03 前半戦
「このシアイがオわったら、ウォームアップをサイカイしようかー」
ジョンがそのように告げてくると、愛音は気合のこもった声で「押忍なのです!」と応じた。
愛音の出番は第七試合で、次の試合は第三試合だ。
その内容は、大江山すみれと濱田選手の一戦である。同世代のライバルの登場に、愛音はいっそうの気合をみなぎらせた。
濱田選手は、アトム級の新鋭に蹂躙されたトップファイターのひとりである。愛音自身、早い段階で濱田選手に勝利していた。
それでも彼女は、かつて雅としのぎを削っていた元王者である。アトム級の中では、卓越した頑強さを持つ選手であった。
しかし大江山すみれも、日々成長を果たしている。彼女はプロに昇格して以来、いまだ犬飼京菜にしか敗北していないのだ。番付をつけるならば、王者のサキと犬飼京菜に次ぐ三番手であるはずであった。
(次の王座挑戦の筆頭は、きっと大江山さんだろう。ここは絶対に、負けられないな)
そんな思いでもって、瓜子はモニターを見守っていたが――試合は、呆気なく終了した。濱田選手が序盤から突進を見せると、大江山すみれはカウンターの右アッパー一発で眠らせてしまったのだった。
客席は、興奮の坩堝である。
三代前とはいえ元王者が、秒殺でKOされてしまったのだ。愛音などは、もう気合が高まる余りにそのまま蒸発してしまいそうな勢いであった。
そうして勝利者インタビューが開始されると、大江山すみれは内心の知れない笑顔で王座への挑戦を表明する。ただその前に、連敗を喫している犬飼京菜にリベンジしたいとアピールしていた。
『大江山選手が次に対戦するのは、王者たるサキ選手か! あるいは、ナンバーツーの犬飼選手か! わたしも刮目して、見守らせていただきます!』
そんな具合に勝利者インタビューが締めくくられると、意識を取り戻した濱田選手が覚束ない足取りで進み出てきた。
まずは大江山すみれと握手を交わして勝利を祝福し、それからリングアナウンサーのほうに向きなおる。リングアナウンサーは、どこか優しげな眼差しで濱田選手にマイクを差し出した。
『……本日は、ご来場ありがとうございます。大江山選手は、素晴らしいファイターでした。……わたしは彼女たちに《アトミック・ガールズ》の未来を託して、選手活動を引退させていただきます』
厳つい顔に滂沱たる涙をこぼしながら、濱田選手はそう宣言した。
客席には、温かい拍手が巻き起こっている。ここ最近は敗戦が続いていたが、濱田選手もまた《アトミック・ガールズ》を支えてきた屋台骨の一本であったのだった。
かつてのライバルであった雅が引退した後も、濱田選手は踏ん張ってきた。そうしてサキや愛音たちに敗北を喫して――この決断に至ったのである。
(引退試合が、秒殺のKO負けか……あたしもそれぐらい、ぎりぎりまで頑張りたいな)
そんな思いを込めて、瓜子もモニターに拍手を送った。
そして濱田選手が控え室に戻ったのちも、あらためて拍手を送る。控え室は、拍手とねぎらいの言葉で満たされることになった。
濱田選手は怒っているかのような顔で涙をこぼしながら、深々と頭を下げる。
そして、愛音のほうに近づいてくると、その肩をごつんと強めに小突いた。
さらに、ウォームアップの手を止めて見守っていた小柴選手にも同じ所作を見せ、ベンチシートで寝転がっていたサキのもとにも歩を進める。サキが面倒くさそうに手を振ると、濱田選手は無言のままその手をぴしゃりと引っぱたいた。
濱田選手は、誰に対しても無言である。
しかしその行動に、すべての思いが込められていた。彼女はアトム級の若き精鋭たちに、後事を託したのだ。
そうして控え室の奥に引っ込んでいく道行きでは雅とすれ違ったが、その際にはおたがい目を合わせようともしない。
おそらくは、湿っぽいことを好まないという意味で、意見が合致したのだろう。雅は薄ら笑いをたたえたまま、ずっとそっぽを向いていた。
またひとつ、時代が終焉を遂げたのだ。
これからは、若い世代がアトム級を盛り上げていくのだろう。サキたちであれば、決して濱田選手を失望させないはずであった。
そんな中、モニターでは第四試合が開始されている。
柔術道場ジャグアルの香田選手とバイソンMMAの時任選手の一戦である。
香田選手はバンタム級から階級を落とし、二名の中堅選手を下したことで実力を示した。
いっぽう時任選手はストロー級から階級を上げて、いまやトップファイターの一翼と見なされている。よってこれは、香田選手の実力をさらに測るための一戦であるはずであった。
時任選手はのらりくらりと相手の攻撃を受け流して、判定勝利をものにする手腕に長けている。
対して、香田選手は浅香選手以上に豪快な打撃技を売りにしており、判定まで勝負がもつれこんだことはほとんどない。香田選手の突進力と時任選手の対応力のどちらがまさるか、そういう勝負になりそうであった。
「さー、これはどうだろうねー! トキトンはなかなかのやり手だけど、真央っちの突進力はハンパないからなー!」
灰原選手のはしゃいだ声を聞きながら、瓜子はウォームアップを開始した愛音のサポートである。ただし、チーフのジョンがいる以上、瓜子やユーリにさしたる仕事は残されていなかった。
それでちらちらとモニターのほうをうかがっていると、序盤は時任選手がペースをつかんでいるように見受けられた。香田選手の突進力は人間戦車と呼ぶに相応しい迫力であるが、時任選手はそれすらも上手に受け流しているようであった。
(これはやっぱり、ベテランとしての風格だよな)
時任選手は黄金世代であり、かつては亜藤選手や山垣選手たちとしのぎを削っていたのだ。さらに、フライ級に階級を上げたのちも、オリビア選手、多賀崎選手、マリア選手と、並み居る強豪にぶつけられながら、立派な戦績を築いていたのだった。
いっぽう香田選手は、瓜子と大差ない若手の選手だ。
プロに昇格したのは瓜子よりも年単位で遅いぐらいであるし、これだけの力をつけた現在でも発展途上という印象がぬぐえなかった。
ただ裏を返すと、それは大きなポテンシャルが秘められているということである。
低い背丈でとてつもない筋肉量を有している香田選手はパワーとスピードに秀でており、柔術は茶帯の力量であるのだ。何せもともとは無差別級であったのだから、フィジカルに関してはフライ級で随一であろう。彼女がさらなる技術を習得したならば、フライ級の台風の目になるはずであった。
だが――今日のところは、時任選手に軍配があがったようである。
時任選手は逃げ回るばかりでなく的確なカウンターも返し、何度かはテイクダウンにも成功していた。そうして柔術茶帯でフィジカルにも優れた香田選手を見事に抑え込み、反撃を許さなかったのだった。
そうして試合は時間切れとなり、3対0のフルマークで時任選手の判定勝利である。
セコンドの仕事を終えてくつろいでいた雅は、「ははん」と鼻を鳴らした。
「あの逃げ上手をぶっ潰すには、あと一年ぐらいの鍛練が必要なようやねぇ。それまでに相手が引退せえへんことを祈っとこかぁ」
「はい! 香田さんだったら、きっと次には勝てますよ!」
純真なる浅香選手が、雅の人の悪さを中和してくれる。
そして、控え室に戻ってきた兵藤アケミも、無念の表情ではなく気合をみなぎらせていた。負けはしたものの、何らかの手応えはつかんだのだろう。香田選手のポテンシャルには、誰もが大きな期待をかけているはずであった。
「ちょっとインターバルをイれようかー。カラダをヒやしすぎないようにねー」
ジョンの指示で、こちらのウォームアップには休憩が入れられる。やはり愛音は気合が先に立つタイプであるため、ジョンは的確にコントロールしているようであった。
折しも第五試合は愛音と同じ階級で、小柴選手と前園選手の一戦である。
これは、トップファイターたる小柴選手の調整試合と見るべきか、あるいは前園選手が返り咲くためのチャンスを与えたのだと見るべきか――何にせよ、なかなか通好みのマッチメイクであった。
小柴選手はアトム級に階級を落として以降、素晴らしい活躍を見せているものの、サキと犬飼京菜には敗れてしまっている。そして愛音とは対戦の機会がなかったため、大江山すみれに次ぐ四番手という位置づけであった。
前園選手はそれよりも古くからトップファイターとして活躍していたが、《カノン A.G》の騒乱で犬飼京菜に敗北を喫してからは、いささかならず精彩を欠いていた。サキや大江山すみれにも敗北したため、そういう印象になってしまったのだろう。それが金井選手に勝利したことで、面目を保ったという状況にあった。
印象としては、小柴選手のほうが活躍しているように感じられる。
しかしそれは、試合数の差であるのだ。小柴選手は人気が高いためにマッチメイクの機会が多く、前園選手の倍ぐらいは試合数をこなして、数々の白星をあげてきたのである。
だが、負けた相手のことを考えると、大きな差はない。それはサキや犬飼京菜や大江山すみれの実力が際立っているというだけの話であり、小柴選手と前園選手の実力差はまったく見えてこないのだった。
(あたしは出稽古でお相手してるから、小柴選手の成長を肌で感じてるけど……前園選手だって、きっと成長してるんだろうしな)
小柴選手はグローブ空手の雄、武魂会の所属で、プレスマン道場および天覇ZEROで寝技や組み技の技術を磨いてきた。
いっぽう前園選手は天覇館川崎支部の所属で、あらゆる技術を学べる環境の中でストライカーとしてのファイトスタイルを確立させた。これはそういう、筋道の異なるストライカー同士の対決でもあった。
(でもきっと、稽古相手に関しては小柴選手のほうが恵まれてるはずだ。頑張ってくださいね、小柴選手)
ブルーとホワイトの魔法少女コスチュームである小柴選手は、本日も凛々しい面持ちで前園選手と対峙している。
そうして試合が開始されると、すぐさま熾烈な打撃戦が展開された。
やはり立ち技の技量は、どちらも大したものである。
おたがいに外連味のない、力強い攻防だ。アトム級であるためにスピードにも秀でており、客席には歓声がわきたっていた。
しばらくすると、小柴選手はローに攻撃を集め始める。
小柴選手は相手の嫌がる攻撃を心がけているため、そこに手応えを見出したのだろう。前足を蹴られた前園選手は、いくぶんステップが鈍くなっていた。
(小柴選手のローも、なかなか痛いからな。そこはさすがの、空手出身だ)
両者は背丈もほとんど変わらないため、リーチにおいても有利不利はない。ローを集中させたことで、戦局は明らかに小柴選手に傾いた。
前園選手がその状況を打破するべく仕掛けたのは、テイクダウンである。
タックルではなく、組み合いからの足技だ。これは柔道技の習得に熱心な天覇館らしい攻め手であった。
しかし小柴選手も、その点は十分に心得ている。小柴選手が出稽古でお世話になっている天覇ZEROは天覇館の派生ジムであり、柔道技の巧みな選手およびトレーナーも多いので、稽古の相手には事欠かないという話であった。
前園選手の組み技を上手くしのいだ小柴選手は、また強めのローで反撃する。
そしてそこにカーフキックも加えられると、前園選手がついに後退した。
そこで小柴選手が見せたのは、両足タックルである。
前園選手は完全に虚を突かれた様子で、マットに組み伏せられた。
ストライカーである小柴選手が立ち技を有利に進めながらタックルを仕掛けてくるとは、予想できなかったのだろうか。
しかしこの近年、小柴選手がもっとも高い勝率を誇っているのは、テイクダウンからのパウンドであるのだ。確たるKOパワーを持たない小柴選手は、グラウンド状態におけるパウンドで数々のTKO勝利をあげてきたのだった。
前園選手もさすがの根性を見せて、最初のテイクダウンでは屈することもなかった。
しかし、第二ラウンドに移行して、再びテイクダウンを取られると――張り詰めていたものが切れたように、動きが鈍くなってしまった。
ダメージの蓄積とスタミナの欠乏で、心が折れてしまったのだろう。
かくして、小柴選手は無情にパウンドを振るい続けて、その日もTKO勝利を奪取することに相成ったのだった。
「小柴センパイも、さすがなのです! 愛音も負けていられないのです!」
愛音はいっそう奮起して、ウォームアップを再開させる。
会場は十五分間のインターバルで、そののちに沖選手と《NEXT》の若手選手が入場したならば、ついに愛音も出陣の刻限であった。
「相手は凶悪だわけど、めげずにくらいつくんだわよ」
「ああ。地力では、あんたも負けてないからね」
「そーそー! 一発いれれば、勝機はあるって! なんせあっちは、打たれ弱いちびっこなんだからさ!」
意外に年長者から可愛がられている愛音には、あちこちから温かい言葉が投げかけられた。
愛音は「押忍なのです!」とまとめて応じて、控え室を後にする。セコンド用のバッグを運搬しつつ、ユーリはふにゃふにゃ笑っていた。
「ついに、イヌカイちゃんとのリベンジマッチだねぇ。ぎゅんぎゅん動くイヌカイちゃんのお相手をするのは大変だけど、頑張ってねぇ」
「はいなのです! ユーリ様のお言葉で、百人力なのです!」
瓜子たちは先月末にもドッグ・ジムにお邪魔して、犬飼京菜の強さを体感している。あの頃はまだマッチメイクの変更もされていなかったので、愛音も同行していたのだ。ほんの数週間前にスパーをしたばかりの相手と試合をするというのは、あまりない話であった。
しかし愛音も犬飼京菜もおたがいをライバルと見なしているため、スパーでは手の内を見せることもない。もとより犬飼京菜は古式ムエタイやジークンドーの技を封印しているし、愛音も決してここ最近の成長をドッグ・ジムで披露しようとはしていなかったのだった。
(正直に言って、地力はまだ犬飼さんのほうが上だろう。でも……一発あてれば、勝機はあるさ)
そして愛音には、その一発を当てる技術と気合が備わっている。
大江山すみれに連敗を喫しているため、新鋭の中では愛音が最底辺と見なされてしまっているようだが――本日は、大金星を狙える好機であるはずであった。




