ACT.1《アトミック・ガールズ》十一月大会 01 入場
ユーリの誕生日の、六日後――十一月の第三日曜日である。
その日が、《アトミック・ガールズ》十一月大会の当日であった。
瓜子たちは三団体合同イベントにかかりきりであったが、その裏では本日の準備も進められていたのだ。もちろん瓜子とユーリも出場が予定されていた面々の稽古を手伝いつつ、当日はセコンドにつけるように画策していたのだった。
「でも、けっきょくあたしは出場できなかったからなー! 魔法老女に負けたまんま年越しなんて、ムネンの限りだよー!」
と、本日も灰原選手は車中で元気に騒いでいた。本日出場するのは多賀崎選手で、灰原選手はセコンドの身である。
「前回までは、ストローとバンタムが主役だったからね。今日はフライとアトムの応援をお願いするよ」
「わかってるって! マコっちゃんも、アトミックはちょいとひさびさだもんねー! ま、マコっちゃんだったら今日もラクショーさ!」
「そんなわけあるかい。今日はあたしだって、タイトルマッチに匹敵するぐらいの正念場だよ。運営陣もそれだけマッチメイクに力を入れてくれたんだから、こっちも期待に応えてやらないとね」
多賀崎選手が言う通り、今回の興行ではアトム級とフライ級の選手にスポットが当てられている。身近なところでは、多賀崎選手の他にサキと愛音と小柴選手が出場する予定になっていた。
その中でもっとも正念場を迎えるのは、愛音である。
愛音はもともと外来のトップファイターを相手取る予定であったのだが、そちらの選手が練習中の負傷によって欠場になり――急遽、犬飼京菜と対戦することになってしまったのである。
「犬飼サンと対戦できるだなんて、棚からぼた餅の極みなのです! きっとこの一戦に勝利すれば、王座挑戦にぐぐっと近づけるはずであるのです!」
パラス=アテナから対戦相手の変更が告げられたとき、愛音はそんな熱情を爆発させていたものであった。
これは、愛音にとってのリベンジマッチとなる。
両名が最初に対戦したのは、もはや二年以上も前――ユーリが渡米した翌月に開催された《アトミック・ガールズ》九月大会の、アトム級暫定王座決定トーナメントであった。その一回戦目で両名は熾烈な戦いを繰り広げて、大接戦の末に犬飼京菜が判定勝利をもぎ取ったのだ。
(犬飼さんの試合が判定までもつれこんだのは、あの試合が最初で最後だったはずだよな。それだけ二人の実力は、伯仲してるってことだ)
それにしても、ずいぶんいきなりのマッチメイクである。愛音はここ最近の活躍でベテランのトップファイターを総なめにしていたので、対戦相手に不自由していたのであろうが――犬飼京菜は、もはや《アトミック・ガールズ》のアトム級で王者のサキに次ぐポジションであるはずであったのだった。
(駒形代表も、もう出し惜しみはしていられないって心境なのかな)
《アトミック・ガールズ》は今回の興行をもって、格闘技チャンネルにおける放映が打ち切られてしまうのだ。
その後には大晦日の合同イベントを控えているが、来年度の活動に関しては完全に白紙の状態になっている。このままいけば、かつての《レッド・キング》と同程度の小規模な興行しか開催できない可能性が高かったのだった。
(でも、大晦日のイベントが盛り上がれば、放送局の人たちだって考えをあらためてくれるかもしれない。その後だって、ユーリさんはアトミックに出場し続けられるんだからな)
しかしまた、ユーリを起用し続けることで、非難の目が集められる危険性も残されている。
さらに、ユーリに万が一のことがあれば、駒形氏は責任をもって退任する覚悟であったが――そんな未来は、想像したくもなかった。
(ユーリさんは、必ず戻ってきてくれる。そう約束してくれたんだ)
瓜子がそんな思いを込めて隣のユーリの横顔を盗み見ると、当人はゆるんだ顔で窓の外に視線を飛ばしている。その作り物のように形のいい鼻梁には、瓜子が贈った黒縁眼鏡がのせられていた。
そうしてワゴン車は、『ミュゼ有明』に到着する。
荷物を担いで関係者専用の入場口に出向き、控え室の割り振り表を確認した灰原選手は「よーしよし!」と快哉の声をあげた。
「今日ものきなみ、みんな一緒の陣営だねー! 赤星だけは青コーナーだから、うり坊はご愁傷様!」
「毎回毎回、おんなじようなやりとりっすね。……ユーリさんも、いちいちすねないでくださいってば」
「すねてないですぅ」と、ユーリは瓜子のウェアの裾を引っ張ってくる。
今はユーリの普段通りの態度が、愛おしく感じられてならなかった。
それから控え室に足を向けると、確かに見慣れた面々が居揃っている。
本日、同じ赤コーナー陣営に割り振られていたのは、四ッ谷ライオット、天覇館東京本部、柔術道場ジャグアル、武魂会、ビートルMMA、そしてフィスト・ジムの二支部という顔ぶれであった。
「桃園くん。元気なようで、何よりだ」
と、真っ先に声をかけてきたのは、天覇館の来栖舞である。
来たるべき合同イベントの裏事情に関しては、懇意にしている関係団体の責任者に通達している。この中で言えば、来栖舞と兵藤アケミがそれに該当した。
「ここでは人の耳があるので、多くを語ることはできないが……わたしは全面的に、君を支持させていただくよ。それに、シンガポールの試合も素晴らしかった。猪狩くんも、戴冠おめでとう。君たちは、日本人選手の筆頭として世界に力を示してくれたんだ。わたしは心から、誇らしく思っている」
普段は寡黙な来栖舞の饒舌っぷりが、その内の昂揚をあらわにしている。
それで瓜子も胸を詰まらせながら、「押忍」と応じることになった。
「こっちでは、雅と香田と浅香に事情を伝えさせてもらったよ。人前では余計なことを口にしないように厳命しておいたから、心配は無用だ」
兵藤アケミも声をひそめながら、そのように告げてきた。
こちらでも、出稽古におもむいている女子選手にはすべて周知されているのだ。兵藤アケミが信頼している相手であれば、是非もなかった。
「今年は最後まで、騒がしい限りだわね。ま、わたいたちが華々しくお茶の間を盛り上げてさしあげるんだわよ」
と、鞠山選手はにんまり笑っている。合同イベントの出場内定者でプレスマン道場の遠征にも協力してもらっている鞠山選手には、もちろん真っ先に事情を通達していた。
「あたしも秘密のメンバーに仲間入りさせてもらえたけど、なかなか迂闊には語れないね。また気心の知れた顔ぶれで、壮行会でも開くとしようか」
小笠原選手は、いつも通りの穏やかさで微笑んでいる。鞠山選手と小笠原選手は、小柴選手のセコンドを務めるべく参上したのだ。
来栖舞は魅々香選手のセコンドで、そちらには高橋選手も参じている。さらに四ッ谷ライオットとビートルMMAの面々も加われば、賑やかな限りであった。
ちなみに瓜子はユーリともども、愛音のセコンドである。こちらのチーフはジョンであり、サキの陣営が立松、柳原、蝉川日和という顔ぶれであった。
「い、猪狩さん、戴冠おめでとうございます。ユーリさんも、契約解除は残念でしたけど……あれは、ものすごい試合でした。これからも、どうか頑張ってください」
そのように告げてきたのは、ジャグアルの期待の新人・浅香選手である。その先輩格である香田選手はひっそりと頭を下げており、そして妖艶なる雅がくつくつと笑いながら瓜子の肩を抱いてきた。
「瓜子ちゃんは、化け物っぷりに磨きがかけられたようやねぇ。大晦日は敵陣営か知らんけど、あんじょうおきばりやぁ」
「押忍。敵陣営って言っても、自分がアトミックの選手と対戦する可能性は低いでしょうからね。みなさんのことを、全力で応援させていただくつもりっすよ」
「その口ぶりやと、まだ内々でも対戦相手が決まってへんようやねぇ。もうひと月半しかあらへんのに、頼りないこっちゃ」
「ええ。突然の企画だったから、マッチメイクで苦労してるみたいっすね。まあ、誰とぶつかっても、全力で臨むだけです」
それでもこの二週間ほどで、出場選手の名前がじわじわ明かされつつあった。《アクセル・ファイト》からはバンタム級ランキング第二位のパット選手、《ビギニング》からはエイミー選手やイーハン選手など、名だたる選手の参戦が決定されたのだ。いったいどのようなマッチメイクになるのか、瓜子もひそかに胸を躍らせていた。
(それに、ユーリさんとベリーニャ選手の対戦だけは、もう決定してるんだからな)
立松たちトレーナー陣は今回の企画が持ち上がった時点でベリーニャ選手の攻略を研究し始めていたし、ベリーニャ選手は前々からユーリの対策を練っていたのだ。その一戦が万全の状態で行われるのであれば、瓜子の対戦相手などはいつ決定しても不満はなかった。
「それじゃあ、移動するか」
立松の号令でプレスマン陣営が試合場に向かうと、懇意にしている面々もぞろぞろと追従してきた。
そうして試合場に到着すると、青コーナー陣営の面々が各所に散っている。そちらで懇意にしているのは赤星道場とドッグ・ジム、それに時任選手ぐらいのものであった。
ドッグ・ジムは敵陣営となるため、こちらに近づいてくることもない。ただ大和源五郎が遠い位置から、ちょいと手を上げて挨拶をしてくれたぐらいである。
そんな中、大挙してやってきたのは赤星道場の陣営であった。
本日はマリア選手と大江山すみれが出場するため、総勢八名という大所帯だ。ただし現在はレオポン選手が《アクセル・ファイト》の中国大会に出場する関係から日本を離れており、そちらに同行した青田コーチと是々柄の姿はなかった。
「ひよりちゃん、おっひさー! 陣営はわかれちゃったけど、身内が対戦するわけじゃないから仲良くしても問題ないよねー!」
と、雑用係に任命されたらしい二階堂ルミが、さっそく蝉川日和に絡んでくる。蝉川日和は気のない顔で、「はあ」と応じた。
「でも、多賀崎さんは、身内のつもりッスけどね。そうじゃなくっても、ベタベタしないでほしいッス」
「もー、つれないなー! ひよりちゃんのせいで、ドMに開眼しちゃいそうだよー!」
けらけらと笑う二階堂ルミの脇を通りすぎて、マリア選手が進み出る。そちらも満面の笑みで、多賀崎選手に手を差し出した。
「多賀崎さんとの試合は、ひさびさですよねー! すごく楽しみにしてました!」
「ああ。お手柔らかに、お願いするよ」
多賀崎選手も落ち着いた面持ちで、マリア選手の握手に応じる。本日は一年と四ヶ月ぶりに、両者の対戦が実現したのだ。
いっぽう大江山すみれが対戦するのは古豪の濱田選手であるため、こちらとは縁もゆかりもない。そんな大江山すみれは、いつもの内心の知れない面持ちで愛音に微笑みかけた。
「犬飼さんとの対戦、羨ましいです。言うまでもなく犬飼さんは強敵ですから、頑張ってくださいね」
「押忍なのです! 死力を尽くして勝利を目指し、番付をひっくり返してみせるのです!」
愛音はもう、最初から気合の塊である。
そして瓜子たちのもとには、赤星弥生子と六丸が近づいてきた。
「今日はおたがいに、セコンドの立場だね。しっかり役割を果たして、勝利を目指すとしよう」
「押忍。よかったら、また打ち上げをご一緒させてください」
赤星弥生子はやわらかく目を細めながら、「うん」とうなずいた。
そこに、大きな人柄がずずいと進み出てくる。意想外なことに、それは兵藤アケミであった。
「ちょいと失礼するよ、赤星さん。……あんた、十二月の頭に男子選手とやりあうんだって? 大晦日に大一番を控えてるのに、大丈夫なのかい?」
赤星弥生子は凛々しい面持ちで、「ええ」とうなずいた。
「何をもって大丈夫とするかは、難しいところですが……先に決まっていた《レッド・キング》の試合を欠場することはできませんので、どちらの試合でも死力を尽くす所存です」
「そいつは、頼もしいこったね。でも、あんたが負傷欠場なんてことになったら、《アクセル・ファイト》の連中がどんな難癖をつけてくるかもわからないんだよ?」
余人の耳をはばかって、兵藤アケミはしゃがれた声をひそめる。厳つい顔立ちと相まって大層な迫力であったが、やはり赤星弥生子のたたずまいに変わりはなかった。
「男子選手との試合は非公式のインフォーマル・マッチですので、仮に私がKO負けを喫しても大晦日の試合を欠場する必要は生じません。……それだけの情報で安心することはできないでしょうが、どのようなコンディションでも恥ずかしくない試合をお見せできるように励みます」
「……そうかい。まあ、あんたが格闘技に懸けてる覚悟は、こっちもわきまえてるつもりだからね。その一点を、信用させていただくよ」
そう言って、兵藤アケミはいきなりごつい手を差し出した。
「大晦日には、あんたにも日本人選手の意地を見せてほしい。万全の状態なら、あんたは日本最強のひとりなんだからね」
赤星弥生子は「恐縮です」とだけ言って、兵藤アケミの手をそっと握り返した。
瓜子はずいぶんハラハラしてしまったが、兵藤アケミとて赤星道場の合宿稽古に招かれている身であるのだ。合宿中はさして交流を深めている姿を見かけなかったが、同じ指導者の立場としてともに力を尽くしていたのだった。
(やっぱりどうしたって、大晦日のほうに気が向いちゃうよな。……きっと兵藤さんも今日の試合に集中するために、内心をぶちまけたんだろう)
瓜子もまた、今はセコンドのひとりとして集中しなければならない。
瓜子がそんな思いを新たにしたとき、また意想外の人物がおずおずと近づいてきた。
「あ、あの、ユーリ選手にちょっとご相談したいお話があるのですが、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
誰あろう、それはパラス=アテナの代表たる駒形氏に他ならなかった。
いつも雑用に追われている駒形氏がこのような時間帯に声をかけてくるのは、きわめて珍しい事態である。それでこちらからは、うろんげな顔をした立松が進み出ることになった。
「どうしたんだい? よければ、俺も同席させてもらいたいもんだな」
「は、はい。大晦日の合同イベントについて裏事情をわきまえておられる御方でしたら、どなたに同席していただいてもかまいません」
ということで、立松は瓜子にも同席を命じてくれた。
試合場の中央付近はパイプ椅子の設営のさなかであるため、人気のない壁際まで移動したのち、駒形氏は声をひそめて語り始める。
「じ、実はですね、ユーリ選手が大晦日の合同イベントに出場する旨は、明日発表されることになったのですが……それに先んじて、本日の閉会式で発表する許可をいただくことがかなったのです。もともと本日は出場内定者の方々にコメントをいただく予定でしたので、ユーリ選手もそちらに参加していただけますでしょうか?」
「なんだ、そういう話だったのか。いったい何事かと思ったぜ」
立松はひとつ息をついてから、あらためて駒形氏の気弱げな顔を見返した。
「でも、正式発表の前日に告知なんて、ずいぶんな大盤振る舞いだな。またスチットさんあたりが、気を回してくれたのかい?」
「い、いえ。わたしが必死に頼み込んで、なんとか許可をいただくことができたのです。せめて本日ご来場いただいた方々にだけでも、ユーリ選手の肉声をお届けしたいと思いまして……」
立松は「そうかい」と、今度こそ表情をやわらげた。
「やっぱりあんたは、選手思いのいい代表だよ。来年も、どうかうちの選手たちをよろしくな」
「と、とんでもありません。わたしなどは、皆様の温情で生かされているようなものですので……」
駒形氏は、あくまで弱々しい。しかし瓜子も、駒形氏に心からの信頼を抱くことができた。《アトミック・ガールズ》の代表として大晦日のイベントに出場できるユーリたちのことが、いっそ羨ましいほどである。
(でも、同じ舞台で戦えるってだけで、文句を言ったらバチが当たるさ。あたしも死力を尽くして、頑張ろう)
そしてその前に、まずは本日の興行である。
瓜子は今度こそ、憂いなく目の前の試合に集中することがかなったのだった。