05 密談
事態が大きく動いたのは、アリースィをプレスマン道場に迎えてから三日後――十月の第三金曜日のことであった。
その日ばかりは瓜子とユーリも朝からの稽古を取りやめて、タクシーに揺られている。向かう先は、千駄ヶ谷が勤務するスターゲイトの本社である。いつぞやと同じように、その応接室が本日の密談の場に選ばれたのだった。
瓜子は朝から、胸を高鳴らせてしまっている。
なんと本日はパラス=アテナの駒形氏ばかりでなく、《ビギニング》のスチット氏と《アクセル・ファイト》の関係者も一堂に会するという話であったのだ。
いったいどうしてそのような話になったのか、詳細は知らされていない。
ただこの密談の発起人は、スチット氏であり――それで瓜子も、期待をかきたてられてならなかったのだった。
(スチットさんは、ユーリさんにすごく目をかけてくれていたんだ。何か、思わぬ形で力になってくれるのかもしれない)
何せスチット氏は、遥かなるシンガポールからわざわざ参ずるのである。あの質実なるスチット氏が、伊達や酔狂でそんな真似をするとはとうてい思えなかった。
そうして瓜子たちがスターゲイトの本社に到着したのは午前の十時前であり、応接室にはすでに立松と駒形氏の姿があった。
「ど、どうもお疲れ様です。あの、今日はいったいどういった趣旨の会合なのでしょうか……?」
「俺が知らないんだから、こいつらだってご同様だよ。ただ、スチットさんから何か提案があるらしいな」
瓜子たちが答えるより早く、立松がそう言った。
立松は落ち着いた面持ちだが、その目にはありありと熱情があふれかえっている。きっと瓜子も、同じような目つきになっていることだろう。そして、渦中の人たるユーリはずっと恐縮しきった様子で小さくなっていた。
「お待たせしました」と千駄ヶ谷が登場したのは、午前十時きっかりのことである。
そして千駄ヶ谷は、二名の男性を引き連れていた。《ビギニング》の代表であるスチット氏と、《アクセル・ファイト》のアジア地区ブッキングマネージャーのハリス氏だ。およそ一年ぶりの再会となるハリス氏に、立松は気安く「よう」と笑いかけた。
「面倒をかけて、すまねえな。そちらさんの損にならないように、俺も祈ってるよ」
長身痩躯で眼鏡をかけたビジネスマン風のハリス氏は、曖昧な表情で微笑んだ。きっとハリス氏もベリーニャ選手が巻き起こした騒動によって、小さからぬ心労を抱え込むことになったのだろう。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。まず最初にご説明させていただきたいのですが……本日、私はユーリ選手のスーパーアドバイザーという立場を取らせていただきたく思います」
千駄ヶ谷は普段通りの冷徹な声音で、口火を切った。
「私はスターゲイトの末端社員に過ぎませんが、アイドルおよびミュージシャンとして活動するユーリ選手のマネージメントを管理する立場でありますし、かつては選手活動に関しても管理させていただいておりました。そちらの業務はユーリ選手が新宿プレスマン道場の正式な門下生となった時点で手を引いておりますが、ユーリ選手の特異性をよくよくわきまえている人間として、適切に助言を送れればと愚考しております」
「はい。あなたのように立派な御方がマネージメント業務を担っておられるのでしたら、ユーリ選手もさぞかし心強いことでしょう」
悠揚せまらず、スチット氏が相槌を打った。
千駄ヶ谷は「恐縮です」と一礼してから、鋭い視線を巡らせていく。
「ではまず、みなさんのご紹介をさせていただきます。新宿プレスマン道場の方々については、ご紹介の必要もありませんね? こちらは《アトミック・ガールズ》を運営するパラス=アテナの駒形代表。《ビギニング》を運営するスチット代表、そして《アクセル・ファイト》のアジア地区ブッキングマネージャーのハリス氏です」
名前を呼ばれた人間が小さく一礼するだけで、名刺の交換などは行われない。
そして、駒形氏はひとりせわしなく視線をさまよわせていた。
「まず、大前提として……この場にお集まりいただいた方々は、《アクセル・ファイト》の内情をわきまえているとお考えください。ベリーニャ選手は《アクセル・ファイト》からの離脱を交渉の材料として、ユーリ選手が所属していた《ビギニング》との対抗戦を計画していた――それで間違いありませんね?」
ハリス氏は柔和な微笑に内心を押し隠しつつ、「ええ」と首肯した。
「そのようなナイジョウがガイブにデマワってしまうのは、イカンのカギりなのですが……ベリーニャのクチからモれてしまったのでしたら、イタシカタありません。どうぞ、ハナシをおススめください」
「恐縮です。……ですがユーリ選手は、《ビギニング》との専属契約を解除されることに相成りました。この時点で、ベリーニャ選手の目論見は潰えたかに思われますが……現在もなお交渉は続いているということでお話を進めさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「オウ。ワタシのクチから《アクセル・ファイト》のナイジョウをアかすケンゲンはアタえられておりません」
「左様ですか。では、そのように仮定してお話を進めさせていただきます」
千駄ヶ谷は、何事もなかったかのように言葉を重ねた。
「ユーリ選手もまたベリーニャ選手との対戦を熱望しておりましたため、今日の会合が企画されることになりました。新宿プレスマン道場の関係者から相談を持ちかけられたスチット氏に妙案があるとうかがっておりますので、まずはそちらをお聞かせ願えますでしょうか?」
「妙案……と受け取っていただけたら、幸いです」
あくまでも落ち着いた面持ちで、スチット氏はそう言った。
「みなさんご多忙でありましょうから、単刀直入に申しましょう。わたしは、《ビギニング》と《JUFリターンズ》と《アトミック・ガールズ》の共同企画をご提案させていただきたく思います」
すると、立松が「ほう」と反応した。
「《アクセル・ファイト》じゃなく、《JUFリターンズ》か。……ああ、悪い。どうか話を進めてくれ」
「はい。みなさんにはご説明の必要もないでしょうが、《JUFリターンズ》は《アクセル・ファイト》の下部組織が運営する興行と相成ります。その趣旨は、日本国内における格闘技業界の活性化と、《アクセル・ファイト》に相応しい選手の発掘となりますね。そして時には《アクセル・ファイト》の人気選手を招聘して、日本のファンを楽しませてきました。……であれば、このたびの共同企画にベリーニャ選手を招聘するのも可能なのではないでしょうか?」
「……そのイベントで、ベリーニャとユーリ・モモゾノのタイセンをジツゲンさせたいというおハナシでしょうか?」
ハリス氏はやわらかい面持ちのまま、口をはさんだ。
「では、ニテンほどギモンをテイします。まず、ユーリ・モモゾノとケイヤクカイジョした《ビギニング》が、どうしてそのようなイベントをキカクするのか。そして、《JUFリターンズ》がそのイベントにサンカするイミは、どこにあるのでしょう?」
「最初の疑問から、お答えいたします。まずわたしは個人的に、ユーリ選手の実力とスター性を高く評価しています。それでもユーリ選手の健康に不安要素が発見された以上、契約解除に踏み切るしかありませんでしたが……それでも、ユーリ選手をこのまま野に埋もれさせてしまうのは、あまりに惜しいと考えているのです」
スチット氏のそんな言葉に、ユーリはいっそう縮こまってしまう。
しかし瓜子は、胸の高鳴りが増すのを感じていた。やはりスチット氏は、そこまでユーリに目をかけてくれていたのだ。
「そして、《JUFリターンズ》がそのイベントに参加する意味についてですが……まずひとつは、ベリーニャ選手の提案を半ば受け入れる形で、このたびの騒ぎを穏便に収束できること。そしてもう一点は、世界中のファンの要望に応えられるということです」
「セカイジュウ? 《JUFリターンズ》は、あくまでニホンコクナイのコウギョウで、セカイにハイシンするヨテイもシュダンもないのですが」
「それは、わたしがお引き受けいたします。《ビギニング》も共催の立場であれば、なんの問題もなく配信のコンテンツに加えることができますので」
スチット氏がそのように語るなり、ハリス氏の目がきらりと光った気がした。
それに気づいたのか、気づいていないのか――スチット氏は、ゆったりと言葉を重ねる。
「ですがもちろん共催の立場で放映権を独占することは許されないでしょう。このたびのイベントは日本国内の地上波テレビジョンおよび《ビギニング》と《アクセル・ファイト》の配信サービスで権利を分かち合いたく考えています」
「……ですから、《JUFリターンズ》のイベントを《アクセル・ファイト》のコンテンツとしてアツカうゼンレイはないのですが……」
「その前例をくつがえすか否か、ご判断なさるのはあなたがたです。わたしはあくまで、ご提案をさせていただいているに過ぎません。……もちろんひとつのイベントを複数の配信コンテンツで扱ったならば視聴者数も折半されますので、通常よりも収益は下がることでしょう。ですが、日本における地上波放送の放映権料と会場のチケット代金も含めれば、決して損のないビジネスになるはずです。詳しくは、こちらをご覧ください」
と、スチット氏はブリーフケースから分厚い書類の束を取り出した。
それが配られたのは、ハリス氏と駒形氏のみとなる。ハリス氏は読書でも楽しんでいるかのような眼差しで、駒形氏は止まらない冷や汗をハンカチでぬぐいながら、それぞれ書面に目を落とした。
「なるほど……それぞれのウンエイダンタイが、ミズカらのダンタイのショゾクセンシュにのみファイトマネーをシハラうシステムであるわけですね。これでしたら、タシかにシュウエキにカンするフアンはおおよそフッショクできるやもしれません」
「わ、わたしはこのように大きなイベントに関わった経験もございません。どうして《アトミック・ガールズ》がここに名を連ねているのか、いまだに理解が及ばないのですが……」
駒形氏が覚束ない調子で問いかけると、スチット氏はそれをなだめるように微笑んだ。
「それは、三つの運営団体からそれぞれ所属選手をエントリーさせるという形式を取るためとなります。我が《ビギニング》と《アクセル・ファイト》および《JUFリターンズ》はユーリ選手に出場をお願いする立場にありませんので、《アトミック・ガールズ》の運営陣にその責任を担っていただきたく思います」
「せ、責任というと……つまり、不慮の事故が起きた際には……」
「はい。大きな収益の代償として、すべての責任を担っていただきたく思います。もちろんこちらの所属選手が不慮の事故に見舞われた際には、我々が全面的に責任を負わせていただきます」
とはいえ、試合の直後に心肺が停止する選手など、ユーリの他には存在しない。それでユーリにまつわる責任は、すべてパラス=アテナが負うべしという話であるのだ。それを理解した駒形氏は、真っ青になっていた。
「で、ですが……現在、ユーリ選手は《アトミック・ガールズ》を離脱した身でありますし……」
「はい。とうていユーリ選手の口からは、そのような責任を負ってほしいなどとはお願いできないことでしょう。ですから、わたしからお頼み申しあげます。……どうか、ユーリ選手に活躍の場を準備していただけませんでしょうか?」
スチット氏は柔和な面持ちのまま、その眼差しに熱情をにじませた。
「ユーリ選手との契約解除に踏み切ったわたしがこのような願い出をするのは筋違いであるということは、十分にわきまえているつもりです。ですが、ユーリ選手は格闘技界を揺るがす存在であるはずです。もしもベリーニャ選手との対戦が実現したならば、全世界の格闘技ファンに大きな感動をもたらすことでしょう。責任を肩代わりすることはできませんが、不慮の事故を回避するために万全の準備を整えるとお約束いたします。どうか……どうか、ご一考いただけないでしょうか?」
駒形氏は脂汗を流しながら、押し黙ってしまう。
すると、しばらく無言であった千駄ヶ谷が発言した。
「僭越ながら、私からもひとつだけ。……駒形氏は《アトミック・ガールズ》の行く末を重んじているがために躊躇されているのでしょうが、そちらに不安はないかと思われます」
「ど、どうしてですか? このように不吉なことは、口にするのもはばかられますが……もしもユーリ選手が意識を失ったまま帰らぬ人となったなら、もはやパラス=アテナが《アトミック・ガールズ》を運営することも許されなくなるでしょう」
瓜子は奥歯を噛みしめて、胸の奥からせりあがってくる激情を呑み込んだ。
いっぽう千駄ヶ谷は冷徹なる面持ちのまま、「ええ」と応じる。
「ですが、現在の《アトミック・ガールズ》にはあれだけの選手が居揃っています。たとえパラス=アテナがすべての責任を担って身を引くことになっても、《アトミック・ガールズ》の灯火が途絶えることはありえないでしょう」
駒形氏は、ハッとした様子で目を見開く。
千駄ヶ谷は同じ調子で、滔々と言いつのった。
「まずもっとも可能性が高いのは、天覇館の来栖氏が旗頭となって新たな団体を設立するという道ですね。来栖氏は人望も厚く、鞠山選手という強力なアドバイザーも控えておられますので、きっと問題なく新団体を運営することがかなうでしょう。さらに、何らかの事情で来栖氏が動けなかった場合は、《フィスト》や《NEXT》や《パルテノン》の運営陣が決起するかと思われます。その際には、一部の人気選手だけを引き抜いても大した利益は見込めませんので、女子MMAの新たな団体を下部組織として発足させようと考えるのではないでしょうか?」
「…………」
「つまり、あなたの双肩にのしかかっているのは、パラス=アテナの存在のみであるということです。また、パラス=アテナは《カノン A.G》の騒乱に見舞われた際も、上層部の首をすげかえるだけで復活を果たすことがかないました。もしもこのたびのイベントで不測の事態が生じたとしても、数多くのスタッフは新たな運営団体に参加することも可能なのではないでしょうか?」
「つまり……何が起きても失われるのは、わたしの首とパラス=アテナの名前だけということですね」
駒形氏は泣き笑いのような面持ちで、そう言った。
「ありがとうございます、千駄ヶ谷さん。あなたには、助けられてばかりです。わたしもようやく、覚悟を固めることができそうです」
「でも!」と、ユーリが声を張り上げた。
その白い頬は、いつの間にか滂沱たる涙に濡れている。
「ユーリなんかのために、駒形さんが犠牲になる必要はないはずです! そんなことになったら、ユーリは……」
「いえ。もとより現在の《アトミック・ガールズ》は、ユーリ選手と猪狩選手のご活躍で継続できていたようなものであるのです。《アトミック・ガールズ》にはあれだけ有望な選手が居揃っているのに……わたしたちは、そこに商業的な価値を付加することに失敗していたのです。そんなわたしが運営代表としてのさばっていたことが、そもそもの間違いであったのでしょう」
そう言って、駒形氏もまた顔をくしゃくしゃにした。
「恥をしのんで、告白しますが……実は、《アトミック・ガールズ》の格闘技チャンネルにおける放映は、今年度でもって終了と決定されてしまったのです」
「なに?」と、立松が身を乗り出した。
「それはずいぶん、唐突な話だな。もしかして……猪狩たちの離脱が響いてるのか?」
「はい。猪狩選手とユーリ選手はエキシビションマッチで出場し続けると仰ってくださいましたが、それでも放送局の首脳陣を納得させることはかなわなかったのです。それもひとえに、わたしの不徳でありましょう」
駒形氏は泣き笑いの表情のまま、背筋をのばした。
「格闘技チャンネルの放映権料を失ったならば、《アトミック・ガールズ》の興行も縮小化を余儀なくされます。それでもわたしは可能な限り、《アトミック・ガールズ》を存続させたいと願っておりましたが……別の誰かにその役目を担っていただいたほうが、より明るい未来を目指すことができるでしょう」
「俺は、そうは思わねえな。だいたいそいつは、桃園さんの息の根が止まる前提なんだろう? そんな不吉な話を大前提にされたら、うちの爆弾娘が暴れ出しちまうぞ」
と、立松は珍しく瓜子の頭を小突いてきた。
瓜子も精一杯の思いを込めて、うなずいてみせる。
「桃園さんはくたばったりしねえし、ベリーニャ選手との試合でまた世間の注目を集めるだろう。その後も、懲りずに桃園さんの面倒を見てもらいたいもんだね。そうしたら、放送局のほうから頭を下げて契約の再開を懇願するだろうさ」
そのように語ってから、立松は泣き顔のユーリに向きなおった。
「だから桃園さんもな、自分がアトミックを救うんだって気概を絞り出せ。それで……絶対にくたばらず、ファイターとして生き続けるんだよ」
ユーリはぽたぽたと涙をこぼしながら、「はい……」とうつむいた。
遅まきながら、瓜子はその白い指先をつかみとる。ハリス氏を筆頭とする《アクセル・ファイト》の運営陣がこの提案を受け入れるかどうかは、まだまだ予測もつかなかったが――少なくとも、瓜子たちは覚悟を固めることがかなったのだった。




