インターバル マッチメイクと合同稽古
《アトミック・ガールズ》十一月大会の三日後――十一月の第三水曜日である。
その日は撮影の副業があったため、瓜子たちがプレスマン道場におもむいたのは夕刻になってからのことであった。
この週末には『トライ・アングル』のカバーアルバムがリリースされて、同時にレコ発ライブというイベントも企画されている。それが大晦日に控えた大一番の前の、最後の大仕事になることだろう。
しかしアルバムのプロモーションに関しては他のメンバーたちが担ってくれていたため、ユーリにはステージで歌う他に為すべき仕事もない。本日の業務も『トライ・アングル』とは関係なく、千駄ヶ谷が厳選したグラビア撮影のひとつである。そこに巻き込まれた瓜子は、精神的に疲弊していた。
「もう秋も終わるっていうのに、いつまで水着姿をさらさなきゃいけないんすかね。もうちょっと、季節感ってもんを大事にしてほしいっすよ」
「にゃはは。どんなに寒い季節でもうり坊ちゃんの水着姿を満喫できて、ユーリは眼福の至りなのですぅ」
そんな間抜けな会話を交わしながら道場に踏み込むと、男子門下生の面倒を見ていた柳原が小走りで近づいてきた。
「お疲れさん。大晦日のマッチメイクが、ようやく決定したんだよ。奥に立松さんがいるから、着替える前に話を聞いてくれ」
「押忍。承知しました。……でも、ヤナさんはどうして血相を変えてるんすか? まさか、ユーリさんのマッチメイクに変更があったわけじゃないっすよね?」
「そっちは、問題ないよ。問題なのは、猪狩のほうだ。いや、問題とかいう話じゃないんだが……とにかくこいつはまだ部外秘だから、立松さんにじっくり聞いてくれ」
それだけ言い残して、柳原は稽古の場に戻っていく。
瓜子はユーリと顔を見合わせてから、扉の向こう側にある奥側の稽古場へと歩を進めることになった。
「お、来たか。とりあえず、事務室に来い」
立松もまた、緊迫の思いをあらわにしている。そうして瓜子たちはすでに稽古を始めている愛音たちに挨拶をする間もなく、事務所に引っ立てられることに相成った。
「さっき、わざわざ駒形さんがこいつを届けてくれたんだ。まだ何人かの選手にオファーをかけてる最中だから、運営の許可が下りるまでは絶対の部外秘だとよ」
と、立松はデスクの鍵つきの引き出しから、一枚のクリアファイルを引っ張り出した。
その内側には、薄っぺらい書類が封入されている。そして表紙には『B×J×A 対戦予定リスト』の見出しと『部外秘』の赤い刻印が記されていた。
『B×J×A』とは、合同イベントの正式タイトルである。何か大仰な言葉が引っ張り出されることなく、各団体の頭文字が並べられることになったのだ。
「何せ三団体の合同イベントだから、駒形さんも気を張ってるんだろう。口で説明するのは面倒なんで、お前さんがたも目を通してくれ。ただし、くれぐれも口外法度だからな?」
「押忍。でも、それなら自分の対戦相手だけおうかがいすればいいんじゃないっすか?」
「出稽古で顔をあわせる連中とは、秘密を共有しなくちゃならんからな。灰原さんが騒ぐようだったら、お前さんがたもストッパー役を担ってくれ」
「それじゃあ、灰原選手もオファーされたんすね」
そんな期待を胸に、瓜子はその書類を受け取って――そして、愕然と身を震わせることになった。
表紙をめくって次の書面には、選手の氏名がずらりと列記されている。そして、自分の名前の隣に記載されている名に、瓜子は心から驚嘆させられたのだった。
ムーチェン・ワン vs サキ
ゾエ・フェレイラ vs 魅々香
ミンユー・ワン vs まじかる☆まりりん
パット・アップルビー vs 青田ナナ
イーハン・ウー vs オルガ・イグナーチェヴァ
レベッカ・ジア・タン vs 高橋道子
フアナ・オロスコ vs グウェンドリン・タン
イヴォンヌ・デラクルス vs バニーQ
アメリア・テイラー vs エイミー・アマド
メイ・キャドバリー vs 猪狩瓜子
ベリーニャ・ジルベルト vs ユーリ・ピーチ=ストーム
ガブリエラ・ドス・サントス vs 赤星弥生子
それが、内容のすべてである。
瓜子は心臓がどくどくと脈打つのを感じながら、立松のほうに向きなおった。
「じ、自分の対戦相手は、メイさんなんすね。でも……どうしてっすか?」
「それに関しては、篠江会長もご立腹だったよ。やっぱりプレスマン道場はベリーニャ選手に肩入れしたことで、《アクセル・ファイト》の運営どもに嫌がらせをされてるんだろうってな」
立松は仏頂面で、ごつい下顎を指先でかいた。
「これは会長やレムさんの推論だから、何も確証のある話じゃないが……まず、同門対決ってのは、そんなに普通の話じゃない。ベルトをかけたタイトルマッチだって、同門の選手は最後の最後まで後回しにされるもんだしな。それをこんな突発的なイベントで、あまたある選手の中から同門対決をチョイスするなんざ、ま、腹に一物を抱えてるとしか思えねえわな」
「……プレスマン道場に嫌がらせをするために、同門対決を組んだってことっすか?」
「あと、もう一点。メイさんは、お前さんに連敗してるだろ? だから、たとえメイさんがここで負けたとしても、選手個人の相性ってことで、《アクセル・ファイト》の看板に傷はつかないって寸法だ。お前さんは《アクセル・ファイト》との契約を蹴って《ビギニング》を選んだから、なるべく高く評価されたくないってこったな」
「……ずいぶん、せせこましい話っすね」
そのように応じながら、瓜子は体内からせりあがってくる激情に負けて、笑ってしまった。
「でも、こんな大舞台でメイさんと対戦できるなんて、自分にとっては願ってもない話っすよ。だから、心配には及びません」
「ああ。お前さんなら、そう言うと思ってたよ」
と、立松も仏頂面を取りやめて、ふてぶてしい笑みを浮かべた。
「ついでに言っとくと、篠江会長には宣戦布告されちまったぞ。たとえ同門でも試合でぶつかったら本気でやりあうのが、うちの流儀だからな。ついでに言うと、会長もフロリダで面倒を見てる間に、メイさんの魅力にまいっちまったんだろう。《アクセル・ファイト》の思惑ごとお前さんをぶっ潰してやるから、せいぜい覚悟しておけとさ」
「あはは。篠江会長がそんなにメイさんに肩入れしてくれるなら、自分は嬉しいぐらいっすよ」
「ああ。あっちだって、がっちりチームを組んで稽古を積んでくるだろうからな。こっちも、全力でお相手するだけだ」
瓜子は「押忍」とうなずいてから、ユーリのほうに向きなおる。
するとユーリは、どこかしんみりした趣で微笑んでいた。
「ユーリがベル様と対戦する日に、うり坊ちゃんはメイちゃまと対戦するんだねぇ。ユーリばっかり幸せなのは申し訳ない心地だったから、ユーリも嬉しいよぉ」
「押忍。ありがとうございます」
瓜子はユーリに心からの笑顔を返してから、あらためて書面に視線を落とした。
「それにしても、他のカードも素通りできないっすね。エイミー選手に続いて、グウェンドリン選手もエントリーされてますし……このオルガ・イグナーチェヴァって、あのオルガ選手のことっすよね?」
「ああ。オルガ選手も《アクセル・ファイト》の地方大会で、連勝してるからな。そろそろ正式契約じゃないかって評判だったんだよ」
そんなオルガ選手が、シンガポールのイーハン選手と対戦するのである。瓜子たちがまったく異なる場所で出会った両名が対戦するなどとは、なかなかに奇妙な心地であった。
「それでもオルガ選手は、《アクセル・ファイト》陣営の中で一番の下っ端って扱いなんだろう。何せ、他の連中はのきなみランカーなんだからな」
「ええと……グウェンドリン選手と対戦するフアナ選手ってのは、この前メイさんと対戦してたお人っすよね。自分が知らないのは、魅々香選手と対戦するゾエ選手ぐらいみたいです」
「ゾエ・フェレイラは、フライ級の第七位だ。メイさんがストロー級の八位で、フアナ選手が九位――で、なんとバンタム級は王者のベリーニャを筆頭に、トップランカーが勢ぞろいって顔ぶれだ」
《アクセル・ファイト》の女子バンタム級は、アメリア選手が第一位、パット選手が第二位、ガブリエラ選手が第四位であったはずだ。確かに他の階級とは比較にならない偏向っぷりであった。
「おそらく《アクセル・ファイト》は、そこで威信を見せつけようって魂胆なんだろう。軽い階級はアジア陣営に譲ってもかまわないが、最重量のバンタムだけは圧倒してやろうって意気込みが透けて見えてやがるぜ」
「押忍。みなさん、正念場っすね」
赤星弥生子が対戦するのは、ガブリエラ選手――直近のタイトルマッチではベリーニャ選手に秒殺されてしまったが、野獣のごとき殺気と生命力を放つ恐ろしげなファイターだ。
そして、かつての絶対王者であったアメリア選手を相手取るのはエイミー選手で、それに次ぐ実力と称されるパット選手は青田ナナである。まったくもって、容赦のないマッチメイクであった。
「しかし、アメリアとの対戦をエイミーさんに任せたのは、スチットさんの英断だな。エイミーさんはのぼり調子だから、アメリアにも後れを取ることはないって判断したんだろう」
「押忍。それに、レベッカ選手やイヴォンヌ選手を相手取る高橋選手と灰原選手も、同じぐらいの正念場っすよね。あと、サキさんと対戦するムーチェン選手っていうのも、アトム級の前王者っすよね?」
「ああ。正直に言って、日本人選手が全敗してもおかしくないようなマッチメイクだろう。……そいつをひっくり返すのが、俺たちの役割なわけだな」
そう言って、立松はいっそう不敵に笑った。
「まあ、俺たちが手を貸せるのは、出稽古で顔を見せる連中だけだが……お前さんがたにサキ、灰原さんに高橋さんで、五人もいるわけだからな。いっそう気合が入るってもんだ」
「押忍。大晦日が、ますます楽しみになってきたっすね」
瓜子がそのように答えたとき、デスクの電話が鳴り響いた。
その液晶ディスプレイを覗き込んだ立松は、「おっ」と声をあげる。
「鞠山さんだ。メールじゃなく電話ってのは、珍しいな。きっとこのイベントに関わる話だろうから、出るぞ」
瓜子とユーリをその場に待たせて、立松は受話器を取り上げる。
そうして言葉を交わすうちに、立松は「へえ」と目を光らせた。
「そいつは、願ってもない話だが……でも、いいのかい? そっちにはそっちのスケジュールってもんがあるんだろう?」
何か、有意義な会話を交わしているようである。
そうして立松は長からぬ通話を終えて、瓜子たちに向きなおってきた。
「鞠山さんと御堂さんも、出稽古に参加したいとよ。で、このプレスマン道場を拠点にして、簡易的なキャンプを張りたいんだそうだ」
「キャンプ? それって、合宿稽古の表現じゃありませんでしたっけ?」
「今さら泊まり込む場所を確保するのはひと苦労だし、トレーナー陣はそうそう手も空かないからな。だから、通いの出稽古の形態を取りつつ、この一大イベントに参戦する選手同士で仮想キャンプを張りたいんだとよ。それでもって、赤星の連中にも声をかけたいらしい」
「赤星道場もっすか。あちらこそ、出稽古には興味なさそうっすけど……」
「しかし、ナナ坊が対戦するパット選手は、桃園さんとやりあってるんだ。門下生思いの弥生子ちゃんだったら、少しばかりは心を動かされるかもな」
そんな風に言ってから、立松はにやりと笑った。
「それでもって、話が前後しちまうが……実は今回の大会に向けて、ユニオンのお人らを預かる予定だったんだよ」
「えっ! グウェンドリン選手たちが、またプレスマン道場に来てくれるんすか?」
「ああ。シンガポールではさんざんお世話になったから、今度はこっちで最終調整の場をお貸しするって寸法だ。そういう話なら、こっちも卯月で慣れっこだからな」
卯月選手が日本の試合に参戦する際は、いつもプレスマン道場で最終調整に取り組んでいたのだ。形式としては、朝から夕方までを貸し切りにして部外者の出入りを禁じるというものであった。
「で、ユニオンのお人らは二週間の調整期間だけじゃなく、十二月の頭からお邪魔したいって話だった。きっと鞠山さんも、その話を知った上でこんな提案をしてきたんだろう。可能なら、来週の週明けから合同稽古の場を作ってほしいって提案だったんだ」
「なんだか、すごいっすね。その提案を受け入れるんすか?」
「ああ。赤星の連中は未定だが、他のメンツだけでも十分な顔ぶれだろう。ただ、お前さんがたこそ、どうなんだ? そのスケジュールだと日中の稽古がメインってことになるが、副業のほうは大丈夫なのか?」
「押忍。千駄ヶ谷さんも、このイベントの重要性はわかってくれてますからね。今週末のライブを終えた後は、どの仕事も限界いっぱいまで絞ってくれたんです。それでも週に一、二回は、撮影の仕事が入ってましたけど……夜にずらしたりはできないもんか、相談してみます」
「よし。それじゃあ、そのセンで――」
立松がそのように言いかけたとき、事務室のドアがノックされた。
顔を出したのは、柳原である。
「あの、立松さん。出稽古に参加したいって人らがいきなり訪ねてきたんですけど……どうします?」
「うん? 鞠山さんと御堂さんだったら、いま連絡をもらったところだぞ」
「え? 御堂さんたちも、出稽古に来てくれるんですか?」
かつて魅々香選手に恋心めいたものを抱いていた柳原は、たちまち顔を赤らめた。
「あ、でも、御堂さんたちじゃなくって……ギガント・ジムのお人らなんですよ。立松さんたちは、シンガポールで面識があるんでしょう?」
シンガポールで面識を得たギガント・ジムの関係者といえば、あの両名しか思いつかない。それで瓜子たちが事務室を出ると、予想通りの両名が居揃っていた。
「瓜子ちゃん、おひさしぶりぃ。いきなり訪ねてきちゃって、ごめんねぇ」
セミロングの髪を明るく染めた横嶋選手が、ひらひらと手を振ってくる。
その隣で、巾木選手は仏頂面をさらしていた。どちらもラフな格好で、大きなボストンバッグを抱えた姿である。
「お、お二人とも、どうしたんすか? 出稽古に参加したいって……お二人が?」
「そうだよぉ。なんか、巾木さんもすっかり瓜子ちゃんたちの魅力にまいっちゃったみたいでさぁ」
巾木選手は仏頂面のまま、「せからしか」と言い捨てた。
そんな両名の姿を、立松は興味深げに見比べる。
「巾木さんは、今でも鹿児島のジムに所属してるんだろう? わざわざ出稽古のために、東京まで出向いてきたのかい?」
「そうですよぉ。ほら、わたしたちは《ビギニング》で結果を出せなかったじゃないですかぁ? それでひとまずリリースって形になっちゃったから、軽く人生の迷子なんですよねぇ」
にこにこと笑いながら、横嶋選手のほうが言いつのった。
「《パルテノン》に出戻るにしても、他のプロモーションに挑戦するにしても、もうひと皮剥いておく必要がありますからねぇ。だったらここは恥を忍んで、チーム・プレスマンに仲間入りさせていただこうって画策した次第でぇす」
「それはそれは、だな。……もしかして、そちらさんもユニオンの件を耳にしたのかい?」
「ユニオンの件?」と、横嶋選手は小首を傾げた。
「ああ、もしかしたらユニオンの人たちも、プレスマンで最終調整するんですかぁ? そういえば、夏にも自腹で出稽古に来てたって話ですもんねぇ」
「なるほど。そっちとは関係なしに、自主的に出向いてきたってわけか。やっぱりお前さんがたも、なかなかに腹をくくってるみたいだな」
そう言って、立松はまた不敵に笑った。
「承知したよ。お前さんがたなら、実力に不足はないだろう。来週以降に関しては他のメンバーとも相談させていただくんで、今日は自由にやってくんな」
「ありがとうございまぁす。瓜子ちゃんにユーリさん、どうぞよろしくねぇ」
瓜子は心を偽ることなく、「押忍」と笑顔を返した。
こちらの両名の実力は、《アトミック・ガールズ》の王者クラスと遜色ないのである。そして、彼女たちにはそれぞれ独自のストロングポイントが存在するのだった。
この顔ぶれに鞠山選手たちや赤星道場の面々、さらにユニオンMMAの面々まで加わったら、とてつもない相乗効果を期待できるかもしれない。
そして――瓜子はメイと、ユーリはベリーニャ選手との大一番に望むのだ。
その運命の瞬間まで、残すところはひと月と少し――瓜子の胸は、否応なく高鳴ってやまなかったのだった。