02 開幕
膨大な数のサインを仕上げた『トライ・アングル』は、いよいよ開幕の瞬間に備えて準備を整えることになった。
ユーリと瓜子はいったん大部屋の楽屋を出て、個人用の楽屋に移動する。そちらで待ち受けていたのは、衣装係の女性スタッフであった。
ユーリはライブにおいてリップ以外のメイクとヘアメイクを取りやめることになったので、本日の個人的なスタッフは彼女ただひとりである。その手によって、ユーリの身が飾りたてられることに相成った。
本日は二時間強のステージを予定しているワンマンライブであるため、ステージ衣装は三種類も準備されている。その第一弾は、恒例のモッズスーツであった。
カラーリングは限りなくブラックに近いシルバーで、スポットを浴びると鈍色に輝くことが、これまでの撮影の現場で明かされている。内に着込んだシャツはまじりけのないブラックで、ネクタイはホワイトだ。通常の照明の下ではシックに見えるカラーリングであるが、こちらの品もオーダーメイドであるためユーリの超絶的なプロポーションが何よりの彩りになっていた。
みんなとおそろいのステージ衣装を準備されてご機嫌のユーリは、自らの手でリップを施す。そちらのカラーリングは、前髪のひとふさに合わせた明るいピンクだ。そうしてスーツと同色の中折れハットをかぶれば、準備も万端であった。
大部屋の楽屋に舞い戻ると、他なるメンバーたちも同じ衣装に身を包んでいる。オープニングではジャケットの着用が義務づけられているため、山寺博人は窮屈そうに襟もとをいじっていた。
「みなさん、準備は整ったようですね」
と、どこからともなく出現した千駄ヶ谷が、そのように声をあげた。
「開場の時間となりましたため、開演まではあと三十分です。どうぞそれまで、ゆっくりおすごしください」
「千駄ヶ谷さんこそ、お疲れだったねぇ。もう雑用は終わったのかぁい?」
漆原がにこやかな面持ちですりよると、千駄ヶ谷は「ええ」と冷徹なる眼差しを返した。
「こちらも、万事整いました。ですが、ステージの終了まで気を抜くことは許されません」
「それじゃあ楽しいおしゃべりは、打ち上げのお楽しみかぁ」
「失礼しました。私はユーリ選手のマネージャーとして、打ち上げの終わりまで気を抜くことが許されないと訂正いたします」
「もう、今日も今日とて、つれねえなぁ。まあ、それでこそ千駄ヶ谷さんだけどよぉ」
こんな何年にもわたって千駄ヶ谷に執着するというのは、大変な熱情であろう。しかし漆原はこんな際にも飄々としているので、その胸にどれだけの熱情が渦巻いているのかはまったく判然としなかった。
ともあれ、あとは本番の刻限を待つばかりである。
『トライ・アングル』のメンバーに気合や緊張を表に出す人間は皆無であるため、楽屋のなごやかさに変わりはない。陣内征生はしきりに目を泳がせているが、それも普段のことであるのだ。リハーサルを拝見した限り、誰もが絶好調であるはずであった。
「そういえば、今日は久子ちゃんたちも挨拶に来ないんだよな。まあ、打ち上げをご一緒できれば、文句はないけどよ」
「はい。今日はいつも以上に大人数なので、事前の挨拶はご遠慮するって話でしたね。打ち上げに呼んでもらえるだけでありがたいって、みなさん喜んでましたよ」
「ふうん? そんなに大人数だったっけ?」
「ええ。今回はいつものフルメンバーに、赤星道場のお二人と名古屋のお二人まで加わってますからね。過去最大の人数のはずです」
赤星道場の二人とは、マリア選手と二階堂ルミである。二階堂ルミは自力でチケットを取ろうとしたが落選したため、こちらの招待客の枠にもぐりこむことになったのだ。マリア選手は二階堂ルミの熱烈なアピールに負けて、初めて『トライ・アングル』のライブに足を運ぶことになったのだった。
いっぽう名古屋の浅香選手は、自力でチケットを取ることに成功したらしい。今回は東京で一回きりのライブであったため、新幹線を使ってまで観戦におもむいてくれるのだ。相棒はかつて名古屋のライブでお目見えした、柔術道場ジャグアルの道場主の娘さんである。
そして今回は全席指定のホール会場であるため、まだ少し身体が不自由な理央もサキともどもやってくることになった。オーストラリアに帰国していたオリビア選手も日本に戻ってきていたし、小笠原選手も明後日からの合同稽古に備えて上京していたので、まごうことなきフルメンバーであった。
きっとみんな、来たるべき大晦日に向けての景気づけという思いもあるのだろう。
週明けからは過酷な合同稽古が開始されるため、これが最後の遊楽であるという意識もあるのかもしれなかった。
「それでは、移動いたしましょう」
やがて三十分ていどが経過すると、千駄ヶ谷の号令で舞台袖に移動することになった。
千駄ヶ谷はいつも通りのスーツ姿であるが、瓜子はもちろん『トライ・アングル』の物販Tシャツだ。山寺博人の秘密の伴侶たる円城リマがアートデザインした品であり、『Selfish』というアルバム名とメンバー八名のシルエットが奇怪な紋様のように渦を巻く、彼女にしては写実的ならぬデザインであった。
舞台袖に到着しても、メンバーたちの様子に変わりはない。
ユーリはひとり、笑顔でウォームアップだ。激しいライブパフォーマンスを想定したストレッチ素材のスーツであるため、ユーリがどれだけ肢体をくねらせても破裂することはなかった。
「六時半、開演時間となりました。どういたしますか?」
「もったいぶる必要はねえだろうさぁ。ただでさえ、数ヶ月ぶりのライブなんだからよぉ」
漆原は飄然と言いながら、細長い右腕を面倒くさそうに持ち上げた。
「じゃ、『トライ・アングル』としては、今年のラストライブだぁ。気合を入れていこうぜぇ」
『ベイビー・アピール』のメンバーがやる気のない声で「おー」と応じて、ユーリは「はーい!」と両腕を振り上げる。何もかもが、いつも通りの『トライ・アングル』であった。
こちらの会場には幕が存在するため、メンバーたちは遠慮なく薄明るいステージに踏み込んでいく。
そんな中、ユーリは瓜子に向きなおってきた。
「頑張ってください。ここで見守ってますよ」
ユーリは「うん」と天使のように微笑みながら、白い拳を差し出してくる。
瓜子がそこに自分の拳を押し当てると、ユーリは幸せそうに目を細めて身をひるがえした。
幕一枚で客席と隔てられたステージで、メンバーはそれぞれの楽器を抱えあげる。オープニングナンバーはツインドラムの編成であるため、西岡桔平とダイは左右に配置されたドラムセットに陣取っていた。
山寺博人はエレアコギター、リュウはエレキギター、漆原は電子ピアノ――ここ最近では、それが主流の編成である。アップライトベースの陣内征生とエレキベースのタツヤは、最初から最後まで同じ役割であった。
楽器を使用しないユーリはステージの中央に配置されたマイクスタンドの前で、天井を見上げている。
普段は一曲目のイントロで乱入する演出であるため、ユーリが最初からステージに陣取っている姿が新鮮だ。
すべてのセッティングが整えられたならば、客席の照明が落とされて、歓声が爆発する。
そんな中、ダイの合図ですべての楽器が鳴らされて、ベージュ色の幕がするすると開かれていくと、さらなる歓声が渦を巻いた。
『こんばんはぁ。おひさしぶりの、「トライ・アングル」でぇす』
ユーリがゆるんだ笑顔で手を振ると、歓声が津波のようにうねりをあげる。
そして、それを断ち切るように、ダイがシンバルで勢いのあるカウントを打ち鳴らした。
無秩序に鳴らされていた七つの楽器が、ひとつの巨大なうねりと変ずる。
それと同時に、瓜子の背筋が粟立った。いつもこの瞬間には、リハーサルとも比較にならない迫力に心を震わされてしまうのだった。
しかも、本日のオープニングナンバーは――瓜子が入場曲として使用している、『ワンド・ペイジ』の『Rush』であった。
『トライ・アングル』はカバーアルバムをリリースするにあたって、三曲もの新曲を準備した。その一曲が、この『Rush』である。
当初、『Rush』は新曲の候補にあげられていなかった。
歌のキーはユーリに合っていないし、歌詞の内容もユーリが感情移入できるタイプのものではなかったためだ。
「でもさぁ、こいつは瓜子ちゃんの定番曲なんだろぉ? だったら、瓜子ちゃんに対する思い入れが炸裂するんじゃね?」
漆原のそんなひと言で、『Rush』は候補曲にのしあがり――そして、あれよあれよという間に本採用されてしまったわけであった。
「この曲を聴くとうり坊ちゃんの勇姿を思い出して、わくわくが止まらないのです! ……でもでも、うり坊ちゃんの大切な曲をユーリなんぞが歌ってしまうのは、申し訳なさのキョクチなのですぅ」
「そんなことないっすよ。ユーリさんのおかげで、いっそうこの曲が好きになりました」
瓜子がそのようにフォローすると、ユーリもずいぶんほっとした顔を見せていたものであった。
そうして完成された『トライ・アングル』バージョンの『Rush』は、申し分ない出来栄えである。
歌に合わせてキーを変更したためにいくぶん雰囲気は違っているものの、そもそも『ベイビー・アピール』のメンバーが演奏に加わっている時点で完全に別物であった。
漆原のピアノとリュウのギターは原曲に存在しないきらびやかさを、ダイのドラムとタツヤのベースは戦車が突進するような迫力を添加している。そして、リュウにエレキギターを譲った山寺博人はエレアコギターでもってさらなる生々しさを、低音の支えをタツヤに任せた陣内征生は誰よりも優美な雰囲気を加算させていたし、基本のビートをダイに託した西岡桔平は、随所でタムやシンバルの細かいリズムを入れて、原曲以上の躍動感を現出させていた。
七名の演奏が、『Rush』の新たな魅力を引き出している。
その上で、ユーリがユーリならではの歌声を振り絞っているのだ。それで、瓜子が文句をつけるいわれはなかった。
『Rush』の歌詞はひときわ抽象的であるため、きっとユーリはまったく感情移入できていないに違いない。
しかしユーリは、凄まじいまでのパワーと熱情を発散させていた。おそらくは本人や漆原が語っていた通り、瓜子に対する思い入れが噴出しているのである。
瓜子とて、ユーリの試合ではいつも入場の段階から胸を高鳴らせている。
きっとユーリもそれは同様であり、そしてそのときの期待や昂揚が『Rush』の歌唱の原動力になっているのだ。
ユーリは瓜子の入場するさまを思い出しながら、熱唱しているのだろうか。
そんな風に考えると、実に気恥ずかしい心地であったが――しかしそれよりも、瓜子は目の前のステージの迫力に圧倒されていた。
今日のスーツはスポットの光を反射させる素材であるが、それとは関係なくユーリそのものが――そして、メンバー全員が光り輝いているかのようである。
ユーリの歌声を先頭に立たせたすべての音が、瓜子の心を激しく揺さぶっている。まだステージは始まったばかりであるのに、瓜子はもう涙ぐんでしまいそうだった。
きっと客席の人々も、瓜子と同じ感動に身をゆだねているのだろう。
演奏中には歓声も聞こえないし、舞台袖からは客席の様子をうかがうことも難しかったが、瓜子がその事実を疑う気持ちにはなれなかった。