04 後半戦
ユーリの次なるステージ衣装は、オーバーサイズのプルオーバーにダメージ過多なショートデニムという、カジュアルな装いであった。
この近年で、おそろいのモッズスーツ、純白のワンピース、ダンサーめいたカジュアルファッションというお色直しの順番が確立されたようである。露出は少ないが肢体のシルエットを浮き彫りにするワンピースから、白い足を剥き出しにするカジュアルファッションというのは、ユーリの色香を別方向から強調するファッションでもあった。
ほとんど衣服としての用をなしていないショートデニムの破れ目からは、白い肌とピンク色のビキニが覗いている。こちらの衣装に着替えるにあたって、白い下着からピンクのビキニに着替えたのだ。大きく開いた襟ぐりから覗くのも、ピンクのビキニの紐であった。
カラフルなキャップをななめにかぶったユーリは、意気揚々と舞台袖に引き返す。
ステージでは、山寺博人が『ベイビー・アピール』のカバー曲を熱唱していた。こちらの曲は抽象的だがきわめて猥褻な歌詞であり、瓜子はむやみに落ち着かない気分である。ただ、ファンの間では大人気であるとのことであった。
「ヒロくんにあんな歌を熱唱されたら、瓜子ちゃんもあちこちうずいちゃうんじゃない?」
悪戯小僧のように微笑む円城リマにそんな言葉を耳打ちされて、瓜子は「いえ、まったく」と素っ気なく答える。落ち着かない気分であっても、おかしな気分になることは決してなかった。
そのカバー曲が終了したならば、三たび瓜子と拳を合わせたユーリがステージに躍り出る。
大歓声の中、すぐさま景気のいいイントロが開始された。第三幕のオープニングナンバーは、カバーアルバムの録音にあたって準備された新曲のひとつ、『クライスト』である。
これは『ベイビー・アピール』のカバー曲で、ミドルテンポだが派手派手しく、ダンシブルなナンバーである。ユーリの現在の装いには、ぴったりの楽曲であった。
ただし歌詞のほうは、漆原らしく錯綜している。
こちらは何も知らない無垢な少女が、巷にあふれる猥雑な現象の意味を取り違えながらのほほんと生きていくという、なかなかに風変わりな内容であった。
世間には、許し難い矛盾や悪徳が満ちている。しかし性善説が具現化したかのごとき無垢なる少女は「そんなはずがない」と、すべての事象を好意的にとらえてしまうのだ。それは何だか、きわめて痛烈なブラックユーモアの短編小説を読んでいるような気にさせる歌詞であった。
「さすがにユーリも、ここまでおばかちゃんではないつもりですけれども……でもでも、半分ぐらいは気持ちがわかっちゃう気もするなぁ」
こちらの『クライスト』が新曲の候補にあげられたとき、ユーリはそんな感慨をこぼしていたものであった。
ユーリはごく幼い時分から、ひどい運命に見舞われている。養父に性的虐待を受けたのは小学生の時代であったし、中学時代には担任の教員に襲われかけているのだ。
そして十六歳でアイドルとしてデビューしてからは、芸能界の汚い部分まで見せつけられてきた。業界のお偉いさんや共演者にはちょっかいをかけられて、同性には激しい嫉妬を買い、ありもしない熱愛のスクープをでっちあげられて――並の人間よりは、よほど世間の薄汚さを目にしてきたはずであった。
(そういえば、ファイターとしてデビューできなかったら、いかがわしいビデオに出演させられるなんて話もあったっけ)
そんな話を思い出すと、瓜子は今でも胸が悪くなってしまう。
しかしユーリは、そういった過去を引きずっていない。サキと決裂したときや、《カノン A.G》の連中に悪さを仕掛けられたときなどは、少なからず心を揺さぶられてしまったようであったが――基本的には、すべてなかったことにしてしまっているのだ。
きっと負の感情を体外に排出するというユーリの特性も、この世に絶望しないための自己防衛であったのだろう。だからユーリはきわめて複雑な人格を形成しながらも、この世を呪わずに済んでいるのだ。
『クライスト』に登場する少女は、言ってみればユーリを上回る天然気質であった。
ユーリは意識的に負の感情を排出しているが、この少女は無意識の領域でそれを成し遂げているように思えるのだ。そうして世間の薄汚さを知覚しないことで、彼女は非人間的な清廉さを保っているわけであった。
(ユーリさんがそんな人だったら、あたしも心をひかれなかっただろうな。というか……あの日に本心をさらけだすまで、あたしはユーリさんがそういう人間なんじゃないかって誤解してたのかもしれないな)
ユーリはサキと決裂してしまった悲しさも、瓜子に対する接触嫌悪の症状が再発してしまった苦しさも、すべて意識の外に排出していた。そんなユーリの強さを化け物じみていると感じた瓜子は、自分の存在などユーリに必要ないのだ――と、見誤ってしまったのだった。
もちろんユーリは、尋常でなく強いのだろう。普通であれば絶望に打ちひしがれるような場面でも、ユーリは笑顔で乗り越えることができるのだ。
瓜子に対する接触嫌悪が再発したときも、ユーリは毎日のほほんと笑っていた。
だけどそれは、瓜子の負担になりたくないという一心であり――瓜子との関係が決裂しかけたときは、なりふりかまわず激情を爆発させていたのだった。
それで瓜子は、ユーリの弱さと優しさを知ることができた。
だから瓜子は、ずっとユーリのそばにいたいと願うことになったのだ。
この『クライスト』を聴いていると、瓜子はそんな古い記憶を刺激されてならなかったのだった。
(ユーリさんは、どんな気持ちでこの歌を歌ってるんだろうな)
主人公たる少女のことを、憐れんでいるのか――それとも、少しばかりは共感しているのか――何にせよ、ユーリは何らかの感情を込めており、それが歌の力に転化していた。
ただこれは『トライ・アングル』には珍しく、間つなぎのように思える楽曲である。他の曲ほど胸に迫る雰囲気ではないし、曲調も陽気なダンスナンバーであるので、ひたすら聴衆の期待や昂揚をかきたてようというポジションになっているように感じられた。
その流れから続けられるのは、ファーストアルバムの作製時に準備されたオリジナル曲、『Demolition』である。
こちらも漆原の作詞作曲で、すべてをなぎ倒して突き進もうというパワフルな一曲であった。
そうして観客を盛り上げてから一気に突き放すのが、『トライ・アングル』のやり口である。
次の曲は山寺博人が手がけた『鼓動』で、胸に迫るパワーバラードであった。
さらにその次は、漆原が手がけた哀切なるバラード曲、『YU』だ。ここでは再び、瓜子も止めようのない涙に見舞われることになった。
次には混沌の極みである『ケイオス』で、最後はすべてを断ち切るような勢いを持つ『Re:Boot』――それでステージの本編は、終了であった。
『どうもありがとうございましたぁ!』
ステージが進むにつれて昂揚するユーリは、元気いっぱいの挨拶を残して舞台袖に戻ってくる。他のメンバーもそれに続いたが、まだ最後尾の西岡桔平が舞台に残っている段階から「アンコール!」の声が巻き起こっていた。
「ま、当然の話だわな。一服したら、戻ってやろうぜぇ」
汗だくのメンバーたちは、ぞろぞろと楽屋に引き返していく。おおよそのメンバーは楽曲の合間でジャケットを脱ぎ捨てるので、最後まで正装のままであるのは陣内征生ただひとりであった。
個人用の楽屋に戻ったユーリは汗を吸ったプルオーバーを脱ぎ捨てて、ビキニ姿のままスポーツドリンクをくぴくぴと飲み干す。それから汗をふいたのち、XLサイズのグッズTシャツを新たに着込んだ。
瓜子と同じデザインで、カラーリングはもちろんピンクだ。ユーリは「にゅっふっふ」と笑いながら、しぼった裾を胸の下で結んだ。
「アンコールではうり坊ちゃんともおそろいになれるので、いっそうシフクなユーリちゃんなのですぅ」
「ええ。自分だって、嬉しいっすよ」
瓜子が素直に応じると、ユーリは「にゅわぁ」と身をよじらせる。自分は赤裸々に語るくせに、瓜子からの反撃には弱いユーリであるのだ。
さらにユーリは、同じく物販のグッズであるニット帽を浅くかぶって、舞台袖へと足を向ける。ユーリがかぶる帽子はすぐさま客席に投げられてしまうが、それもライブの必要経費であった。
舞台袖では、「アンコール!」の声がいっそうの熱量で合唱されている。
ユーリがうずうずしながら待っていると、やがて『ワンド・ペイジ』の三名だけが同じTシャツ姿でやってきた。
「ちょっと漆原くんがへたばってるんで、俺たちが間をつなぐことになりました。ユーリさんも、よろしくお願いします」
「ほえ? ユーリなんぞで、お役に立てるのでしょうかぁ?」
「ええ。ユーリさんがいるかいないかで、華やかさが格段に違いますからね」
ライブの疲れなど微塵も感じさせない笑顔を残して、西岡桔平はステージに出ていく。山寺博人は仏頂面で、陣内征生は目を泳がせながら、それに続いた。
そちらの三名だけでも、客席は大熱狂である。ユーリは小首を傾げつつ、瓜子にふにゃんとした笑顔を向けてきた。
「よくわかんにゃいけど、ユーリも行ってくるねぇ」
「はい、頑張ってください」
瓜子と拳をタッチさせて、ユーリもスキップまじりにステージへと出ていく。とたんに、倍する勢いで歓声が渦を巻いた。
『アンコールありがとうございまぁす。でもでも、メンバー様が半分しかおりませんけれど、どうするのですかぁ?』
『きっとこっちが演奏していたら、他のメンバーも集まってきますよ』
パーカッションセットに陣取った西岡桔平は、穏やかな笑顔でミニシンバルを打ち鳴らす。
すると、山寺博人がおもむろにエレアコギターを奏で始めた。
どこかで聴いた覚えのあるコード進行であるが、瓜子にはとっさに思い出せない。しかし、西岡桔平のコンガと陣内征生のアップライトベースが加わることで、ようやく正体が知れた。
(ああ、『ハッピー☆ウェーブ』だったのか)
それはユーリの個人名義でもっとも近年にリリースされた、『ハッピー☆ウェーブ』であった。『トライ・アングル』のメンバーが伴奏を担当して、大ヒットとなったナンバーだ。
しかしもともとは、アップテンポの元気な曲である。それが、ミドルテンポのメロウな曲調にアレンジされていた。
心地よさそうに身を揺すっていたユーリは、然るべきタイミングでAメロを歌い始める。
初めて挑むアレンジであるが、実にのびやかな歌声だ。伴奏が三人きりであるとユーリもゆったりとした歌唱になるので、それがむしろマッチしていた。
エレアコの音色とアップライトベースの旋律が元気さよりも哀切をかもしだしているが、ユーリの甘ったるい声は無邪気な喜びに満ちている。その組み合わせが、原曲に存在しない深みを生み出しているように感じられた。
「ちぇっ。ウルのせいで、出遅れちまったぜ」
と、最初のサビが終わったところで、『ベイビー・アピール』の面々が姿を現した。
千駄ヶ谷は、冷徹な眼差しで漆原を見据える。
「どうなさいました? どこか、お加減でも悪いのでしょうか?」
「いやぁ、血圧が上がりすぎて、鼻血が出ちまっただけだよぉ。ベイビーのライブならともかく、『トライ・アングル』に流血は似合わねえだろうからさぁ」
漆原がとぼけた調子で答えると、千駄ヶ谷は「なるほど」と納得した。
「漆原氏は『ベイビー・アピール』のステージ上でも、何度か鼻血を出されていましたね。ついに『トライ・アングル』でも『ベイビー・アピール』に劣らないぐらい、熱情を高めることになったということでしょうか?」
「俺が『トライ・アングル』で手を抜くわけねえだろぉ? 鼻血なんざ、体調だか天気だかの都合だよぉ」
漆原が甘えた声を出しても、千駄ヶ谷は冷徹なる態度を保持したまま、ステージのほうを指し示した。
「では、みなさんが最善と思うタイミングで、どうぞ」
「いきなり全員ってのは、面白みがねえな。ダイとタツヤには、大トリをまかせるか」
リュウが漆原の背中を小突いて、ステージへと押し出していく。ユーリの歌声が響く中、こらえかねたように歓声がわきたった。
漆原は電子ピアノで、リュウは幻想的なエレキギターのサウンドで、『ハッピー☆ウェーブ』の演奏に参加する。それで、いっそうの彩りが加えられた。
「んー。この後も、どっしりした曲だもんな。あんまりはしゃがず、今のノリに合わせてやるか?」
「いや、むしろひっかき回してやったほうが、面白いんじゃね? どっしりが続くのも、つまんねえからよ」
子供のようにはしゃぎながら、ダイとタツヤもステージに出ていく。
そうして彼らが演奏に加わると、じわじわとテンポが上がっていき、最後には原曲と変わらないぐらいの賑やかさに成り果てた。
(なんの打ち合わせもしないでこんな真似ができるんだから、本当にすごいよなぁ)
瓜子が感服する中、『ハッピー☆ウェーブ』は終わりを迎える。
その後に披露されたのは、本来のセットリストであった『ワンド・ペイジ』の『終局』であった。
これは、ユーリの哀切なバラードを求める観客のために演奏されることになったカバー曲だ。本来の持ち曲であった『ネムレヌヨルニ』と『ホシノシタデ』は悲恋の曲であり、ユーリは感情移入するとメンタルを削られてしまうため、永久に封印されることになったのである。
今でも時おり忘れた頃に、そちらの二曲を惜しむ声があげられるようであるが――この『終局』には、そちらの二曲を補って余りある魅力が存在した。当然のこと、瓜子も涙を誘発させられるひとりである。
そしてその後に準備されていたのは、今回のカバーアルバムにおける最後の新曲、『ニードル』であった。
こちらはアレンジの異なるバージョンがシングルカットされており、MVの再生数も飛躍的に上昇している。数ある楽曲の中から選ばれただけあって、きわめて魅力的かつ刺激的な楽曲であった。
『ニードル』とは針を意味する単語であり、歌の中では人との絆を紡ぐ縫い針や、胸を刺す痛みの比喩、そして破滅をもたらす注射針の意味などで、複層的に使用されている。いささかならず不穏な内容を含む、希望と享楽と破滅をごちゃまぜにしたような世界観であった。
演奏もそれに相応しく、けばけばしい。リュウのギターはヘヴィメタルを基調にした超絶テクニックを駆使しており、漆原のピアノはひたすら狂騒的であった。
ただ、『ワンド・ペイジ』の三名が、そこに人間らしい生々しさを添加している。希望にも享楽にも破滅にもいっそうの熱がともなって、原曲以上のダイナミクスが生まれていた。
その中で、ユーリは力強く歌っている。
『Demolition』でも立証された通り、ユーリは破壊的な楽曲も得意にしているのだ。
また、希望や享楽に関しては、ユーリも思うさま感情を込めて歌うことができるのだろう。
破滅に関しては――そんなものは歯牙にもかけない強靭さがにじみ出ている。どれだけ破滅的な内容であっても、ユーリが歌うと前向きに聞こえるぐらいであった。
それが原曲の意図と合致しているのか、瓜子にはわからない。
しかし、『ニードル』を候補に挙げたのは漆原本人であったし、ユーリの歌がスタジオで初めて披露されたときにも、彼はとても満足げな顔をしていた。
(もともとのイメージとは関係なく、ユーリさんの魅力さえ引き出せればいいっていう考えなのかな)
漆原は、それぐらいクレバーでしたたかな人間であるはずだ。彼は自分の価値観を押し通すのではなく、自分の価値観すら手駒のひとつとして扱うような不敵さが感じられる。そういうところは、没入型の山寺博人と真逆の性質であった。
そういう対極的な才能が、ユーリの魅力を余すところなく引き出してくれるのだ。
山寺博人の熱情を正しく受け継いだ『終局』も、原曲とは異なるイメージに変質した『ニードル』も、『トライ・アングル』の楽曲としては優劣もないはずであった。
そうして人々は、『トライ・アングル』の魅力に熱狂し――二度目のアンコールでは『ハダカノメガミ』が披露されて、この日のステージは最後まで怒涛の勢いで過ぎ去っていったのだった。