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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
32th Bout ~Autumn of Change~
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ACT.4 錯綜と結実 01 苦渋の決断

《ビギニング》の試合の翌日から三日間、ユーリはシンガポールの病院で検査入院することになった。

 そしてついでに、瓜子も入院することになった。瓜子は試合の翌日に、まんまと熱を出すことになってしまったのだ。これは集中力の限界突破を複数にわたって行使した際に訪れる、もはや通過儀礼のようなものであった。


 よって、瓜子にとってその三日間の記憶はおぼろげである。

 病室で常ならぬ姿を見せていたユーリはきちんと復調できたのか、瓜子は大いに煩悶しながら高熱の苦しみに耐えることに相成ったのだった。


 その期間、病室で付き添ってくれたのはジョンと蝉川日和である。

 残りの面々は予定通り、試合の翌々日に帰国することになったのだ。立松は最後まで自分が居残ると言い張っていたようだが、やはり英語が堪能であるジョンこそが適任であったのだろうと思われた。


 蝉川日和も残されたのは、本人の希望とジョンたちの判断であったらしい。

 瓜子とユーリが二人そろって入院となるとどんな人手が必要になるかもわからなかったので、念のためにと残されることになったのだ。それにまた、スチット氏も二名まで付添人の滞在費を捻出すると申し出てくれたようであった。


「あたしも英語はからきしッスけど、すっかり翻訳アプリもお馴染みになってきたッスからねー。さっきなんて、ひとりで買い出しにいってきたんスよー」


 瓜子たちの容態を気にしながら、蝉川日和はいつでも朗らかな顔を見せてくれていた。


「ご迷惑をかけて、すみません……バイトのほうは、大丈夫なんすか……?」


「そんなの、気にすることないッスよー。クビになったらクビになったで、新しい働き口を探すだけッスから。それより無理してしゃべらないで、安静にしてほしいッス。……って、あたしがしゃべりかけるのが悪いんスよねー。どうも申し訳ないッス」


 蝉川日和はどこまで善良なのだろうと、気が弱っていた瓜子は涙をこぼしてしまいそうだった。

 そうして、三日間が過ぎ去って――瓜子はとりあえず復調し、ユーリはおおよその検査結果が出た。


 その結果は、やはりオールグリーンである。

 ユーリは試合の直後にバイタル測定器で心肺の停止が確認されたが、やはりどこにも異常は見当たらなかったのだ。


 いくつかの検査は結果が出るのにもう数日はかかるという話であったが、きっとそちらも同様であるのだろう。ユーリはもう何度となく同じような検査をしていたし、そのたびに異常なしという判断を下されていたのだ。今回はこれまでよりも意識を失っていた時間が長かったようであるが、今さら新たな事実が発覚する可能性はごく低いのではないかと思われた。


 そうして瓜子たちは退院した翌日の飛行機で日本に帰る予定が立てられたわけであるが――その前に、スチット氏と面談することに相成った。

 今後について話し合いたいと、スチット氏の側から要請されたのだ。自然、瓜子は胸を騒がせることになってしまった。


(状況は、今までとほとんど変わらないはずだけど……スチットさんは、どう考えてるんだろう?)


 ワゴンタイプの立派なハイヤーのシートで揺られながら、瓜子の不安はつのるいっぽうである。

 そして、三日ぶりにようやくきちんと顔をあわせることができたユーリは――どこか、悄然とした様子であった。瓜子と話すときには無邪気な笑顔を見せてくれたが、ふっと目を離すと雨に打たれるゴールデンリトリバーのような面持ちになっているのである。


 もちろんユーリは、今後のことを心配しているのだろう。

 瓜子はつい先刻聞いたばかりであるが、どうも世間では大変な騒ぎになっているようであるのだ。映像の配信においては試合直後のユーリが救護スタッフに手当される姿は隠匿されているが、客席の人々には丸見えであるため、そこから騒ぎが広まったようであった。


 もちろんユーリが試合直後に意識を失うという話は、もともと世間に広まっているのだろう。それは毎回の話であるし、《ビギニング》の興行においては専属の救護スタッフまで準備されていたのだから、どうしたって隠しきることはできないはずであった。


 なおかつ今回はケージ内で心肺の停止が確認されたので、自動体外式除細動器――いわゆるAEDまで持ち出されることになったのだ。

 そうして救護スタッフが処置を行うためにユーリの試合衣装にハサミを入れようとしたタイミングで、ユーリは目覚めたのだという話であった。


 そしてユーリは、担架で花道を戻ることになった。

 瓜子とユーリが初めて参戦した《ビギニング》の興行でも、同じ措置が取られたのだ。それでいっそう世間には、ユーリの健康を不安視する声が飛び交うはずであった。


「だけどスチットさんってお人は、それを承知でタイトルマッチにまで挑ませてくれたんスよねー? だったらきっと、大丈夫ッスよ!」


 ハイヤーでの移動中、蝉川日和はそんな言葉でユーリを元気づけようとしてくれた。

 それに応じる際には、ユーリも「うん」と笑顔を見せる。しかしすぐに、またしゅんとしょげてしまうのだった。


 そうして一行は、スチット氏が待ち受ける《ビギニング》の運営事務所に到着した。

 近代的な高層ビルの、ほぼ最上階である。もちろん持ちビルではなく間借りしている身であろうが、こんな立派なオフィスを抱えているだけで《ビギニング》の隆盛のほどが察せられた。


 毎回お世話になっている女性スタッフの案内で、瓜子たちは大きなエレベーターに乗り込む。

 そして、広々とした執務室で対面したスチット氏は――いつも通りの、明朗な微笑をたたえていた。


「ご足労いただき、申し訳ありません。ユーリ選手も猪狩選手もお元気なようで、何よりです」


 瓜子とユーリはまだ顔中にガーゼを貼られている身であるが、まあ元気であることに違いはない。熱から回復したばかりの瓜子はまだ若干の倦怠感を引きずっていたが、ユーリはもう持ち前の体力で外傷以外のダメージからはおおよそ回復しているはずであった。


「それではどうぞ、お座りください。今後の契約について、お話をさせていただきたく思います」


 サイズ感はほどほどだが艶々と照り輝く大理石のテーブルをはさんで、瓜子たち四名はスチット氏と向かい合った。

 スチット氏の他に、人影はない。それは望ましいことであるのかどうか、瓜子には判然としなかったが――答えはすぐに、スチット氏の口から語られた。


「単刀直入に申します。きわめて残念な話であるのですが……ユーリ選手との専属契約については、今日付けで解約させていただきたく思います」


 瓜子は愕然と息を呑み、蝉川日和は「えーっ!」と声を張り上げた。


「契約解除って、どうしてッスか! 検査の結果は、異常なしだったじゃないッスか!」


「はい。ですが、ユーリ選手は試合直後に心肺の停止が確認されました。これ以上、選手活動を続けさせるのは危険であると判断せざるを得なかったのです」


 スチット氏の柔和な面持ちに変わりはなかったが、その眼差しには真剣な光が宿されている。

 蝉川日和は、「でも!」と言いつのった。


「そんなのは、最初からわかってた話ッスよね? 《アクセル・ファイト》ってのはそれを理由にユーリさんと契約しなかったそうですけど、それを助けてくれたのがスチットさんなんでしょう?」


「はい。わたしはあくまで、医学的な診断を優先させていただきました。複数の精密検査で異常なしと見なされた、その事実を重んじる方針であったのです」


「だったら――!」


「ですが今回、ユーリ選手の心肺の停止が計測機器によって確認されてしまいました。それは精密検査の結果と同じように、重んじる他ないのです」


 悠揚せまらず、スチット氏はそのように言葉を重ねた。


「これまでは医療スタッフの触診のみでしたので、誤診の可能性が残されていました。ですが今回は、揺るぎない事実として心肺の停止が確認されてしまったのです。それでもなおユーリ選手を《ビギニング》に起用し続けたならば、我々は選手の安全よりも利益を追求していると非難されることになるでしょう」


「ウン。それが、スチットのボーダーラインだったんだねー」


 ジョンがのんびり口をはさむと、スチット氏は「ええ」と首肯した。


「まさしく、仰る通りです。大きな決断を下すには、揺るぎない事実を基軸にするしかありませんし……このたび、その事実が確定してしまったのです。こればかりは、わたし個人の感情で動かすことはできません」


「ウン。《アクセル・ファイト》みたいにサイショからアンゼンサクをトっていれば、そんなにナヤむこともなかったんだろうしねー」


 そのように語りながら、ジョンは優しい眼差しでユーリを見つめた。


「ユーリ。スチットはそれでもあきらめたくないから、ユーリとケイヤクしてくれたんだよー。ケイヤクカイジョはザンネンだけど、スチットにはカンシャするべきなんじゃないかなー」


「感謝って、どうしてッスか! タイトルマッチまで挑ませておいていきなり放り出すなんて、ひどいじゃないッスか!」


 蝉川日和がわめきたてると、ジョンは同じ眼差しのまま「ウン」とうなずいた。


「ユーリはレベッカにカったから、《ビギニング》のバンタムキュウチャンピオンだよー。でも、ケイヤクカイジョしたら、オウザをヘンジョウしないといけないわけだねー。そうしたら、ゼッタイオウジャをタオしたユーリイガイのセンシュのナカから、アタラしいチャンピオンをキめないといけないんだよー。これって《ビギニング》にとっては、なんのトクもないハナシだよねー」


 得がないどころか、大損害であろう。それは言わば、ユーリに勝ち逃げされるようなものであるのだ。控えめに言っても、《ビギニング》の威信は大きく傷つけられるはずであった。


 しかしスチット氏はそんなリスクを背負って、ユーリをタイトルマッチに抜擢した。

 ユーリにはそれだけの価値があると、大きな決断を下したのだ。

 そして今、スチット氏は自らの決断によって大きく傷ついたわけであった。


「……契約書には、『選手の健康に不安があると見なされた際には本契約を無効とする』という条項があります。このたびの一件には、そちらの条項が適用されることになります」


 スチット氏は静かな調子で、そのように語り始めた。


「どちらの側も違約金を支払うような条件は付加されておりません。もちろんこのたびのファイトマネーも、ビッグ・イニング・アワードの賞金も、平常通りに支払われます。それをもって、すべての契約が解除されるものとご理解ください」


 瓜子とユーリは今回も、ファイトボーナスの対象者に選出されていたのだ。

 ユーリは心肺の停止が確認されて、契約解除される可能性が濃厚であった。それでもスチット氏は公正に、ユーリの健闘を評価していたのである。


 スチット氏は、やはり誠実かつ厳格な人間であるのだろう。

 そして、アジアの格闘技界を活性化させたいという強い熱情を携えている。

 将来に不安のあるユーリと専属契約を交わして、タイトルマッチに抜擢したのも――そしてこのたび契約解除に踏み切るのも、同じ厳格さと熱情から導き出された答えであるのだ。


 それを痛感させられたために、瓜子は言葉が出なかった。

 きっとジョンも、同じ気持ちであるに違いない。

 ただひとり、憤然としているのは蝉川日和であった。


「だったら、猪狩さんはどうなるんスか? 猪狩さんは《アクセル・ファイト》との契約を振り切って、《ビギニング》と契約したんスよ?」


「それを決めるのは、猪狩選手ご自身です。当方との契約は一年で更新されますので、期日の満了をお待ちいただくか……すぐに契約を解除したいというお話であれば、契約書に記載されている通りの違約金をお支払いしていただく他ありません」


 瓜子は混乱と悲嘆の渦中にあったので、自分の今後についてまでは頭が回っていなかった。

 そんな瓜子の手に、ユーリの温かい手がそっと重ねられてくる。


「うり坊ちゃんは、チョトツモーシンしないでね? うり坊ちゃんは、《ビギニング》のチャンピオンなんだから」


 瓜子は気持ちも定まらないまま、ユーリのほうを振り返る。

 ユーリは――赤ん坊のように無垢なる笑顔で、瓜子の顔を見つめていた。


「これでうり坊ちゃんの足まで引っ張っちゃったら、ユーリは誰にも顔向けできないのです。うり坊ちゃんは、自分の夢に向かって突き進んでほしいのです」


 瓜子の夢――それは、何なのだろう。

 自分の力を、プレスマン道場の力を、《アトミック・ガールズ》の力を、世界で示すこと?

 世界の舞台で、メイと決着をつけること?


(いや……それはみんな、夢なんかじゃない。そもそもあたしは、夢なんて持ってなかったんだ)


 瓜子はただ、MMAの選手として活動し続けたいだけなのである。

 あとの話は、そこから派生した思い――そして、根源の思いにいっそうの熱を与えてくれる大切な思いに他ならなかった。


(それで、あたしは……)


 ユーリと同じ道を進みたい、と願ったのだ。

 今この瞬間、瓜子の目の前で、その願いが木っ端微塵に砕け散ったのだった。


「……本日の午後七時に、記者会見でユーリ選手との契約解除を発表する予定です。その際には、ユーリ選手の健康状態について余すところなく語る必要がありますので、どうかご容赦ください」


「それって、ユーリさんの心臓が止まってたことも発表するって意味ッスか? そんなことしたら、他のプロモーターだってユーリさんを試合で使わなくなっちゃうかもしれないじゃないッスか!」


 蝉川日和がいきりたつと、ジョンがゆったりとたしなめた。


「どっちみち、ユーリにシアイのオファーがあったら、こっちからジジョウをツタえないといけないんだよー。そんなハナシをカクしたままシアイにダすなんて、ムセキニンだからねー」


「ん? あ、そうか! 《アトミック・ガールズ》は、それでもユーリさんを試合に出してくれてたんですもんね! それならきっと、《アトミック・ガールズ》に戻ることはできるッスよ!」


 直情的な蝉川日和はすぐさま喜色をあらわにしたが、瓜子はとうてい楽観視できなかった。ユーリの病状が世間に公表されたならば、ユーリを起用することで非難にさらされる恐れも出てくるのだ。

 だから瓜子は、胸が張り裂けるような思いであり――ユーリの無垢なる笑顔に、情動を揺さぶられてならなかったのだった。


「……確かに、それでもユーリ選手を起用しようとする団体は現れるかもしれません。ですが、くれぐれもご用心を。まずは、ご自分の身を一番にお考えください」


 スチット氏がそのように発言すると、蝉川日和はたちまち眉を吊り上げた。


「なんスか、それ? 契約解除するってなったら、手の平を返すんスか?」


「……そうですね。わたしには、もはやユーリ選手に助言を送る資格もありません」


 そう言って、スチット氏はふっと目を伏せた。

 その伏せられた目には、とても悲しげな光が宿されている。


「ユーリ選手には、《ビギニング》の王者として活躍してほしかったです。そうしたら、どれだけの興奮を世界に届けることがかなったか……わたしは、自分の腕を切り落とすような心地です。ユーリ選手が不安のない健康状態を取り戻せる日を、心から祈っています」

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