわかりませんけれど……エイミー選手にそんな風に言っていただけるのは、とても嬉しいです」
『ミチコやトキコは強敵ですが、ユーリならば勝利できるでしょう。その日を、心待ちにしています』
そう言って、エイミー選手も微笑んだ。
ユーリのかたわらでそんなやりとりを聞かされた瓜子は、懸命に涙をこらえている。ユーリが来年以降の展望を具体的に語ったのは、これが初めてのことであったのだ。
(ユーリさんは、必ず無事に戻ってきてくれる。それで来年からも、《アトミック・ガールズ》で大活躍するんだ)
そうして瓜子が、弁当の最後のひと口をかきこんだとき――稽古場の扉が、大きく開かれた。
そこから現れた面々の姿に、あちこちからどよめきがあげられる。それは、きわめて不機嫌そうな面がまえをした小柄な女性と、土佐犬のように厳つい顔立ちをした大柄の男性――犬飼京菜と大和源五郎であったのだ。
「なんだい、大和さん。出稽古は不参加って話じゃなかったか?」
立松がうろんげに声をあげると、大和源五郎は悪びれた様子もなく「ふふん」と鼻を鳴らした。
「不参加なんて答えた覚えはねえな。俺たちは、考えさせてくれって伝えたはずだぜ?」
「そのまま連絡が途絶えたんだから、不参加って判断するのが当たり前だろうがよ。いちいちひねくれた真似をしねえでもらいたいもんだな」
「こちとら、ひねくれもんの集団なんでね。ま、一週間じっくり考えぬいた結果だとでも思ってくれや」
大和源五郎はごましおの坊主頭を撫で回しながら、稽古場でくつろぐ面々を見回していく。そして、赤星道場の面々が集った場所で、視線を固定させた。
「何せこっちの最終ターゲットは、そこの大怪獣様なんだからよ。仲良く顔を突き合わせて出稽古なんぞに励むのが許されるのかどうか、念入りに考える時間が必要だったのさ」
「それで、出稽古に取り組む決断に至ったということでしょうか?」
赤星弥生子が落ち着いた面持ちで反問すると、大和源五郎は「ああ」とうなずいた。
「ただやっぱり、赤星の面々と直接手を合わせるのは、避けたいところだな。その条件で、どうだい?」
「ええ。私とナナはバンタム級ですので、犬飼京菜さんのように俊敏な相手とスパーをしていたら、むしろ調子を崩してしまいそうです。どうぞ私たちにはかまわず、他の方々に助力をお願いします」
「そうかい」と、大和源五郎はおもむろに膝を折った。
そして、切腹をする武士のごとき姿勢で、他なる面々を見回してくる。
「それじゃああらためて、俺たちも出稽古に参加させてもらいたい。人様に歩み寄るのが苦手なひねくれもんの集まりなんで、あれこれ迷惑をかけるかもしれねえが……根っこにある気持ちは、ひとつのつもりだよ」
「ほう。根っこの気持ちってのは、なんだい?」
「そりゃあもちろん、自分たちの力を世間に見せつけたいって一心さ。拓哉はそのために、《JUF》に殴り込んだんだからな」
拓哉とは、犬飼京菜の父親である。赤星道場を出奔した犬飼拓哉はさまざまなプロモーションを転々とした末に、当時の一大プロモーションであった《JUF》に参戦し――そうして結果を出せないまま、引退することになったのだった。
「いまや格闘技で成り上がるには、世界の舞台に出るしかない。今回のイベントは、その突破口のひとつだろうさ。ここで結果を出すことができれば、きっと世界への道が大きく開くだろうからな。そのために、今回出場するお人らの力になりたいと思ってるよ」
「へー。ずいぶん殊勝な口を叩けるようになったじゃねーか」
と、いきなり背後から声をあげられて、犬飼京菜が跳び上がった。
「な、なんだよ! 気配を殺して、後ろに立たないでよね!」
「そんなもんを殺す技術は、習っちゃいねーよ。おめーが鈍いだけだろ」
ボストンバッグを抱えたサキが、稽古場に踏み込んでくる。昼を過ぎて、サキがやってくる時間に至っていたのだ。
「ま、好きにさせりゃーいいんじゃねーの? アタシはこんな犬っころの面倒を見るつもりは、さらさらねーけどなー」
「う、うるさいな! あたしだって、ちゆみちゃんなんかに協力する気はないからね!」
「……てめー、公衆の面前で何を口走ってやがる」
二十センチの身長差で、サキと犬飼京菜が視殺戦を開始した。
立松は、苦笑しながら身を起こす。
「赤星の面々だけじゃなく、サキの相手をする気もないってわけか。ま、サキの対戦相手はスピードも並だし、嬢ちゃんの力を借りる必要はなさそうだな」
「ああ。だけど、猪狩さんのパートナーには、うってつけだろ?」
「そう思って、俺もそちらさんに声をかけさせていただいたんだよ。メイさんのスピードに匹敵するのは、たぶんその嬢ちゃんだけだからな」
そう言って、立松も稽古場に視線を巡らせた。
「そんなわけで、ドッグ・ジムの人らも合同稽古にお招きしたい。猪狩以外にも、有効な組み合わせは山ほどあるだろうしな。この嬢ちゃんを鬼ごっこで捕まえられたら、たいていの相手を捕まえられるはずだ」
立松の言う通り、犬飼京菜は俊敏性に秀でている。おそらく《アトミック・ガールズ》に所属する選手の中では、随一の敏捷さであるのだ。
なおかつ、外国人選手はフィジカルに優れているため、やはり瞬発力に秀でている選手が多い。ストロー級やフライ級の選手にとっては、犬飼京菜がきわめて有用なスパーリングパートナーになるのではないかと思われた。
そうして十二月の初日には、これほどの新たなメンバーを迎えることになり――プレスマン道場における合同稽古は、いっそうの活況を呈することに相成ったのだった。