04 百人百様
「それじゃあ今日は、ここまでだな」
立松がそのように宣言すると、数多くのメンバーが気合を振り絞って挨拶を返した。
午前九時から午後五時にまで至る過酷な合同稽古が、ついに終了したのだ。午後から参加したサキと愛音と武中選手、調整期間であるためにインターバルを入れていた赤星弥生子とマリア選手以外は、おおよそへたばっていた。
「これがあと……五週間も続くんですよね……想像しただけで、目が眩んじゃいそうです……」
そんな言葉をこぼしたのは、まだ若い浅香選手である。
スポーツタオルで頭をかき回しながら、瓜子は「そうっすね」と笑顔を届けた。
「でも、ラストの二週間は調整期間ですし、そうじゃなくっても浅香選手が無理をする必要はありません。きつくなったら、休養を入れてくださいね?」
「い、いえ! これを乗り越えたら、強くなるのが当たり前ですから! 死ぬ気で、ついていくつもりです!」
「死んだら、元も子もあらへんやろ」
と、雅はドリンクボトルの底で、浅香選手の頭を小突いた。
「肝要なんは、最後まできっちりつとめあげることやさかいなぁ。体調に見合った休息を入れるんも、トップアスリートの必須条件やで?」
「わ、わかりました。みなさんの足を引っ張らないように、心がけます」
やはり兵藤アケミが到着するまでは、雅が浅香選手の保護者のようなものなのだろう。独立独歩の気風が強い雅が門下生の面倒を見ているさまは、なんとも微笑ましい限りであった。
「そら、へばってないでクールダウンだ。この人数だから、着替えやシャワーは順番にな。あと三十分ばかりは他の門下生がこっちに入ってくることもないが、だらだらした姿を見せるんじゃないぞ」
そんな言葉で活を入れながら、立松が瓜子のほうに近づいてくる。
その目には、とても真剣な光と満足そうな光が同居しているように感じられた。
「お前さんは、最後まで絶好調だったな。でも、まだまだ先は長いんだから、飛ばしすぎるんじゃないぞ?」
「押忍。でも、調整期間まであと三週間しかありませんからね。メイさんに勝つために、ぎりぎりまで頑張ります」
「ああ。メイさんのおっかなさは、俺たちが一番痛感してるからな」
立松の言葉に奮起と喜びの思いを授かりながら、瓜子もクールダウンを開始した。
表側の稽古場では、すでにキック部門のレッスンが開始されているはずだ。また、プロに昇格した蝉川日和もそれとは別に、独自のトレーニングを進めているはずであった。
「……蝉川さんも、来週試合だそうだね」
と、遠からぬ場所でストレッチに励んでいた赤星弥生子が、穏やかな声を投げかけてくる。
昼食の時間にもあまり口をきく機会のなかった瓜子は、笑顔で「押忍」と応じた。
「今回も、ランキング戦です。この調子なら、来年中にタイトルマッチを目指せるかもしれません」
「素晴らしいね。蝉川さんに追いつけるように、ルミも奮起しているよ。……ああ、ルミとは一昨日、顔をあわせているんだったね」
「押忍。でも、そのときも大人数だったんで、あんまりおしゃべりはできませんでした」
「そうか。人気者の猪狩さんと口をきくのは、どんな場所でもひと苦労というわけだね」
「あはは。そんなんじゃないっすよ」と答えてから、瓜子は隣のユーリを振り返る。
すると、すぐさま「すねてないですぅ」という甘えた声が返された。
「すみません。もうちょっとおしゃべりさせてくださいね。……弥生子さんも、来週の試合は頑張ってください。あと、くれぐれもお気をつけて」
「うん。まあ、ここで私が大晦日の試合を棄権することになっても、イベントはつつがなく行われるのだろうが……《アクセル・ファイト》の運営陣の機嫌を損ねたら、どのような報復をされるかもわからないからね」
「報復? 物騒なお話っすね」
「もちろん非倫理的な意味ではなく、運営側の裁量にもとづく報復さ。たとえば、桃園さんの対戦相手を変更する、とかね」
ユーリは「えっ」と硬直してしまう。
そちらに向かって、赤星弥生子は穏やかに微笑みかけた。
「そうさせないためにも、私は死力を振り絞るつもりだよ。まあ、死力を振り絞らない試合なんて存在しないけれどね」
「は、はい。でも、弥生子さんの欠場でユーリさんのマッチメイクを変更する正当性なんて、あるんすか?」
「《アクセル・ファイト》では、意外とそういう例が多いんだよ。目玉の選手が欠場すると、その日に予定されていた同じ階級の試合もバラバラに組み合わせて、もっともお客に喜ばれそうなマッチメイクを考案するんだ。今回の例で言うと……私の対戦相手であったガブリエラを桃園さんにあてがって、ベリーニャの対戦相手に高橋さん、高橋さんが相手をするはずだったレベッカの相手に小笠原さんを指名する、とかね」
「ああ、確かに《アクセル・ファイト》では、そういう話も多いみたいだね」
と、逆の側から小笠原選手も会話に加わってきた。
「そんないきなり対戦相手が変更されたら、それまでに立ててきた作戦も台無しになっちゃうだろうにさ。まあ、それはおたがいさまの話だから、文句を垂れずに勝利を目指せってことなのかな」
「うん。勝負論としても経営戦略としても、それほど道理を外れてはいないんだろう。ただ今回は、桃園さんの期待を裏切らないように励むつもりだ」
そんな風に答えてから、赤星弥生子はいくぶん神妙な眼差しを小笠原選手に向けた。
「そういえば、小笠原さんにもひとこと言っておきたかったんだ。私がナナを推挙したためにバンタム級の枠が埋まってしまったことを、申し訳なく思っている」
「そんなのは、ベルトを獲れなかったアタシの責任さ。バンタム級の看板は桃園と高橋が守ってくれるだろうから、アタシはのんびり観戦させていただくよ」
大人物たる小笠原選手は、普段通りの笑顔でそのように応じた。
「とか言いながら、当日はセコンドなんだから、のんびりしてるヒマはないけどね」
「え? 小笠原さんも、セコンドを?」
「うん。なにせプレスマンは、三人も出場するからさ。アタシや小柴やオリビアが割り込む隙があったんだよ」
さらに、天覇館も高橋選手と魅々香選手が出場するため、鬼沢選手が雑用係に志願している。これにて、出稽古の常連メンバーはのきなみ関係者として出向くことがかなったのだった。
「赤星も二人も出るから、セコンド陣は大わらわなんだろうね。辻くんたちは、もう帰ってきたんだっけ?」
「うん。挨拶をするのは、これからだけどね」
《アクセル・ファイト》の中国大会に出場したレオポン選手は、『トライ・アングル』がライブを行った一昨日の土曜日が試合であったのだ。昨日の休日にアーカイブで拝見したところ、レオポン選手は苦戦しながらも判定勝利をもぎ取っていた。
「この調子でいくと、プレスマン、赤星、天覇の三大勢力が、フィストに追いつきそうな勢いだね。武魂会に籍を置いてるアタシはMMA界の外様だろうけど、みんなにくらいついてみせるよ」
「小笠原さんは最初から、桃園さんに次ぐ実績を残していたはずだ。もちろん高橋さんも、勇躍めざましいけれど……勝負は、時の運だからね」
「そう。来年には、その運もひっつかんでみせるよ」
と、小笠原選手は力強く笑った。
小笠原選手は王座決定トーナメントの準決勝戦で右拳を骨折して、棄権することになったのだ。その代わりに決勝戦へと進んだのは、リザーブマッチに勝利した高橋選手であり――その高橋選手が、一回戦目で敗れた青田ナナにリベンジを果たして、王座に輝いたのである。
バンタム級のトップファイターは、実力が拮抗しているのだ。なおかつ、小笠原選手は以前に高橋選手に勝利したこともあるので、負傷がなければ優勝候補の筆頭であったのだった。
(小笠原選手が怪我で泣くのは、これで二回目だったしな)
小笠原選手はかつて秋代拓海との対戦でも頸椎を痛めて、長期欠場を余儀なくされている。怪我をするのも実力の範疇なのかもしれないが、決して幸運とは言えないはずであった。
だが――それを言ったら、ユーリも二度の大きな長期欠場を体験しているのである。
一度目は右肘の靭帯損傷および右拳の骨折、二度目は頭蓋骨の陥没骨折だ。
また、魅々香選手などは肘靭帯の損傷と再発、その前は眼窩底骨折で三度の長期欠場を体験している。
それでもユーリと魅々香選手は見事に返り咲いて、このたびのイベントに出場することがかなったのだ。
小笠原選手もこの二ヶ月と少しで骨折の痛手から回復して、こうして合同稽古に参加している。小笠原選手であれば、いずれまた大きなチャンスをつかめるはずであった。
「さて。それじゃあ、わたいは仕事があるんで、先にシャワーを拝借するだわよ」
クールダウンを終えた鞠山選手を先頭に、何名かの選手が更衣室に向かっていく。
赤星弥生子もまた、ゆったりと身を起こした。
「私も道場で指導があるので、お先に失礼する。……また明日も会えるのだから、名残を惜しむ必要はないよね」
「はい。それでもちょっぴり、名残惜しいですけどね。……だから、すねないでくださいってば」
「すねてないですぅ」と、ユーリはふくよかな唇をとがらせながら、瓜子の頬をつついてくる。赤星弥生子はくすりと笑ってから、青田ナナたちとともに立ち去っていった。
◇
翌日からも合同稽古は順当に、かつ賑やかに進められていった。
瓜子にとって印象的であったのは、やはりギガント・ジムの両名である。まだプレスマン道場の出稽古に参加してから日の浅い両名は、あらゆる相手とのスパーリングが新鮮でならなかったのだった。
巾木選手はスタンド状態において、ちょっと風変わりな距離感覚を有している。相手の身に一発でも拳を当てると、まるで標的をロックオンしたかのように一定の間合いを保つことができるようになるのだ。
いっぽう横嶋選手はスタンドにおいてもグラウンドにおいても、相手の虚を突く手管に長けている。その意想外な一撃でリズムをつかみ、あれよあれよという間に有利な形勢を構築してしまうのだ。
そんな両名の特性は、初見殺しに近い。プレスマン道場に集結した名うてのトップファイターでも、当初は誰もが苦戦を強いられていた。
しかしまた、スパーを重ねていくと、だんだん攻略の糸口が見えてくる。なおかつ、両者の特性には共通する大きな弱点――パワーやスピードでゴリ押しされると機能しなくなるという弱みが存在した。
「だけど俺たちは、お二人に勝つために稽古を積んでるわけじゃないからな。勢いまかせで対抗するんじゃなく、頭と技術で攻略しろ。そうしたら、おたがいに切磋琢磨できるはずだ」
そんな立松の言葉に従って、他なる面々は発奮することになった。そしてギガント・ジムの両名もそれぞれ内心を押し隠す気性であったが、同じぐらい奮起しているように感じられた。
その輪から早々に離脱したのは、赤星弥生子、高橋選手、小笠原選手、オリビア選手、浅香選手の五名となる。身長が百七十センチを超えるそれらのメンバーは、リーチ差を活かして両名の特性を打ち砕くことが容易かったのだった。
「これじゃあアタシらも頭をひねる余地がないし、そっちのお二人もこんなデカブツへの対処法を磨く意味はないでしょ。おたがいに、もっと有用な稽古に時間を割くことにしよう」
小笠原選手のそんな言葉が採用されて、長身のメンバーは他なる相手と別なる稽古に取り組むことになった。
別なる稽古では、そちらの五名も引く手あまたであったのだ。とりわけバンタム級においては、自分と同じかそれ以上の体格を有するスパーリングパートナーというのがきわめて貴重であったのだった。
「同じような背丈の男子選手はいくらでもいるけれど、やはり男子と女子ではずいぶん感覚が違っているからね。これだけでも、ナナは出稽古におもむいた甲斐があったことだろう」
赤星弥生子はこっそり、そんな感想をこぼしていた。
そんな赤星弥生子は《レッド・キング》の試合を控えているため、半分がたは指導の役に回っている。合同稽古の最初の一週間は、立松かジョンか柳原のいずれかに、赤星弥生子と雅――それに、一日置きの頻度で来訪する来栖舞がトレーナーの役を担ってくれた。
「男子選手の指導もあるので、今月はこのペースでしか参加できない。でも十二月になったら、わたしも皆と同じペースで参加させていただくよ」
二日目にやってきた来栖舞は、粛然とした面持ちでそのように語っていた。天覇館の指導員である彼女は、やはり道場における業務を二の次にできなかったのだ。
ちなみに来栖舞が来訪できない日においては、高橋選手と魅々香選手は合同稽古の後に天覇館の道場まで出向き、どのような稽古を積んできたか報告していたらしい。両名の基本戦略を考案するのは天覇館のトレーナーたちであったため、毎日のすりあわせが必要であったのだ。
いっぽう四ッ谷ライオットなどは戦略を練ることを苦手にしているため、すべて選手に丸投げであるらしい。そちらも初心者に対しては適切にレッスンするシステムが確立されているようであるが、プロ選手に関しては自主性の名のもとに放置しているのだという話であった。
「まあそれでも、あそこの連中とつるんでると気合が入るんだよ。それで気合を補充して、プレスマンで技術を磨くってのが、この数年のスタイルだね」
「ホントあいつらは頼りになるんだかならないんだか、わかんないよねー!」
そのように述べる多賀崎選手と灰原選手も、合同稽古を終えた後にちょくちょく四ッ谷ライオットに顔を出しているようである。それで気合が入るのならば、何よりの話であった。
ちなみに灰原選手はファイトマネーをあてにしてバニー喫茶の勤務を休めるだけ休んでいるという話であったが、実家で雑務を受け持っている多賀崎選手も親に頼み込んで長期休暇をいただいたらしい。多賀崎選手は出場選手でないにも拘わらず、自らの生活を犠牲にして尽力しているのだった。
「だから、マコっちゃんの食事はあたしの全おごりなの! いつか逆の立場になったら、あたしがおごってもらうけどねー!」
灰原選手はけらけらと笑いながら、そんな風に言っていた。
ともあれ、協力者の立場である多賀崎選手ですら、そうまで身を削っているのだ。出場選手の面々は、いずれもそれ以上の意気込みで合同稽古に取り組んでいるはずであった。
しかしまた、出場選手の中できちんとした職についているのは、魅々香選手ただひとりとなる。赤星弥生子は道場主、青田ナナは指導員、鞠山選手は経営主、灰原選手と高橋選手とサキはバイト職員であったので、自由な時間を作ることもそう難しくはなかった。
そして、その魅々香選手は――今回のイベントに、進退をかけていた。
もしも今回の試合で結果を残すことができなければ、プロファイターとしての活動を制限して、本業を優先するというスタンスであったのだった。
「わ、わたしは『アクセル・ロード』のときにも無理を言って、長期休暇をいただきましたから……これ以上、ご迷惑をおかけするわけにはいかないんです」
寡黙な魅々香選手は、昼食の折にそんな真情を吐露してくれた。もちろん本人が率先して語り始めたわけではなく、鞠山選手にうながされて語ることになったのである。
「格闘技一本で食べていく見込みが立たなかったら、プロファイターとしての活動を縮小化するということだわね。美香ちゃんもお年頃だから、そんな決断を下さざるを得なかったんだわよ」
「えーっ! でも、ミミーはアトミックのチャンピオンじゃん! それなのに、格闘技をあきらめちゃうの?」
「た、たとえプロファイターでいられなくなったとしても、わたしは天覇館に骨をうずめるつもりです。でも、とうてい指導員なんて務まりませんから……生活のために、きちんと働かなければならないんです」
「御堂さんだったら、指導員だって務まるはずだけどね。でも、それで道場通いが苦になったら、元も子もないもんね」
高橋選手が優しい笑顔で声をあげると、魅々香選手もぎこちなく微笑みながら「はい」とうなずいた。
「天覇館のおかげで、わたしは充実した毎日を送れるようになりました。いずれよぼよぼのおばあさんになっても、道場には通い続けるつもりです」
「そっかー! だったらまずは、目の前の試合を頑張らないとね! あたしと一緒に、格闘技で食ってく道を切り開こー!」
灰原選手が無邪気に言いたてると、魅々香選手はそちらにも笑顔を向けた。
「は、はい。わたしも、天覇館に恩返しをしたいので……一番に考えているのは、プロファイターとして大成することです」
魅々香選手のそんな決意を聞かされて、瓜子は胸が詰まるような思いであった。
魅々香選手は、今年で三十歳――格闘技の女子選手としては、ひとつの大きな節目であったのだ。今回のイベントを最後のチャンスと見込んでも、なんらおかしなことはなかった。
(やっぱりあたしなんかは、つくづく恵まれた環境にいたんだな)
瓜子は家族と離れ離れになってしまったが、おかげであらゆる責任から解放されることになった。世間体を気にする必要もなく、格闘技に全精力をつぎ込むことが許されたのだ。まあ、モデル活動だけは手放しで喜べない話であったが――それでも、ユーリのマネージャー面をするだけで安定した生活を送れていたのだから、とうてい文句をつける気にはなれなかった。
(あたしもいつかは、自分の人生を見つめなおさないといけない時期がくるんだろうな)
しかし瓜子も、今は目の前の試合に集中しようという所存である。
メイとの対戦を前にして、将来の心配をするようなゆとりはどこにも存在しなかった。
そうして、あっという間に最初の一週間は過ぎ去って――時節はついに、十二月に突入したのだった。