02 帰国
そうして瓜子たちは、帰国した。
日取りとしては、十月の第二木曜日である。三日間の入院の後、スチット氏と面談し、その翌日に飛行機に乗って、他なる面々とは三日おくれの帰国であった。
フライトは正午の前で、空港に到着したのは午後の七時となる。
そうして特急電車で新宿まで向かい、プレスマン道場に立ち寄ってみると――何十人という面々に取り囲まれることに相成ったのだった。
「みんな、おかえりー! いやー、なんだか大変な騒ぎになっちゃったね!」
真っ先にそんな言葉を投げつけてきたのは、出稽古におもむいていた灰原選手である。
灰原選手は、いつも通りの無邪気な笑顔だ。ただ、それ以外の面々はみんな真剣な面持ちになっていた。
「大変どころの騒ぎじゃないよな。桃園さんは……大丈夫なのか?」
そのように告げてきたのは、プレスマン道場の留守を預かっていた柳原だ。
ユーリは小さく縮こまりながら、「はい……」としか答えなかった。今は負の感情を意識の外に排出しているはずであったが、それでも言葉が続かなかったのだろう。今後はどのような未来が待っているかもまったく不明であるのだから、何をどう不安に思うべきかも判然としないはずであった。
ただ一点、はっきりしているのは、《ビギニング》との専属契約が解除されたことである。
その事実とその理由は、昨日の夜半にスチット氏が記者会見で公にした。それは動画で全世界に配信されたので、日本に住まう人々ものきなみ目にしたのだろうと思われた。
「それで、あのぅ……このたびは、あれこれ隠し事をしてしまって申し訳ありませんでした……」
と、ユーリは極限まで小さくなりながら、その場に寄り集まった面々に頭を下げた。
ユーリの健康状態について詳細を知らされていたのは、トレーナー陣と海外遠征の協力者のみであったのだ。道場の一般門下生も出稽古で集まる女子選手の数多くも、ユーリは試合の直後に意識を失うのみであり、呼吸や脈拍が止まっている恐れがあるなどとは知らされていなかったのだった。
「そんなん、あたしらが文句をつける筋合いじゃないっしょ! そもそも病気のどうこうなんて、個人情報なんだから! 他人にぺらぺらしゃべるほうが、どうかしてるのさ!」
灰原選手はいつもの通り、あっけらかんとしている。彼女はユーリの接触嫌悪症について打ち明けられた際も、そうして果断な振る舞いでユーリの心を慰めてくれたのだった。
いっぽう他の面々は、おおよそ重々しい面持ちでうなずいている。
そしてそれらの門下生をかきわけるようにして、立松が進み出てきた。
「ジョンから連絡をもらったときに、俺からもざっくり事情を説明させてもらったからな。そんな話で、桃園さんを責めるような人間はいねえよ。……一番しんどいのは、桃園さん本人なんだからな」
「ありがとうございます……でも……」
と、うつむいたユーリの白い頬に、ひと筋の涙がしたたった。
「道場のみなさんも、女子選手のみなさんも、ユーリのことをあんなに応援してくれたのに……ユーリはけっきょく、契約を解除されることになっちゃって……ユーリは、なんとおわびを申し上げていいのか……」
「ユーリ様が、そんなことを気になさる必要はないのです!」
と、愛音が声を張り上げた。
その顔は、まるで怒っているかのように眉を吊り上げていたが――ただその頬には、ユーリ以上の涙がこぼされていた。
「立松コーチが仰る通り、一番おつらいのはユーリ様なのです! そんなユーリ様を責める人間なんて、この道場にはひとりとして存在しないのです!」
「当たり前だろ。もうちょっと、仲間のことを信じてほしいもんだな」
柳原は、真剣そのものの面持ちでそう言った。
ただその目もとにも、白いものが光っている。
「桃園さんは、十分期待に応えてくれたよ。この前の試合は、最後まで震えが止まらなかったからな。たとえ契約解除されたって、桃園さんが《ビギニング》の絶対王者を倒した事実に変わりはない。俺たちはそんな桃園さんの頑張りをずっと見守ってきたんだから……こんなことで、桃園さんを見放すわけがないだろ」
他なる面々も、それぞれ異なる表情でうなずいている。
プレスマン道場の門下生たちも、出稽古でやってきた女子選手たちも――ある者は真剣に、ある者は気の毒そうに、ある者は内心を押し隠しながら、それぞれユーリの泣き顔を見守ってくれていた。
「……それじゃあ再会の挨拶はそれぐらいにして、事務室で話をさせてくれや。ヤナ、サイトー、あとは頼んだぞ」
そうして瓜子とユーリは、事務室に引っ張っていかれることになった。
立松は小さなデスクに浅く腰をかけ、瓜子とユーリはパイプ椅子に収まる。まずはハンカチで目頭をおさえたユーリの姿を見下ろしてから、立松は苦笑を浮かべた。
「桃園さんはどんなにしんどい場面でも平気な顔をしてるのに、仲間内で励まされると弱いよな。……桃園さんがそういう人間だから、誰も責めようなんて考えもしないんだよ」
「はい……ユーリはこんなに至らない人間なのに……どうしてみなさんが、こんなに優しくしてくださるのか……ユーリには、さっぱりわからんちんなのです……」
「桃園さんは仲間を信じる前に、まず自分を信じるべきなんだろうな。……しんどいところを申し訳ないが、今後のことを話させてもらいたい。こっちにも、あんまり時間がないんでな」
「時間がない? って、どういう意味っすか?」
瓜子が思わず身を乗り出すと、立松はそれをなだめるように手を振った。
「俺たちは何も焦っちゃいないが、世間の連中がうるさいんだよ。昨日なんざはマスコミから問い合わせの嵐で、道場にまで記者連中が押しかけてきやがったんだ。……ああいや、いちいち謝る必要はねえよ。桃園さんのおかげで、そういう騒ぎにはすっかり慣れっこになっちまったからな」
「はい……重ねがさね、申し訳ない限りなのです……」
「だから、謝る必要はねえって。桃園さんが帰国したらすぐに今後の方針を発表するって言い渡して、どいつもこいつも追い返してやったからよ。……そんなわけで、明日の朝には何らかの発表をしなくちゃならねえんだ。その内容を、確認させてもらいたい」
そう言って、立松はわずかに居住まいを正した。
「プレスマン道場としては、べつだん特別な手立てを講じるつもりはない。……こっちはそういう方針なんだが、それで納得してもらえるかい?」
「はあ……特別な手立てと申しますと……?」
「だから、《ビギニング》の決定に異議を申し立てることなく、契約解除とタイトルの返上に応じるってことだよ。裁判なんざ起こしたって、おそらく勝ち目はないだろうからな」
「は、はいぃ……裁判なんて、とんでもないのです……ユーリはスチットさんにも、さんざんご迷惑をおかけしてしまったのでしょうし……」
「それは全部スチットさんの決断なんだから、桃園さんが申し訳なく思う必要はないさ。ただ、スチットさんがこういうリスクを承知して桃園さんを取り立ててくれたことには、感謝するべきだろう。その上で、俺たちはすっぱり気持ちを切り替えるべきだろうな」
「気持ちを切り替えるって、どういう方向にっすか?」
瓜子が思わず声をあげると、いささかならず厳しめの視線が向けられてきた。
「その前に、お前さんの気持ちを確認させてもらいたいところだな。お前さんは、この先どうするつもりなんだ?」
「え? それはその……《ビギニング》との契約についてっすよね?」
「当たり前だろ。他に、何があるんだよ?」
瓜子が口ごもると、ユーリがまた手を重ねてきた。
この話になるたびに、ユーリは瓜子の手に触れてくるのである。そして、スチット氏と面談した日と同じように、とても無垢なる眼差しを向けてくるのだった。
「……正直言って、自分だけ《ビギニング》に居残るのは心苦しいです。でも、ここで自分までやめちゃったら……ユーリさんが責任を感じちゃうでしょうから……」
「そりゃあ当然の話だな。自分が桃園さんの立場だったらどう考えるか、少しは想像してみろよ」
「……押忍。とりあえず、最初の契約の満了までは務めあげます。その後のことは、そのときになってから考えます」
瓜子たちは《ビギニング》と正式契約を交わしたばかりの身であり、まだあと十ヶ月ばかりの契約期間と三試合のノルマが残されているのだ。およそ三ヶ月に一度のペースで試合をこなして、来年の七月の末日が契約満了の日取りであった。
「そうか。桃園さんに対する思い入れが暴走しなくて、何よりだったよ。それもきっと、桃園さんのおかげなんだろうな」
立松がほっとした様子で息をつくと、ユーリは「いえいえぇ」とだけ言った。
しかしやっぱり、あとの言葉が続かない。それで立松も、眉を下げることになった。
「やっぱり桃園さんも、それなりにへこたれてるみたいだな。こんな目にあったら、それが当然だ。何か要望があったら、遠慮なく話してくれ」
「要望……と、仰いますと……?」
「だから、今後の活動方針についてだよ。まさか、このまま引退するつもりじゃないんだろう?」
立松の言葉に、ユーリは目を伏せた。
おおよその相手には恐縮してしまうユーリであるが、そんな仕草を見せるのは珍しいことだ。これはユーリが、負の感情を隠したいときに見せる仕草であったのだった。
「引退は……したくないですけれど……ただ、ユーリなんかを試合に出してもらえるのかどうか……ユーリには、わからないのです」
「うん、まあ、確かにな。俺としても、楽観的なことは言えん。《ビギニング》ってのは《アクセル・ファイト》に次ぐぐらいの勢力だから、他のプロモーターたちに与える影響も絶大だろう」
そんな風に言ってから、立松は身を乗り出した。
「しかし俺の役割は、門下生のサポートをすることだ。桃園さんが選手活動の継続を希望するなら、俺たちも全力でサポートするし……万が一のときは、道場のトレーナーとして迎えたいと思ってる」
ユーリは顔を上げて、きょとんと目を丸くした。
「道場のトレーナーって……誰がですかぁ?」
「文脈でわかるだろ。前から言ってるけど、桃園さんは指導役としてもなかなかのもんだからな。赤星のセミナーでは大活躍だし……猪狩に最初に寝技のコーチをしたのも、桃園さんなんだからよ」
そう言って、立松は不敵かつ温かな笑みを浮かべた。
「ただしそいつは、あくまで万が一の話だ。なかなか試合が組まれないようだったら、アルバイトか何かで雇ってやるって話だよ。いきなり正規トレーナーなんざ任せたら、さすがにヤナやサイトーに申し訳が立たないからな」
「……そんなにまでして、ユーリの面倒を見てくださるのですかぁ?」
ユーリが恐縮しきった様子で身をよじると、立松は同じ表情のまま肩をすくめた。
「こっちにしてみりゃ、何も状況は変わってないからな。ただ、秘密ごとが公にされたってだけの話だ。……精密検査の結果がオールグリーンだった以上、こっちの方針は変わらねえよ。心肺の停止が確認されたなんて話は、計測機器の故障なんじゃねえかって思うぐらいだね」
「……それで本当に、道場にご迷惑はかからないのですかぁ?」
「選手の尻をふくのが、トレーナーの役割だろ。度を過ぎたら説教してやるから、そうでなければ心配すんな」
ユーリはまたうつむきながら、涙をにじませることになった。
「ありがとうございましゅ……なんと御礼を言ったらいいのか、言葉が見つからないのでしゅ……」
「大げさだな。気にするべきは俺たちじゃなく、プロモーターの動向だよ。この状況で桃園さんを試合で使ってもらえるかどうか……パラス=アテナの駒形さんも、今回ばかりはどんな反応を見せるかわからんからな」
そのように語りながら、立松はぱしんと自分の膝を打った。
「しかしまあ、動く前からうだうだ言ってもしかたねえ。それにさすがに、昨日の今日だしな。しばらくはのんびり過ごしながら、気持ちを落ち着けな。こっちから逆オファーをかけるにしても、一週間や二週間は時間を置くべきだろうしよ」
「はいぃ……ただ、カラダは元気そのものですので……明日からお稽古させていただいても問題はありませんでしょうか……?」
ユーリがもじもじしながら言うと、立松は「頼もしいこったな」と苦笑を浮かべた。
「ま、桃園さんはそっちのほうが落ち着くんだろう。ただし、今日ぐらいは大人しくしておくんだぞ? 他の連中と挨拶をしたいなら、すみっこで見物しておきな」
そうして瓜子たちは、早々に解放されることになった。
稽古場では、数多くの門下生と出稽古の女子選手たちが一心に汗をかいている。サキ、愛音、灰原選手、多賀崎選手、小柴選手、高橋選手、鬼沢選手――小田原に帰った小笠原選手を除けば、女子選手も勢ぞろいであった。
蝉川日和は私服姿のままサイトーに引っ張り回されており、ジョンもまた男子門下生の面倒を見ている。女子選手は柳原の監督のもと、寝技のサーキットを開始したようであった。
瓜子とユーリはキャリーケースを更衣室に片付けたのち、壁際に陣取って女子選手たちの稽古を見守る。
ユーリはいくぶん不明瞭な面持ちであったが、負の感情をすべて排出してのほほんとしているよりは、瓜子もまだ共感することができた。
「ユーリさん、大丈夫っすか? しんどいときは、いつでも頼ってくださいね?」
「うん……今はどちらかというと、みなさんの優しさでお胸が苦しいぐらいなのです」
そう言って、ユーリはせりでた胸もとに手を置いた。
「立松コーチの言う通り、しばらくは様子を見ましょう。《アトミック・ガールズ》だけじゃなく、他のプロモーターからも声がかかるかもしれないっすからね」
「うん……どうなんだろうねぇ……」
「大丈夫っすよ。ユーリさんは、あのレベッカ選手に勝ったんすよ? そんな物凄い選手を、世間が放っておくわけありません」
「うん……そうだと、いいんだけど……」
と、ユーリはしみじみと息をついた。
「ベル様……怒ってないといいんだけどなぁ……」
ユーリのそんな言葉で、瓜子は後頭部を殴打されるような衝撃に見舞われることになった。
迂闊なことに、瓜子はベリーニャ選手のことをすっかり失念していたのだ。あちらはあちらで試合の直後に《アクセル・ファイト》からの離脱をほのめかすという、とんでもない行いに及んでいたのだった。
(もしベリーニャ選手が《ビギニング》に移籍するつもりだったんなら、いきなりハシゴを外された状態になる。これは……どうにかしないと、まずいのかな)
さりとて、瓜子たちはベリーニャ選手に連絡をつける手立てを持っていない。唯一の道筋は、ジョアン選手と個人的に連絡を取っているらしい卯月選手ぐらいのものであった。
(でも、ジョアン選手だってベリーニャ選手の行動をどう思ってるかわからないし……部外者のあたしたちが首を突っ込んだら、余計に迷惑をかける可能性だってあるよなぁ)
瓜子たちは大一番で勝利して凱旋した身であるのに、それを喜ぶいとまもない。
ユーリはこれから、どんな運命を辿ることになるのか――瓜子の胸は、そんな不安と疑念でずっとキャパオーバーを起こしていたのだった。




