06 条件
「けいかく、じゅんちょーですねー」
スターゲイトの応接室における密談を終えた後、瓜子たちがプレスマン道場に出向くと、アリースィの無邪気な笑顔に出迎えられることになった。
帰りは立松の車で送ってもらえたので、瓜子が車中からアリースィに連絡を入れておいたのだ。すべての情報を共有したアリースィは、普段以上の明朗なる面持ちであった。
金曜日の正午前であるため、稽古場にはごく限られた人間しかいない。それでも立松は用心深げに声をひそめながら「まあな」と応じた。
「手応えは、決して悪くなかったと思う。でも、まだどう転ぶかはわからんからな。ベリーニャ選手にも、くれぐれも気を抜かないようにと伝えておいてくれ」
「はい。ベリーニャ、ゆだん、ありません。でも、きぼう、みえました。きっと、よろこぶ、おもいます」
「もうベリーニャ選手に連絡を入れたのかい? でも、あちらさんのリアクションはわからねえんだよな?」
「はい。ベリーニャ、スマートフォン、ぼっしゅーです。わたし、れんらく、ジョアンです」
アリースィは、ベリーニャ選手の実兄たるジョアン選手を間にはさんでメッセンジャーの役目を果たしているのである。ジョアン選手は他の家族たちと同じように厳しい態度で接しながら、裏でこっそりベリーニャ選手に力を添えているのだという話であった。
(もしかしたら、ジョアン選手も家族に説得されて、《アクセル・ファイト》に留まってるのかもな)
ジョアン選手はもう数年にわたってミドル級の絶対王者として君臨しており、今では試合のほとんどがライトヘビー級の選手を相手にしたスペシャルマッチとなっている。平常体重でもミドル級がぎりぎりであるジョアン選手はライトヘビー級に転向することも許されず、客寄せパンダのような立場に甘んじてしまっているのだ。
いっぽう女子バンタム級の絶対王者となったベリーニャ選手は挑戦するべき上の階級も存在せず、体重を絞って下の階級に挑戦するというのも彼女の流儀ではない。このまま目ぼしい挑戦者が現れなければ、ジョアン選手以上に意義の薄い試合しか見込めないかもしれない――と、ジョアン選手はそんな考えでベリーニャ選手に助力しているのかもしれなかった。
(ベリーニャ選手が初めて来日したときは、ジョアン選手がずっとセコンドとして付き添ってたもんな。きっと、仲のいい兄妹なんだろう)
瓜子がそんな感慨を噛みしめていると、アリースィがぐいっと身を乗り出してきた。
「けつろん、いつですか? わたし、きたいです」
「そいつは《アクセル・ファイト》のお偉方しだいだな。ま、週明けまでには覚悟を固めてくれるんじゃないかって期待しておこう」
「はい。きたい、いっぱいです」
アリースィはにこりと笑ってから、ユーリのほうに向きなおった。
「でも、ピーチ=ストーム、しょんぼりです。ベリーニャ、たいせん、うれしい、ないですか?」
「うみゃあ……それでもユーリは、のんきに喜んでいられる立場ではありませんので……」
ユーリが縮こまると、立松は苦笑した。密談の場でも帰り道でも、同じようなやりとりが何度となく繰り広げられていたのである。
「まあ、桃園さんの立場だったら、申し訳ない気持ちが先に立つってのもわかるけどよ。けっきょくは、みんな桃園さんの頑張りが招いた結果なんだ。そこんところは、胸を張ってもいいと思うぜ?」
「はあ……でもでも、ユーリはずっと、まわりのみなさんにおんぶにだっこでありますし……」
「そうじゃなくって、選手としての頑張りについてだよ。ベリーニャ選手も駒形さんもスチットさんも、なんだったらハリスさんだって、桃園さんがすげえファイターだから放っておくことができねえんだ。もちろん、俺や猪狩だってな」
そんな風に言ってから、立松は瓜子の肩を小突いてきた。
「ま、猪狩に関しては、そんな実績だけが理由じゃないんだろうけどよ」
「押忍。でも、ユーリさんがそれだけひたむきだから、自分だって放っておけないんすよ」
瓜子が心からの笑顔を送ると、ユーリは「むにゃあ」といっそう小さくなってしまう。今のユーリは周囲に優しくされればされるほど、恐縮してしまうのだった。
「プレスマン・ドージョー、いいファミリーですねー。たいせんのひ、たのしみです。しあい、きまれば、ジルベルト・ファミリー、ふっかつです」
「ああ。そのときは、存分に胸をお借りするよ。……じゃ、俺は事務仕事を片付けちまうから、お前さんがたは適当に遊んでおきな」
そうして立松が立ち去ると、アリースィが期待に満ちた眼差しを向けてきた。
「トレーニング、かいしですか? わたし、スパーリング、きぼうです」
「あ、いや、実は午後から副業の仕事が入ってるんすよ。稽古は、夕方からの予定です」
「そうですかー。ざんねんです! では、トレーニング、ひとりです」
アリースィはめげた様子もなく、サンドバッグのほうに向かっていく。
瓜子たちは行きがけに昼食を済ませなければならないため、ゆっくりできるのは三十分ていどだ。とりあえずは、壁際でアリースィや男子門下生たちの稽古を見守らせていただくことにした。
「やっぱり話が本決まりになるまでは、落ち着かないっすよね。でも、きっと上手くいきますよ。やっぱり、スチットさんが味方になってくれたのが大きいっすよね」
「うん……」
「あとはやっぱり、千駄ヶ谷さんっすね。スチットさんに協力をお願いしようって言い出したのも千駄ヶ谷さんですし、やっぱりこういう悪だくみでは一番頼りになりますよ」
「うん……こんなのやっぱり、悪だくみだよねぇ……」
ユーリがしょんぼり肩を落としたので、瓜子は慌てて取り成すことになった。
「悪だくみって言ったのは、言葉のあやっすよ。悪いことなんて、なんにもありません。試合が決まったら、堂々と受けてたちましょう」
ユーリはやっぱり、「うん……」としか答えない。
それで瓜子も、いっそう胸を痛めることになった。
「どうしたんすか、ユーリさん? 何か抱えているものがあるんなら、正直に話してほしいっす」
「うにゃ? ……ユーリは何も、隠していないつもりでありますけれども……」
「それじゃあどうして、そんなにしょんぼりしてるんすか? ベリーニャ選手との試合が、楽しみじゃないんすか?」
「うん……今はみなさんに申し訳ない気持ちのほうがいっぱいで……」
と、ユーリは頼りなげな眼差しを瓜子に向けてきた。
「本当は、こんなへにょへにょの姿を見せたくはないのだけれど……うり坊ちゃんには、隠し事をしたくなかったから……でもでも、うり坊ちゃんが不愉快だったら、元気なユーリに変身するのです」
瓜子は愕然と身を震わせてから、ユーリの白い手を取った。
「だったら、そのままでかまいません。自分がめいっぱいフォローしますから、思うぞんぶんへにょへにょしてください」
「うん……ありがとう」
ユーリはしょんぼりしながら、それでも幸せそうに目を細めてくれた。
瓜子もまたさまざまな感情に心をかき乱されながら、ユーリの瞳を見つめ返す。これでもう、ユーリは十日ばかりも常ならぬ姿を見せていることになるが――瓜子のほうこそ、それをしっかりと受け止める力を備えなければならなかった。
◇
そして、三日後――週明けの月曜日である。
その日は朝から山科医院まで出向いて定期健診を行い、昼からは撮影の副業をこなし、プレスマン道場に辿り着いたのは夕刻になってからのことであった。
稽古場では、すでに愛音や高橋選手が汗をかいている。そちらに合流するべく瓜子たちが着替えを済ませると、事務室から顔を出した立松に招き寄せられた。
「稽古の前に、話をさせてくれ。例の件で、連絡があったんだ」
瓜子はたちまち背筋をのばし、ユーリは不安げな顔になる。そうして事務室に踏み入ると、そちらではトレーニングウェア姿のアリースィも控えていた。
「ちょうどついさっき連絡が入ったんで、アリースィさんに報告してたんだ。言うまでもないが、まだしばらくは他言無用だぞ?」
「押忍。前向きな返事をいただけたんすか?」
「ああ。ちっとばっかり厄介な条件をつけられちまったが……たぶん、大丈夫だろう。あの嬢ちゃんだって、桃園さんには目をかけてくれてるはずだからな」
「嬢ちゃん? 誰のことっすか?」
「順を追って、説明する。……まずはな、《アクセル・ファイト》の運営陣も覚悟を固めたらしい。基本的には、スチットさんの提案を受け入れる形で共同企画の話を進めていきたいとよ」
瓜子の心臓が、期待に跳ねあがった。
立松は、厳粛なる面持ちで言葉を重ねていく。
「スチットさんの提案通り、イベントの開催日は大晦日だ。《ビギニング》の日本大会を、そのまま三団体の共同イベントにすげかえる格好だな。《ビギニング》と《アトミック・ガールズ》と《JUFリターンズ》で八名ずつの選手を選出して、ぶつけあう。名目上は《JUFリターンズ》だが、あちらさんが準備するのは《アクセル・ファイト》の所属選手だ。ベリーニャ選手の他にも、名だたるランカーをずらりと準備するつもりだとよ」
「押忍。それじゃあ、女子選手オンリーの興行なんすね?」
「ああ。そのへんは、ちっとばっかりモメたようだが……まあ、こっちは男女混合だってかまいやしない。ただひとつだけ、アトミックの選手を準備するパラス=アテナが条件をつけられちまったんだよ」
いったいどのような条件であるのかと、瓜子は気持ちを引き締める。
しかし、立松の言葉は完全に意想外な内容であった。
「で、その条件ってのはな……メインイベンターとして、弥生子ちゃんを準備しろって話だったんだよ」
瓜子は、きょとんとしてしまった。
「どうしてそこで、弥生子さんが出てくるんすか? ベリーニャ選手と対戦するのは、ユーリさんなんすよね?」
「ああ。だけど、健康に不安のある桃園さんにメインイベントは任せられない。桃園さんに負けないぐらいの話題性を持つ弥生子ちゃんに大トリを任せろって話らしい。で、ここからはスチットさんの推測なんだが……《アクセル・ファイト》の連中は、弥生子ちゃんのことを面白く思ってないようなんだとよ」
「どうしてっすか? そもそも弥生子さんは、北米の興行と関わってないっすよね?」
「ああ。だけど弥生子ちゃんは、ベリーニャ選手に唯一の黒星をつけた相手だ。しかもこの数年でお前さんや桃園さんとの試合が違法動画で出回って、北米でもそれなりの注目を集めちまったようだな。それであの嬢ちゃんには、男子選手を相手に全勝無敗なんていうお題目もひっついちまってるから……真の最強はベリーニャにあらず、極東の大怪獣ジュニアでございなんていう風説も上がってきたらしいぜ?」
確かにシンガポールにおいても、赤星弥生子の知名度は上昇しつつあるようであったのだ。
ただ瓜子は、まだまだ釈然としなかった。
「それで、どうして面白く思っていない弥生子さんをメインイベントに抜擢するんすか? まさか……弥生子さんに強敵をぶつけて、その風説とやらをもみ消そうって考えなんすか?」
「そう眉を吊り上げんなよ。あくまで、推測なんだからよ。……ちなみに篠江会長いわく、運営代表のアダムさんなんかは気にもとめてないらしい。そんな十年以上も大昔の試合にこだわる必要はないっていうスタンスみたいだな」
「そうでしょうね。自分もそう思います」
「しかし、運営陣の中にはそう思っていない人間も入り混じってるらしい。それでこいつはいい機会だから、ベリーニャ選手の威光に傷をつける厄介な日本人選手を二人まとめて叩き潰そうとか考えついたんじゃないかって話だな」
「……弥生子さんだったら、そんな計画は実力でひねり潰してくれますよ」
瓜子が内心の腹立たしさをこらえかねながら言い返すと、立松は「まあな」と頭をかいた。
「ただ、不安要素がないわけでもない。弥生子ちゃんはもう十年以上もデカブツの野郎連中とやりあってきたから、女子選手を相手取るほうが手馴れてないって話だったろ? 実際問題、お前さんや桃園さんに大苦戦したわけだからな」
「でも、弥生子さんだったら――」
「お前さんの寸評は、この際どうでもいい。重要なのは、本人がそう自覚してるってことだよ」
瓜子は暫時、その言葉の意味を理解しかねた。
「もしかして……弥生子さんが、そのオファーを断るんじゃないかって言いたいんすか?」
「弥生子ちゃんは、《レッド・キング》にこだわってきた。お前さんや桃園さんには特別な思い入れを抱いているようだから、しっかり相手をしてくれたけどな。でかいリスクを背負ってまでこんなイベントに出場したいと思うかどうかは、いまひとつ確信できないってことだよ」
そう言って、立松は四角い下顎を撫でさすった。
「だからまあ、お前さんや桃園さんに対する思い入れってもんに期待したいところなんだが……なんだったら、お前さんからもアプローチしてみてくれねえか? 万が一にもへそを曲げられたら、スチットさんの作戦も台無しだからよ」
「押忍。お許しをもらえるなら、是非そうさせていただきたいっすけど……ユーリさんも、かまわないっすよね?」
「むにゃあ。弥生子殿にまでご迷惑をおかけしてしまうのは、ザンキニタエナイのですぅ」
と、ユーリはまたへにょへにょになってしまう。
かくして、瓜子はすぐさま赤星弥生子に連絡を入れることになり――翌日の火曜日に、赤星家で接見するアポイントメントを取る事態に至ったのだった。




