07 大怪獣の決断
翌日――十月の第四火曜日である。
折しもその日は、特別な祝日であった。天皇陛下の即位礼正殿の儀――というものが執り行われる日であったのである。
まあ、それも日本国民にとっては一大事なのかもしれないが、さしあたって瓜子たちに特別な役割は生じない。それで瓜子たちは、朝から赤星家に押しかけることに相成ったのだった。
同行したのは、ユーリと柳原とアリースィである。
立松やジョンは所用があって、どうしても同行できなかったのだ。まあ、これはあくまでプライベートな来訪であったので、無理に同行していただく必要もなかったのだが、それでも柳原はわざわざ休日に時間を作ってくれたのだった。
「あの弥生子さんが相手じゃ、俺の出る幕なんてないだろうけどな。万が一にも猪狩が暴走しないように、見守らせていただくよ」
駅前で合流した柳原は、笑顔でそんな風に言っていた。
ちなみに柳原は赤星弥生子の兄たる卯月選手を敬愛する身であるが――兄妹の確執に関しては、ずっと胸を痛めていた立場であるらしい。自分の敬愛する卯月選手が実の妹に忌避されている事実が、悲しくてならないのだろう。それでもこれは部外者が立ち入るべき問題ではないと見なして、赤星弥生子に対してもフラットな関係を意識しているとのことであった。
「だいかいじゅうジュニア、たのしみですねー。ふたりとのしあい、とてもエキサイティングでした」
いっぽうアリースィは、本日もご機嫌な様子である。彼女は公式にリリースされているユーリと赤星弥生子の試合ばかりでなく、瓜子と赤星弥生子が対戦した《JUFリターンズ》の試合も違法動画で視聴したとのことであった。
「ベリーニャ、だいかいじゅうジュニア、まだかなわない、いっています。だから、きょうみ、いっぱいです。あえる、たのしみです」
「はい。でも、弥生子さんは繊細なところもありますから……まずは、自分たちにまかせてくださいね?」
「はい。わたし、みまもりです」
そんな言葉を交わしている間に、赤星家の持ちビルに到着した。
一階は道場、二階はメキシコ料理店、三階は整体院――そして、瓜子たちが目指すべきはさらに階上の個人宅だ。道場は本日も希望者による自由稽古の場として開放されているらしいが、このたびは部外秘の話であったので人の耳をはばかる必要があったのである。
そうして待ち合わせの場所に指定されたのは、住居フロアに存在するロビーのような空間であった。
以前に『アクセル・ロード』の出場に関して相談をする際にも、この場所が使われた。今回も、あの日と同じような内容であるのだ。ただし、説得する相手は青田ナナではなく赤星弥生子自身であった。
「やあ、おひさしぶりだね、猪狩さん。あらためて、戴冠おめでとう」
ソファの席でひとり待っていた赤星弥生子は、まず穏やかな眼差しでそんな風に言ってくれた。
「そして、桃園さんも……何はともあれ、素晴らしい試合だったよ。やっぱり君は、素晴らしいファイターだ。どうかあの試合結果には、胸を張ってほしい」
「はいぃ。キョーシュクのイタリなのですぅ」
変装用のフライトキャップと黒縁眼鏡を外しつつ、ユーリは純白の頭をぺこぺこと下げた。
赤星弥生子は「うん」と優しく目を細めてから、残る二名に視線を巡らせる。
「柳原くんも、おひさしぶりだね。それで……そちらが、ベリーニャのご家族か」
「はい。アリースィ・ジルベルトです。おあいできて、こうえいです」
アリースィはいつもの調子で、にこにこと笑っている。
赤星弥生子は「うん」とうなずいてから、ソファの席を指し示した。
「どうぞ、掛けてもらいたい。どのような用件なのかは、さっぱり見当もつかないのだが……何にせよ、きっと只事ではないのだろうからね」
「はい。いきなりの話で、申し訳ありません。こんな呼び出しに応じてくださって、心から感謝しています」
「猪狩さんからの呼び出しなら、いつでも大歓迎だよ。……もちろん、どんなお願いでも無条件に聞き届けるという意味ではないけれどね」
そう言って、赤星弥生子はいくぶん眉を下げつつ微笑んだ。
「いきなり予防線を張るような物言いをしてしまって、申し訳ない。ただ私も赤星道場を背負う身なので、その立場を忘れることはできないということだけは伝えておきたかったんだ」
「ええ、それが当然です。その上で、前向きに考えていただけないか……それをお願いしにきました」
ジルベルトの人間を連れていくというだけで、これが只事でないことは伝わっているのだろう。そして瓜子も、緊張が顔に出てしまっているはずであった。
「まずこれは、とあるイベントに関する部外秘のお話となります。運営の側から許可が出るまで、内密にしていただけますか?」
「うん、もちろん。……猪狩さんたちからこのような話を持ちかけられるのは、二回目だね」
やはり赤星弥生子も、『アクセル・ロード』の一件を思い出していたのだ。
瓜子も心して、事情を説明することにした。
「弥生子さんを信用して、包み隠さずお話しします。その上で、ご検討をお願いします」
そうして瓜子は、既知の情報も含めて順番に説明していった。
ユーリが健康上の不安から、《ビギニング》に契約解除されたこと――その裏で、ベリーニャ選手が《アクセル・ファイト》と《ビギニング》の対抗戦を計画していたこと――その計画が頓挫したため、《ビギニング》と《アトミック・ガールズ》と《JUFリターンズ》の共同イベントに切り替えられたこと――その条件として、赤星弥生子がメインイベントに抜擢されたこと――それは《アクセル・ファイト》の運営陣からの提案であり、彼らは赤星弥生子のことを疎ましく思っている可能性があること――瓜子はすべてを、正直に語らせていただいた。
「なるほど……まさか、《アクセル・ファイト》の運営陣が私を引っ張り出そうとするとはね。これも、《レッド・キング》の外で猪狩さんたちと対戦させていただいた影響か」
「はい。弥生子さんにまたご面倒をおかけするのは、心苦しい限りなのですけれど……どうにか、了承していただけませんか?」
瓜子がそのように締めくくると、赤星弥生子はソファに深くもたれて、まぶたを閉ざした。
その若武者のごとき凛々しい面には、とても静謐な表情がたたえられている。青白い雷光のごときオーラが発散されない代わりに、内心はまったく読めなかった。
「最初にも説明した通り……私は、赤星道場と《レッド・キング》を背負う立場であるんだ」
やがて赤星弥生子は、まぶたを閉ざしたまま語り始めた。
「私が外部の興行で敗北を喫したならば、《レッド・キング》および赤星道場の価値を大きく傷つけることになる。また、私がこれまでに下してきた面々にも、申し訳が立たないことだろう。私が女子選手に後れを取ったならば、男子選手は女子以下なのかと揶揄されかねない――というか、猪狩さんや桃園さんに勝利できなかったときには、まさしくそういう心ない言葉が飛び交っていたのだからね」
「それは単に、相性の問題でしょう? 弥生子さんは、身体の大きな男子選手を相手取るほうが手馴れているんでしょうから……」
「うん。だけど世間は、そう見ない。とりわけ一部の人間は、揶揄するための材料を探しているような節も見受けられるからね」
そのように語りながら、赤星弥生子はうっすらと微笑んだ。
「ただし、そんな一部の人間の評判を気にする必要性は感じていない。猪狩さんも桃園さんもまぎれもない実力者であったのだから、私が苦戦を強いられたのも当然の話だろう。あの試合を目にして揶揄する人間など、私は論ずるに値しないと考えているよ」
「そ、そうですか。でしたら――」
「うん。だけど、私が《アクセル・ファイト》のトップファイターと対戦する意義は、ごく薄いと考えている。そんなのは、ナナやマリアやすみれの役割であるはずだからね」
赤星弥生子のそんな言葉に、瓜子の心臓が大きく騒いだ。
しかし赤星弥生子は微笑んだままであり、ようやく開かれたまぶたの向こうにはひどく澄みわたった光がたたえられていた。
「だから私も、条件をつけさせていただこう。私を表舞台に引っ張り出したいのなら、他の門下生にもチャンスを与えてもらいたい。ナナか、マリアか、すみれか……その内の一名に試合を組んでもらえるなら、私もオファーを受けさせていただこう」
「ほ、本当ですか?」と、瓜子は思わず身を乗り出してしまう。
赤星弥生子は同じ表情と眼差しのまま、「うん」とうなずいた。
「ただ、どうだろう? 私の条件は、呑んでもらえる見込みがあるのかな?」
「それは、問題ないと思いますよ。アトミックの側で準備する枠も、すでにいくつか埋まっちまってるみたいですけど、まだ二つや三つは空いてるはずですからね」
柳原が毅然と発言すると、赤星弥生子は「ふむ」と目をやった。
「昨日の今日で、もういくつかの枠は埋まってしまっているんだね。その顔ぶれを聞くことは、許されるのかな?」
「ええ。そんな難しい話じゃありません。コンディションに問題がなければ、アトミックの全階級の王者を出場させろって話のようですよ」
「ほう。それは、豪気な話だね。アトミックとしては、いささかつらい立場なのじゃないかな?」
「そうですね。まあ、どう考えたってアトミックが一番格下でしょうから、出し惜しみするなってことなんでしょう。アトミックの王者が、世界の強豪に太刀打ちできるのか――それも、イベントの売りにしたいんでしょうね」
そう言って、柳原は不敵に微笑んだ。
「だからこっちは、勝って実力を示すしかありません。その覚悟があるんなら、誰を出場させたってかまわないと思いますよ」
「ナナたちにも、相応の覚悟を持たせろということだね。もちろん、そんな心配は無用だよ」
そんな風に言ってから、赤星弥生子は瓜子に向きなおってきた。
「でも……もちろん猪狩さんは、《ビギニング》の所属選手として出場するわけだよね?」
「ええ、そういうことになりますね。三団体の対抗戦だっていうんなら、自分は《ビギニング》陣営です」
「今回も、猪狩さんとは敵陣営の関係なのか。胸が躍るのと同時に、いささか物寂しいところだね」
赤星弥生子があまりに優しい眼差しであったため、瓜子もつい「あはは」と笑ってしまう。
そしてユーリのほうを振り返ると、こちらが口を開くより前に「すねてないですぅ」という言葉を返された。
「でもでも……弥生子殿は、本当によろしいのですかぁ?」
「うん? 何がかな?」
「だって、弥生子殿が《アクセル・ファイト》の方々とやりあう意義は薄いって仰ってたじゃないですかぁ? その根底にうり坊ちゃんへの愛情が存在するのだとしても……やっぱりユーリは、心苦しいのですぅ」
ユーリのそんな言葉に、今度は赤星弥生子が「はは」と笑った。
「私は猪狩さんのためではなく、桃園さんのために奮起したつもりなのだけれどね。だけどまあ、桃園さんのために動けば猪狩さんにも喜んでもらえるのだから、大した差はないのかな」
「うにゃあ。返す言葉もないのですぅ」
「でも別に、桃園さんが気に病む必要はないよ。私は勝って、赤星道場の強さを証明する。高いリスクを支払う分、大きなリターンを手にしてみせるさ」
決して気負うことなく、赤星弥生子はそう言った。
「《アクセル・ファイト》は、世界最高峰の名に相応しい団体だろう。生半可な選手など、ひとりとして存在しない。……ただし、女子選手の中で桃園さんや猪狩さんよりも手ごわそうだと感じるのは、後にも先にもベリーニャぐらいだ。そのベリーニャを桃園さんが引き受けてくれるのならば、私が二の足を踏む理由はないね」
「すごいですねー。ますます、しあい、たのしみですー」
と、アリースィはひとりのんびりとした面持ちである。
しかし瓜子も、張っていた心を解きほぐすことがかなった。赤星弥生子もまた、ユーリのためにすぐさま決断してくれたのだ。決して彼女の真情を疑っていたわけではないが、それでも赤星道場の看板を背負った彼女がどのように反応するかは予測しきれない部分も多かったのだった。
(これできっと、大丈夫だ。ユーリさんは、アトミックの代表として……ベリーニャ選手と決着をつけることができるんだ)
そのように考えると、瓜子の胸があらためて熱くなった。
四年もの歳月を経て、ついにユーリとベリーニャ選手の再戦が実現するのである。
その結末は、まったく予想できなかったが――たとえどのような結末でも、世界中の人間が胸を震わせるはずであった。