03 変転の使者
瓜子たちが帰国してからの三日間は、実に慌ただしく過ぎ去っていった。
まず帰国の翌日にはプレスマン道場の公式声明が発表されたわけであるが、それで世間はいっそう過熱したようである。
ユーリは《ビギニング》の絶対王者であるレベッカ選手を下したが、試合の直後に心肺の停止が確認された。その後はすぐに復調し、入念な精密検査を行っても異常は発見されなかったが、これ以上の選手活動は危険であると見なされて契約解除を言い渡された。
そんな話を大前提として、プレスマン道場は《ビギニング》の裁定に従うことと、ユーリは今後の調子を見ながら慎重に選手活動の方針を決めていく方針であると発表したのである。
世間はまず、その大前提の状態で大騒ぎを始めていた。そもそもユーリが《ビギニング》の絶対王者に挑戦するという話は日本国内でも大注目されていたので、そのぶん反響も大きくなるはずであった。
しかし瓜子たちは、なるべく世間の声を耳に入れないように心がけていた。
ユーリを中心にした騒ぎには無節操かつ無責任な誹謗中傷がついて回ることを、経験則で学んでいたためである。《カノン A.G》の騒乱が起きた際も、『アクセル・ロード』で選手生命が危ぶまれた際にも、瓜子とユーリはそうして世間の騒ぎが静まるのをじっと待ち受けていたのだった。
「だったら選手を引退して、音楽活動に専念すればいいなんて声もあがってるみたいだねー! ったく、どいつもこいつも、ヒトゴトと思ってさ!」
と、時には親切かつ遠慮のない灰原選手がそんな言葉を口にして多賀崎選手に頭を引っぱたかれていたが、そのていどの話が出回るのは想定済みである。それしきのことで一喜一憂していたら、とうてい神経がもたないのだった。
しかしユーリには、心強い支援者がたくさんいる。もちろん灰原選手だって、そのひとりであるのだ。ユーリはまたもや身近な人々に隠し事をしていたことが明るみにされてしまったわけであるが、それでユーリを責めようとする人間がひとりも存在しなかったことを、瓜子は心から嬉しく思っていた。
ただ――世間では、そういった部分に非難の声をあげている人間も少なくないらしい。
ユーリは前々から試合直後に不如意な姿を見せていたため、プレスマン道場の関係者や《ビギニング》の運営陣がユーリの不調を知りながら選手活動を続けさせていたことも明るみにされてしまったのである。
しかしスチット氏もプレスマン道場の関係者も、そういった声には毅然と対応していた。ユーリはこの一年ていどの期間で何度となく精密検査を受けており、そのたびに異常なしと見なされていたことも、公式の会見で発表されていたのだ。
『このたびユーリ選手は試合直後に心肺の停止が確認されましたが、そもそも原因が不明であるのですから、試合との因果関係を証明できる医師は存在しないことでしょう。ですが我々は万が一のことを考えて、ユーリ選手との契約解除に踏み切る他ありませんでした。わたしはむしろ、ユーリ選手の今後の活躍を期待していた方々に申し訳なく思う気持ちで、胸が満たされています』
そのように語るスチット氏の会見動画だけは、瓜子とユーリもしっかり確認させていただいた。シンガポールのマスコミ陣からは次々と厳しい質問が飛ばされていたが、スチット氏はいつも通りの温厚な態度でひとつずつ撃退していたものであった。
おそらく《ビギニング》は、スチット氏の度量によってこの苦境を乗り越えることだろう。
よって、より厳しい立場に立たされるのは、プレスマン道場である。こちらはこれからもユーリに選手活動を続けさせようというスタンスであるのだから、いっそうの非難が集まるはずであった。
「ま、こんな騒ぎも今の内だよ。俺たちもスチットさんを見習って対処するから、桃園さんも心配しないで稽古に励んでおきな」
立松は、力強い面持ちでそんな風に言ってくれた。
ユーリから格闘技を取り上げたら、どれほど悲嘆に暮れることになるか――みんなそれをわかっているから、ユーリを後押ししてくれるのだ。瓜子は数多くの人々が同じ気持ちでいてくれていることを、何よりありがたく思っていた。
そうして帰国の翌日である金曜日と土曜日には朝から晩まで稽古に励み、日曜日には数名ばかりの客人をマンションに招いてささやかな食事会である。愛音、蝉川日和、灰原選手、多賀崎選手、高橋選手、小柴選手というお馴染みの顔ぶれで、誰もが傷心のユーリをいたわってくれた。
さらに翌日の月曜日は体育の日で道場の休館日であったため、有志をつのって横浜ドッグ・ジムにまで押しかけることになった。
残念ながら沙羅選手はプロレスの巡業で不在であったものの、他の面々は快く瓜子たちを出迎えてくれた。そして、《ビギニング》に契約解除を言い渡されたユーリをいたわりつつ、今後のことに関しては一切干渉しようとしなかったのだった。
「もしもお嬢が同じような状況に置かれたって、引退するわけがねえからな。だったら何も、偉ぶったことは言えねえよ」
大和源五郎のそんな言葉が、一同の思いを代弁していた。
きっと社会的な倫理観に照らし合わせたならば、こちらのほうが横紙破りであるのだろう。そんなことは百も承知で、数多くの人々がユーリの行いを見守ってくれているのだ。たとえ非常識だと罵倒されようとも、瓜子も断固としてユーリを支えようという覚悟であった。
そうして帰国から四日が過ぎて、連休明けの火曜日である。
その日に、ユーリは早くも運命の変転を迎えることに相成ったのだった。
◇
その日も瓜子はユーリとともに、朝からプレスマン道場に出向いていた。
もともと明日の水曜日までは、副業の仕事も完全にオフであったのだ。それは試合で負うダメージを慮ってのことであったが、今のユーリにとっては稽古に打ち込むことこそが何よりの救いであった。
そうして朝一番で道場に駆けつけた瓜子とユーリは更衣室で着替えたのち、人影もまばらな稽古場でウォームアップに励んでいたのだが――そこに、「たのもー」という呑気な声が響きわたったのである。
そちらを振り返った瓜子は、思わずきょとんとしてしまった。
そこにはまったく見覚えのない、中学生ぐらいの娘さんが立ちはだかっていたのだ。
ただ瓜子はその姿を目にした瞬間から、変事の予感を覚えていた。
それは何故かと問うならば――その少女が、いかにも異国人らしい褐色の肌をしていたためである。
年齢は、せいぜい十三、四歳といったところであろう。瓜子よりも背が低く、いかにもしなやかなそうな体躯を黒いパーカーとスウェットパンツに包んでいる。艶やかなセミロングの黒髪は無造作に束ねて、その肩には大きめのボストンバッグが抱えられていた。
顔立ちはまだまだあどけないが端整なつくりをしており、きらきらと輝く黒い瞳が印象的だ。
そしてその目は、マットに座ってストレッチに励んでいるユーリに真っ直ぐ向けられていた。
「おいおい、勝手に入ってもらっちゃ困るよ」
と、慌てた顔をした柳原が、少女を追うようにして稽古場に駆け込んでくる。
「悪いな。あんまり堂々としてるもんで、他の連中は出稽古の新しいメンバーだと思って素通りさせちまったらしい。でも、そんな話はなかったよな?」
「押忍。自分も聞いてないっすけど……そちらは、どなたっすか?」
「俺だって、わからんよ。まさか、道場破りか何かじゃないだろうな?」
柳原がうろんげに問いかけると、褐色の肌をした少女は「はい」と無邪気に微笑んだ。
「ピーチ=ストームのじつりょく、きょうみいっぱいです。でも、どーじょーやぶり、ちがいます。……わたし、アリースィ・ジルベルトです」
「アリースィ……ジルベルト?」
柳原は仰天した様子で口をつぐみ、瓜子もひそかに息を呑んでいた。
それが、変事の予感の正体である。その少女の端整な顔には、わずかながらにベリーニャ選手の面影が見て取れたのだった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。アリースィ・ジルベルトっていったら……あの、ルーカス・ジルベルトの秘蔵っ子とか言われてる娘さんじゃなかったか?」
「はい。ルーカス・ジルベルト、わたしのパーイです。あなた、パーイ、しってるですか?」
パーイとは、ブラジルで言うパパの意であろうか。
それはともかく、柳原はいっそうの惑乱をあらわにしていた。
「格闘技の関係者で、ルーカス・ジルベルトを知らない人間なんているもんかよ。どうしてその娘さんが、うちの道場に乗り込んできたんだ?」
「はい。わたし、ピーチ=ストーム、あいにきました」
柳原の惑乱など知らぬげに、アリースィ・ジルベルトと名乗る少女はにこにこと笑っている。
その父親のルーカス・ジルベルトというのは、男子選手に疎い瓜子でもさすがに知っていた。その人物こそ、格闘技ブームの創生期に日本で大活躍をしていたジルベルト柔術の実力選手なのである。《JUF》というのは彼を迎えるために発足されたようなものであり、数々の日本人選手が敗れ去ることになったのだった。
(つまり……日本で柔術最強を証明した立役者ってことだ)
ギガント東京本部道場の会長がかつて挑戦して玉砕したのも、そのルーカス・ジルベルトという選手なのである。
そしてルーカス・ジルベルトというのは、ジルベルト本家の三男あたりであり――つまりこのアリースィ・ジルベルトという少女は、ベリーニャ選手やジョアン選手の従姉妹にあたるわけであった。
「はじめまして、ピーチ=ストーム。ほんもの、とてもきれいです」
柳原を置き去りにして、アリースィは跳ねるような足取りでこちらに近づいてくる。
そしておもむろにボストンバッグの中身をまさぐったので、瓜子は反射的にユーリを庇おうとしてしまったが――そこから取り出されたのは、『トライ・アングル』のライブDVDに他ならなかった。
「ぶしつけ、ごめんなさい。サイン、もらえるですか?」
ユーリは、「ほえ?」と小首を傾げる。
するとアリースィは、芝居がかった仕草で眉をひそめた。
「わたし、あなたのうた、すきです。でも、サイン、いりません。サイン、ほしい、パーイです。パーイ、わたしより、あなたのこと、だいすきです。パーイ、やらしーです」
「はあ……それはそれは、なんともはや……」
「でも、わたし、かえったら、パーイ、しかられます。そのじかん、みじかくする、あなたのサイン、ひつようです。サイン、もらえるですか?」
「ちょ、ちょっと待ってください。あなたはいったい何のために、こんなところまで来たんですか?」
瓜子が思わず声をあげると、アリースィはたちまち笑顔になった。
「ウリコ・イカリ、はじめまして。ほんもの、かわいいです。そして、あなた、つよい、しっています。あなた、ピーチ=ストーム、どっちもモンスターです」
「そ、そんな話は後にして、用件を聞かせてもらえないっすか? ユーリさんにサインをもらうために来たわけじゃないんでしょう?」
「いえ。サイン、ないと、こまります。パーイ、おこると、こわいです」
「……どうしてあなたが、お父さんに怒られないといけないんですか?」
瓜子が胸を騒がせながら問い詰めると、アリースィはいっそう無邪気に微笑んだ。
「わたし、かってに、にほん、きたからです。きっと、かぞく、みんなおこってます。でも、いちばんこわい、パーイです。だから、わいろ、ひつようです」
「……あなたはわざわざブラジルから、日本に来たっていうことですか?」
「はい。わたし、メッセンジャーです。ベリーニャ、ピーチ=ストーム、はなしたいけど、ふかのうです。だから、わたし、にほん、きました」
瓜子が抱いた変事の予感が、ついに明確な形を成した。
ずっとぼんやりしていたユーリも、「ベリーニャ」のひと言で背筋をのばす。そして、怖いものでも見るような目をアリースィに向けた。
「あ、あなたもベル様のご家族ということなのでしょうか? ベル様は……ユーリに怒っておられるのでしょうか……?」
「ベリーニャ、おこりません。ベリーニャ、かなしんでいます。ベリーニャ、ピーチ=ストーム、しあい、きぼうです。だけど、さくせん、だいしっぱい、こまってます」
アリースィは『トライ・アングル』のライブDVDを握りしめたまま、ユーリの正面に膝を折った。
その目はあくまでも屈託なく輝きながら、ユーリの姿を見つめている。それは若鹿のようなベリーニャ選手とも黒豹のようなジョアン選手とも異なる、明るく強い輝きで――やっぱり、何かの動物めいていた。
「わたし、ベリーニャ、たすけたいです。あと、あなたとベリーニャ、しあい、みたいです。だから、にほん、きました。あなた、きょうりょく、オーケーですか?」
「……ユーリなんかが、ベル様のお力になれるのでしょうか?」
「あなた、きょうりょく、ひつようです。そうしたら、みんな、ハッピーです」
そう言って、笑顔のアリースィはライブDVDをユーリに差し出した。
「さいしょ、サイン、おねがいです。そうしたら、わたし、ハッピーです。みんな、ハッピー、なりましょう」




