03 前半戦
新曲の『Rush』を披露したのちは、立て続けにアップビートである『境界線』であった。
こちらは『トライ・アングル』の持ち曲の中でも、指折りの疾走感を誇る楽曲だ。また、『Rush』は『ワンド・ペイジ』、『境界線』は『ベイビー・アピール』の楽曲であったが、それを連続してもまったく違和感はなかった。
昔から定番曲であった『境界線』はもとより、新曲の『Rush』もすでに『トライ・アングル』の楽曲として昇華されているのだろう。だからこそ、『トライ・アングル』においてはカバー曲もオリジナル曲と変わらない人気を博しているのだった。
『今日はレコ発ライブというイベントですので、まずはアルバムに収録されている曲をばんばか披露しちゃいますねぇ』
まだのほほんとしているユーリの宣言とともに、三曲目が開始される。お次も『ベイビー・アピール』の楽曲で、漆原とのデュエット曲である『fly around』であった。
こちらはいくぶんねっとりとしたミドルテンポの楽曲であるが、魅力と迫力に変わりはない。そしてやっぱりユーリ独自の歌声が、『トライ・アングル』としての統一感に大きな役割を果たしていた。
そして四曲目には、ちょっとひさびさである『ジェリーフィッシュ』の元バージョンがお披露目される。
二台のドラムセットを持ち出せないステージにおいて、『ジェリーフィッシュ』はいつも転換の時間を埋めるためにアコースティックバージョンが活用されていたのだ。しかしこちらももともとは、他の楽曲と変わらないアレンジで演奏されていたのだった。
まあ、アコースティックバージョンでも最終的にはすべての演奏が重ねられるわけであるが、最初からすべての演奏陣が居揃っている元バージョンには独自の魅力が存在する。ぷかぷかとした浮遊感と海底に沈んでいく重苦しさの同居する、きわめて特異な楽曲でもあった。
さらに、山寺博人とのデュエット曲であるアップテンポの『カルデラ』で締めくくったならば、ユーリの第一幕は終了である。
すでに『トライ・アングル』は持ち曲だけでセットリストを組める状態にあったが、『ワンド・ペイジ』と『ベイビー・アピール』がおたがいの曲をカバーし合う時間は残されることになったのだ。そのために、ユーリの個人名義である三曲は本日封印されることになったのだった。
漆原が歌唱する『ワンド・ペイジ』のカバー曲を背中で聞きながら、瓜子はユーリを個人用の楽屋へと誘導する。
同性しかいない気安さで、ユーリはすぐさま下着姿にひんむかれて、純白の肌の汗をぬぐったのち、純白のワンピースに着替えさせられた。
大きなつばのあるフレアハットも準備したならば、大急ぎで舞台袖に逆戻りだ。カバー曲は、すでに終盤に差し掛かっていた。
そこに、意想外の人物が現れる。
それは、本日病欠するという連絡が入れられていた円城リマであった。
「あれ、リマさん? 身体のほうは、大丈夫なんですか?」
「うん。朝から頭痛がひどかったんだけど、やっと薬が効いてきたみたいでさぁ。そうしたら我慢できなくなって、駆けつけちゃったぁ」
長い黒髪で黒ずくめの格好をした円城リマは、普段通りの穏やかさでにこりと微笑む。どこにでもいそうな無個性な容姿だが、瞳だけが妙に澄みわたっている、不思議な女性であった。
「まだ半分は終わってないよねぇ? わたしもここで、見守らせていただくよぉ」
「はぁい。お楽しみいただけたら幸いですぅ」
かつて肖像画をプレゼントされた経験から、ユーリは円城リマのことを憎からず思っている。もちろん瓜子も、それは同様であった。
カバー曲の演奏が終了したため、ユーリは瓜子と拳をタッチさせてから、しゃなりしゃなりと入場していく。薄手のワンピースひとつで肢体の曲線美をあらわにしたユーリに、また大歓声が爆発した。
「ユーリさんは、相変わらずの人気だねぇ。まあ、それも当然の話だけどさぁ」
そのようにつぶやく円城リマとともに、瓜子は再びステージに見入った。
優雅に一礼したユーリが片足重心のけだるげなポーズを取ると、漆原が妖しいピアノの音を奏でる。ユーリがそこに歌詞のない囁くようなスキャットを重ねると、客席にはまた歓声が巻き起こり、すぐに静まりかえった。
ギターのハウリングとライドシンバルのかすかな振動を予兆として、激しく重々しいイントロが開始される。
第二幕の一曲目は、人気曲の『アルファロメオ』であった。
持ち曲の中で唯一、ユーリの妖艶さを前面に打ち出した、特別な楽曲だ。本日も、ユーリは別人のごとき悪女の色香で『アルファロメオ』を歌いあげた。
やはりこの曲は漆原がピアノの演奏を取り入れたことで、いっそうの魅力が上乗せされたのだろう。カバーアルバムの録音にあたっては全体的にアレンジが見直されて、以前にシングルのカップリング曲としてお披露目されたときよりも素晴らしい仕上がりになっていた。
そうして『アルファロメオ』の効果によってねっとりとした空気が蔓延したならば、次なる曲の『スノードロップ』によって一掃される。
ここにきて、ようやくオリジナル曲のお披露目である。どうやら『トライ・アングル』のメンバーは、まったく曲調の異なる『アルファロメオ』と『スノードロップ』を並べることに大きな愉悦を覚えているようであった。
『スノードロップ』は、おとぎ話のような哀切な雰囲気とオーケストラのような壮大さをあわせ持つ、これまた特別な楽曲である。
ユーリの純白に生まれ変わった姿にインスピレーションを受けた漆原が作りあげた、瓜子にとっても印象深い一曲だ。そしてユーリが純白のワンピースを纏うことで、『スノードロップ』にはさらなる魅力が加えられた。
同じワンピースの姿でありながら、ほんのつい先刻まで魔性の悪女であったユーリが、今は無垢なる天使であるかのようである。
もしかしたら、ユーリのこの驚くべき変容もまた、『トライ・アングル』のメンバーたちを魅了する一因であるのかもしれなかった。
(そうえいば……『アルファロメオ』の妖艶なイメージに白いワンピースを持ち込んだのは、リマさんだったっけ)
目だけはステージに釘付けにされたまま、瓜子はすぐ隣に立ち尽くす円城リマへと思いを馳せた。
根っからのアーティストである彼女は、ユーリの特異な個性や魅力の正しい理解者であるのだろう。彼女はユーリの本質を正しく見定めているからこそ、新たな魅力を引き出すこともできるのだろうと思われた。
そしてそれは、『トライ・アングル』の面々も同じことだ。
歌手としてのユーリの才能は、すべて彼らが引き出したものなのである。歌詞の世界にどっぷりと埋没できる感受性や、魂を振り絞るような熱唱など、すべては彼らが『トライ・アングル』の活動を続けていく中で発見したユーリの才能と魅力であったのだった。
だからこそ――の話であるのか、ユーリはいまだに自分が音楽の素人であると言い張っている。
ユーリはこれほどまでに魅力的であり、世界中で数多くのファンを魅了しているというのに、すべてはメンバーのおかげであると言い張って譲らないのだった。
(まあ……あたしにとっては、ラッキーな話なんだろうけどな)
もしもユーリの中で、音楽と格闘技が同等の存在であったならば――格闘技の世界で生きることをあきらめていたかもしれないのだ。
もちろん瓜子は何があろうともユーリの気持ちを最優先にする覚悟であるが、それでもやっぱりユーリが格闘技の世界から引退してしまうというのは半身をもがれるような思いであったのだった。
(そんな風に考えるあたしのほうこそ、とんでもないエゴイストなのかな)
音楽活動に専念すれば、ユーリの生命が危険に見舞われることもない。それを思えば、ユーリが格闘技に執着することを嘆くべきなのであろう。
ただ――それはおそらく、話の順番が違っていた。
ユーリは格闘技にすべてを捧げているからこそ、あんな意味のわからない現象に見舞われてしまうのだ。もしもユーリにとっての音楽が格闘技と同等の存在であったのならば、ステージの直後に心肺停止してもおかしくはないはずであった。
ユーリがそれぐらい組闘技に身命を捧げているからこそ、瓜子は同じ道を進みたいと願っているのだ。
そして、格闘技を続けたいと願うユーリのことを、迷うことなく後押しすることができる。ユーリの願いと瓜子の願いが根本の部分で一致しているからこそ、瓜子はどんな不安も押し潰して、ユーリと同じ未来を望むことがかなうのだった。
瓜子がそんな思いにひたっている間に、『スノードロップ』はエンディングを迎える。
気づけば瓜子は、顔中を涙に濡らしてしまっていた。
そしてその後に続くのは、『ワンド・ペイジ』のカバー曲である『砂の雨』と、オリジナル曲である『ピース』であり――よりにもよって、瓜子の涙腺を決壊させるナンバーの連続であった。
ステージで熱唱するユーリもまた、滂沱たる涙を流している。
とりわけ『ピース』は、ユーリが瓜子と出会えた喜びを歌うかのような歌詞であるのだ。そうしてともに涙を流していると、瓜子はステージ上のユーリとしっかり手をつないでいるような一体感に見舞われるのが常であった。
そして次には疾走感の権化である『burst open』でもってしんみりとした空気を粉砕して、ユーリは舞台袖に舞い戻ってくる。
目もとを赤くしたユーリは意味もなく瓜子の頬をつついてから、「にゃはは」と笑った。
「それでは、お召し替えをお願いいたします」
情緒もへったくれもない千駄ヶ谷にうながされて、瓜子とユーリはまた楽屋へと移動する。
二時間超の長いステージも、気づけば折り返し地点を過ぎていた。
しかし瓜子は、すでに数ヶ月分の感動を味わわされた気分でいる。これで最後まで心がもつのかと、いささか心配なところであったが――主役のユーリがへたばる前に、泣き言を述べるいとまはなかったのだった。