14 代償
モニターでは、ユーリがレベッカ選手をフロントチョークスリーパーで下すスロー映像が繰り返されていた。
最初はもとのアングルで、次には別なるアングルでと、二度にわたって同じシーンが繰り返されたのだ。
そして――それが終了したのちには、フィニッシュに至る直前の打撃戦が流され始めた。
その段階に至って、立松が「おいおい」と声をあげる。
「ずいぶんしつこいじゃねえか。さっさと、桃園さんの無事な姿を見せてくれよ」
「……それが見せられないから、リプレイ映像を流してるんじゃないだわよ?」
鞠山選手の言葉に、瓜子は総身の血が引いてしまった。
その間に、立松が慌てた様子でわめき散らす。
「鞠山さん! そいつは、悪い冗談だ! いくら何でも、口にしていいことと悪いことが――」
「こんな場面で冗談を口にするほど、わたいは不謹慎ではないつもりなんだわよ。プレスマンの関係者は、そういった事態まで想定してピンク頭の選手活動を許容してたんじゃないんだわよ?」
そんな風に語りながら、鞠山選手が瓜子の鼻先を通りすぎていった。
「何にせよ、憶測で語ってもしかたないんだわよ。わたいが様子を見てくるだわから、残る面々はうり坊が猪突猛進しないように見張っておくだわよ」
「ま……待ってください……それなら、自分も……」
「それが、猪突猛進なんだわよ。……でもまあ、暴れる体力が回復していないのは僥倖だっただわね。それじゃあくれぐれも、短慮はつつしむんだわよ?」
鞠山選手は足早に、控え室を出ていった。
すると、パイプ椅子に陣取っていた立松が立ち上がり、マットに座した瓜子のもとに寄り添ってくる。
「確かに、何もわからん内から騒いでもしかたない。鞠山さんの冷静さに助けられたな。……桃園さんはきっと無事だから、お前さんも大人しくしておけ」
「押忍……」と答えながら、瓜子は自分の足で立ち上がることもできない我が身が無念でならなかった。
その間も、モニターではリプレイ映像が流され続けている。全世界に配信されている公式の映像でも、同じものが流されているはずであるのだ。それはひとえに、意識を失ってしまったユーリが救護される姿を人目から隠すための手管であった。
よって、ユーリが目を覚ましたのちには、すぐさまライブ映像に切り替えられるのが通例であったのだが――もう試合が終わってから数分ばかりも、その姿は隠され続けている。これでは瓜子たちの不安もつのるいっぽうであった。
(なんでだよ……ユーリさんの身に、いったい何が……)
そうして瓜子が、血がにじむぐらい唇を噛みしめたとき――ふいに、モニターの映像が切り替えられた。
瓜子は我知らず身を乗り出していたが、そこに映し出されているのはマイクをつかんだスチット氏の姿だ。場所はケージの中央で、運営のスタッフやリングアナウンサーの姿も見受けられたが――ユーリやセコンド陣の姿は、どこにもなかった。
スチット氏はいつになく厳しい表情で、何かを語っている。
しかし、英語であるので意味はわからない。そして客席には相変わらず大歓声があふれかえっていたが、どこか困惑の気配も感じられるような気がした。
「なんだよ、どうせだったら、同時通訳の音声も流してくれよ。こんなことなら、タブレットで配信のページを開いておくべきだったな」
《ビギニング》も大手配信サービスと提携するにあたって、大きな興行では日本向けの解説がつけられるようになったのだ。そちらでは、スタジオの解説とともに同時通訳もされているのだった。
やがてカメラが引きのアングルになっても、見えるものに変わりはない。ユーリもレベッカ選手もセコンド陣も――リングドクターの姿も救護スタッフの姿もないのだ。
そこでいきなり、控え室のドアが叩き開けられた。
姿を現したのは、鞠山選手と高橋選手である。そして、試合のときよりも厳しい顔をした高橋選手が駆け足で控え室に踏み入ってきた。
「桃園は病院に搬送されるんで、荷物を取りに来ました。桃園にはジョン先生が付き添って、あたしとサキは救急車を見送ってから戻ります」
「おい、高橋さん。いったい何が――」
「こまかい事情は、鞠山さんに聞いてください」
そうしてユーリ陣営の私物が詰まったボストンバッグを抱えた高橋選手は、その通りすがりで中腰になって、瓜子の肩をつかんできた。
「桃園は意識を取り戻して、すっかり元気だ。だから、心配するな」
それだけ言い残して、高橋選手は控え室を飛び出していった。
瓜子は脱力して、蝉川日和の身にもたれかかる。そして立松が、鞠山選手を招き寄せた。
「それじゃあ、聞かせてもらおうか。これはいったい、どういう騒ぎなんだ?」
「わたいも道すがらで聞いただけだわだから、詳細はジョンコーチの連絡を待つだわよ。……とりあえず、ピンク頭はまた意識を失ったようだわね。そして今回は、それが分単位で続いたようだわよ」
鞠山選手は瓜子の正面で膝を折り、瓜子の顔を見つめながらそう言った。
「それで普段は間に合わない計測機器が間に合って、心肺の停止が確認されたようだわね」
「心肺の……停止?」
「これまでは確証が得られなかった事実に、確証が得られてしまったんだわよ。試合後に意識を失っている間、ピンク頭は呼吸も脈拍も心臓も止まってたんだわよ。だから救急病院に搬送されて、すぐさま精密検査を受けることになったんだわよ」
そのように語りながら、鞠山選手は瓜子の手をぎゅっとつかんできた。
「これまでも、救護スタッフはそんな風に証言してたんだわよ。だからべつだん、ピンク頭の症状が悪化したわけではなく……その症状に科学的な裏付けがされたに過ぎないんだわよ」
「だ、だけど、それじゃあ……これから、どうなるんスか? ユーリさんは、《ビギニング》の王者に勝ったんスよ?」
蝉川日和が上ずった声で問いかけると、鞠山選手はゆっくりと首を横に振った。
「それはわたいのあずかり知るところではないんだわよ。試合の後に何が起きようとも、ピンク頭が試合に勝った事実は動かないだわけど……今後のことを決めるのは、《ビギニング》とプレスマンの関係者一行なんだわよ」
瓜子は何だか、悪い夢にでも放り込まれたような心地であった。
鞠山選手と蝉川日和の温もりだけが、正気を保つためのよすがである。
そして、言葉も出ない瓜子の胸中には、ユーリに対する思いが暴風のように渦を巻いていた。
(ユーリさん……ユーリさんは、きっと大丈夫です。あたしもすぐに駆けつけますから、どうか元気でいてください)
そうして瓜子たちはスチット氏と運営スタッフが駆けつけるまで、ひたすら不安の重圧に耐え忍ぶことに相成ったのだった。
◇
瓜子がユーリと再会できたのは、それから数時間後のことである。
スチット氏から事情説明を受けた後、ともに救急病院まで駆けつけたのだが、ユーリは精密検査のさなかであったのだ。今回は最大級に念入りな検査であったことに加えて、ユーリは試合で負った怪我の治療も施されることになったので、それほどの時間がかかってしまったわけであった。
「さしあたって、大きな異常は発見されなかったそうです。ただ本日は、ユーリ選手も試合の負傷の影響が大きいので、明日からも検査入院していただければと考えています」
スチット氏は、そんな風に語っていた。
場所は病院の待合室で、プレスマン陣営はユーリ以外のメンバーが勢ぞろいしている。ユニオンMMAの面々も同行を願っていたが、それはお断りする他なかった。
「ユーリ選手も、現在は落ち着いているようです。ただ、いきなり大勢で面会するのは差し控えるべきではないかと思われます」
「それじゃあ、お前さんが代表者だな」
と、立松が瓜子の肩に手を置いてくる。
瓜子は「押忍……」と応じながら身を起こしたが、すぐに立ち眩みを起こしてソファに逆戻りしてしまった。瓜子も瓜子で、いまだ絶大なる虚脱感のさなかにあったのだ。
「蝉川、肩を貸してやれ。それとも、車椅子でも準備してもらうか?」
「いえ……大丈夫です……」
瓜子は蝉川日和の手を借りて、立ち上がった。
そうして看護師の案内で、病室を目指す。ユーリはこのまま、シンガポールの病院で検査入院することになってしまうのだ。
「……ユーリさんは、大丈夫ッスよ。これまで大丈夫だったんだから、絶対に大丈夫ッス」
蝉川日和は、そんな風に言い続けている。この際は、直情的な蝉川日和の言葉が瓜子の胸にしみいってしかたがなかった。
やがて看護師は、大きなドアの前で足を止める。
数多くの病院と同じように、横にスライドさせる形式のドアだ。移動式のベッドが通過できるぐらいの、大きなサイズであった。
瓜子は蝉川日和にお礼を言って、ひとりでそのドアをくぐる。
そうして病室に踏み込むなり、瓜子は息を呑むことになった。
ユーリは、奥側のベッドで座している。
淡いブルーの病院着を纏い、顔のあちこちにガーゼを貼られた、痛々しい姿だ。
しかしユーリはベッドを七十度ぐらいの角度に起こして、そこにゆったりと座しており――そして、夜の闇に閉ざされた窓の向こうにぼんやりと視線を飛ばしていた。
これはまるで、北米から移送されたユーリと、初めて面会した日であるかのようである。
あのときのユーリは無残に痩せ細っており、丸刈りにされた頭をニット帽に隠されていたので、今のユーリとは似ても似つかなかったが――ただその横顔に浮かべられた雪の精霊のごとき透明な表情が、瓜子にあの日の記憶を想起させてやまなかったのだった。
「ユ……ユーリさん……?」
瓜子が半ば無意識に声をかけると、ユーリはゆっくりとこちらに向きなおってきた。
その淡い色合いをした瞳は、やはり夢でも見ているかのようにぼんやりと霞んでいる。そしてユーリは、淡い雪のような微笑を浮かべた。
「うり坊ちゃん……だよね?」
「そ、そうっすよ。他の誰に見えるって言うんすか?」
ユーリは「ううん……」と首を横に振るだけで、瓜子の問いには答えなかった。
そのユーリらしからぬ態度にいっそう胸を騒がせながら、瓜子は両足を引きずってベッドへと駆けつける。そしてベッドの端に腰を下ろして、すぐさまユーリの白い手を取った。
「だ、大丈夫っすか、ユーリさん? 今のところ、検査結果に異常はないって話ですけど……」
「うん……ユーリは、すっごく楽しかったよぉ……」
ユーリは、にこりと微笑んだ。
だけどやっぱり、今にも溶けて消えてしまいそうな微笑みだ。ユーリは退院後も時おり雪の精霊のようにはかなげな姿を見せることがあったが、今は本当に入院時代に舞い戻ってしまったかのようであった。
「レベッカ選手は、すごく強くて……ユーリが何をやっても、全然通じなくて……でも、サキたんたちの言う通りに、へたっぴな打撃戦を頑張ってたら……最後にやっと、勝つことができたの……」
「ええ、自分も全部、見てたっすよ。あれは本当に、すごい試合でした。……ユーリさんが落ち込む理由は、ないっすよね?」
ユーリは瓜子の言葉を理解しかねた様子で、ぼんやりと小首を傾げた。
いよいよ胸を締めつけられながら、瓜子は感情のままに言いつのる。
「ユーリさんは宇留間さんとやりあった後、落ち込んでたじゃないっすか。自分なんかにMMAを楽しむ資格はないって。……今のユーリさんは、あのときとそっくりのお顔になってるっすよ」
「そうなの……? そんなつもりは、全然なかったんだけどなぁ……」
夢見るような眼差しで、ユーリはまた口もとをほころばせた。
「宇留間選手のことなんて、これっぽっちも思い出さなかったよ……ユーリは本当に、幸せで……幸せすぎて、これはやっぱり夢なのかなぁって思っちゃったんだよねぇ……」
そのように語りながら、ユーリは白魚のごとき指先に視線を落とした。
「それで病院に連れてこられて、あれこれ検査されてたら、なんだか頭がぼうっとしてきちゃって……ああ、やっぱりユーリはまだ入院中で、今までのことはぜんぶ夢なんだって気持ちになってきて……でも、ユーリはひょろひょろに痩せてないから、不思議な気分になっちゃって……」
「これは、夢じゃないっすよ。自分がいるのが、その証拠です」
瓜子は震える指先で、ユーリの指先を握りしめた。
顔をあげたユーリは、透明な笑顔にほんのりと幸せそうな表情をよぎらせる。
「ごめんねぇ……うり坊ちゃんは、夢の中にもたくさん出てくるから……それだけでは、なんの証拠にもならないのです」
「でも、これは現実なんです。だからどうか、しっかりしてください」
瓜子は目もとが熱くなるのを感じながら、ユーリの身を抱きすくめた。
ユーリは「うにゃあ」と子猫のような声をあげてから、瓜子の背中にそっと腕を回してくる。
「またうり坊ちゃんを心配させちゃって、ごめんなさい……でも……」
「でも、何ですか?」
「でも……ユーリはこれから、どうなるんだろうねぇ……」
それは瓜子にも、まったくわからない。
だけど今は、明日からのことなど何も考えられなかった。瓜子にとってもっとも重要であるのは、いま目の前にいるユーリの存在のみであったのだった。




