11 白き怪物とMMAマスター
タイトルマッチにまつわる下準備が完了すると、リングアナウンサーが選手紹介のアナウンスを始めた。
客席は、もはや熱狂の嵐である。そんな中、ユーリはいつもの調子でひらひらと手を振っていた。
いっぽうレベッカ選手は、沈着そのものである。
冷たい感じはしないものの、まったく内心はうかがえない。その分厚い肉体からは強烈な力感をみなぎらせつつ、彼女は静謐そのものであった。
レベッカ選手はブラジル大会において、瓜子の対戦相手であるエズメラルダ選手がウェイトを普段通りにリカバリーしていることを教えてくれた。そして自分の試合の後には、わざわざ控え室まで出向いて未来のライバルたるユーリに挨拶をしていたのだ。
きっと彼女は外見通り、柔和で人間らしい心を持った人物であるのだろう。
しかし試合が始まれば、無慈悲なまでに自分のファイトスタイルをつらぬき通す。エイミー選手もランズ選手も、イーハン選手もロレッタ選手も、ルォシー選手もジェニー選手も――瓜子が知る《ビギニング》のバンタム級のトップファイターたちは、誰ひとりとしてレベッカ選手に太刀打ちできなかったのだった。
(でも……ユーリさんなら、絶対に大丈夫ですよ……)
いまだ虚脱感のさなかにある瓜子は、懸命に目を凝らしてモニターを見守る。
ユーリとレベッカ選手はレフェリーのもとで向かい合い、ルール確認の言葉を聞いていた。
やはり体格は、レベッカ選手のほうが上回っている。
ただしユーリもこの近年でバンタム級らしいウェイトに増量したので、瓜子とイヴォンヌ選手ほどの差ではない。ただ、ユーリは筋肉が筋肉に見えない特異体質であるため、きっちり比較することも難しかった。
ルール確認を終えたレフェリーがグローブタッチをうながすと、ユーリはにこやかな面持ちで両手を差し出す。
レベッカ選手もやわらかな表情のまま、両手でユーリの拳を包み込んだ。
そうして両者は、フェンス際まで舞い戻り――試合開始のブザーが鳴らされる。
大歓声の中、二人はそれぞれよどみなく前進した。
どちらもクラウチングで、どちらも左の手足を前に出したオーソドックスの構えだ。
ユーリはぴょこぴょことしたせわしないステップであるが、レベッカ選手は足取りも落ち着いている。いかなる緊張もうかがわせない、脱力のきいた足運びであった。
中間距離に達すると、二人は間合いを探るべく前後にステップを踏み始める。
レベッカ選手が軽く左ジャブを見せたが、いかにも牽制の動きだ。その拳が当たる間合いに踏み込もうとはしない。
だが――次の瞬間、レベッカ選手が大きく踏み込んで、ユーリの鼻っ柱を左ジャブで撃ち抜いた。
一拍遅れて、ユーリが左のローを返す。しかしその頃には、レベッカ選手も間合いの外に逃げていた。
「さすがに、上手いだわね。外連味のない、いい動きだわよ」
「ああ。こっちも少しは、手の内を探る必要があるだろう。慌てるなよ、桃園さん」
鞠山選手と立松がそのように語る中、再びレベッカ選手の左ジャブがヒットした。
ユーリは、左のショートフックを返す。
このたびは、レベッカ選手もバックステップが間に合わず、右腕でその攻撃をガードすることになり――そして、ガードしたばかりの右腕で、右ストレートを射出した。
ショートフックを打ったばかりであったユーリは防御も間に合わず、左頬にクリーンヒットされてしまう。
それでもユーリは痛がる素振りもなく、レベッカ選手に組みつこうとした。
レベッカ選手はアウトサイドに回り込み、ユーリの顔に左ジャブを叩き込む。
ユーリが大急ぎでそちらに向きなおると、軌道の低い右ローを叩きつけてから、レベッカ選手は後方に逃げた。
すべてが、流れるような動きである。
瓜子が胸を騒がせる中、立松は「ふん」と鼻を鳴らした。
「桃園さんと真っ向から打ち合うなんざ、大した度胸だ。だけどこれなら、こっちもチャンスを広げられるだろう」
「そうだわね。さっきの一発はガードされただわけど、こんな早い段階でピンク頭のぶきっちょなパンチがヒットしたのは光明なんだわよ」
「ユーリさんのパンチって、めっちゃ重いッスもんねー! あんなの何発もガードしてたら、腕が上がらなくなるッスよー!」
ユーリは攻められている立場であるが、控え室の空気は明るい。ユーリは規格外の破壊力を有しているので、乱打戦ならぬインファイトであればいずれ活路が開けるはずであるのだ。
そんな中、レベッカ選手がまた大きく踏み込んだ。
今度は、右のミドルである。
それを左腕でガードしたユーリは、すぐさま距離を詰めようとしたが――それは、レベッカ選手に両腕でストッピングされてしまった。
そうしてユーリの接近を食い止めたレベッカ選手は、引いた左腕でジャブを叩き込む。
ガードの隙間をぬって、その拳はユーリの目もとにヒットした。
しかしユーリは飽くなき執念で、新たな手を見せる。
左右のワンツーに、左ミドルのコンビネーションだ。
それらのすべてを、レベッカ選手は両腕でガードした。
そして、最後の左ミドルを防御するなり、その腕でユーリの蹴り足をつかみ取る。さらにはそのまま前進して、ユーリをマットに押し倒した。
ユーリがマットに倒れ伏したならば、左足首をつかんだまま、膝の上部をおもいきり蹴りつける。
しかし、ユーリが左足をばたつかせるとすぐに解放して、最後のおまけとばかりに同じ場所を軽く蹴ってから、後ずさった。
やはり、ユーリを相手に寝技の勝負を挑むつもりはないらしい。
大歓声の中、ユーリはレフェリーの指示でゆっくり起き上がった。
「なんか……普通の試合ッスね」
瓜子の背中を支えた蝉川日和がそんな言葉をもらすと、鞠山選手がすぐさま「そうだわね」と反応した。
「つまり、レベッカにとってはいつものペースなんだわよ。これはちょっと、解釈が難しいところだわね」
「ああ。相手のペースで試合が進むのは避けたいところだが……しかし、桃園さんの攻撃もしっかり届いてるからな。我慢比べだったら、桃園さんも負けないだろう」
立松の声はずいぶん不明瞭であったし、瓜子もどちらかというと不安のほうがまさっていた。ユーリのコンビネーションを悠然と受けていたレベッカ選手の沈着さが、不気味でならなかったのである。
(普通はユーリさんの攻撃を一発ガードしただけで、もうこれ以上はもらいたくないって意識が芽生えるものなのに……レベッカ選手は、何も感じていないのか?)
レベッカ選手は、すでに四発もの攻撃をガードしている。バンタム級より軽い階級の選手であれば、それだけで腕が上がらなくなるほどの破壊力であるのだ。そして、たとえバンタム級の選手であろうとも、その腕には間違いなくダメージが溜まっているはずであった。
(どんなにダメージをもらっても、自分のスタイルをつらぬこうって考えなのか? だったら……いつかは、ユーリさんの破壊力が実を結ぶはずだ)
頭ではそのように考えても、不安の気持ちは消え去らない。
そして、そんな瓜子の不安に拍車を掛けようとばかりに、レベッカ選手がまた大きく踏み込んだ。
ステップの最後でインサイドに踏み込み、コンパクトなレバーブローを射出する。
ユーリは防御が間に合わなかったが、同時に左ローを出していた。おそらくユーリは右目を閉ざしていたためにレベッカ選手の動きを追い切れず、機械的にカウンターを返したのだ。
レベッカ選手のレバーブローはクリーンヒットして、ユーリの左ローはチェックで衝撃を逃がされた。
それでもユーリの怪力であるので、レベッカ選手も小さからぬ痛みを覚えたはずだが――レベッカ選手はその場に留まり、右フックから左のショートアッパーの連打を見せた。
右フックは何とかガードできたが、ショートアッパーはクリーンヒットされてしまう。
それでも、とっさに下顎を引いて耐えたのだろう。ユーリはいくぶんふらつきながら、後ずさり――そこに、レベッカ選手が左足を振り上げた。
ミドルと前蹴りの中間の軌道でレバーを狙う、三日月蹴りである。
瓜子は思わず息を呑んだが、ユーリは何とか右腕でガードしてくれた。
レベッカ選手もそこで追撃を取りやめて、両者の間に距離が生まれる。
ユーリは痛そうに右腕を振り、レベッカ選手は左足を振った。やはりチェックで衝撃を逃がしても、多少の痛みが残されたようだ。
「なんか……やな流れじゃないッスか?」
蝉川日和が、おそるおそるといった調子でそう言った。
「相手もダメージをもらってるみたいッスけど、ユーリさんのほうがダメージは大きいんでしょうし……それより何より、ユーリさんの試合っぽくないッスよ」
「ああ。レベッカ選手は本当に、桃園さんと真正面からやりあってるからな。これなら先に、レベッカ選手のほうが潰れそうなところだが……」
「まごうことなき、消耗戦だわね。ピンク頭にそんな真似をする人間はこれまで存在しなかったから、どうしたって不気味なんだわよ」
やはり他の面々も、瓜子と同じ不安にとらわれたようである。
ユーリのこれまでの試合に比べれば、一方的に攻め込まれているという印象ではない。ユーリもしっかり手を返して、相手に多少のダメージを与えているのだ。ユーリは粘り強いので、これなら最後に逆転勝ちを期待できる――はずだった。
(でもこれは、ユーリさんの試合じゃない。確かに攻撃は返せてるけど、ユーリさんらしい動きはまったくできていないんだ)
それでもなお、ユーリは逆転勝ちできるのか――これまでにそんな例が存在しなかったため、瓜子たちにもまったく想像がつかなかったのだった。
(今だって、レバーブローをクリーンヒットされた。このままいくのは……多分、危ない)
すると、ユーリがいきなり猛烈なアクションを見せた。
間合いの外からの、コンビネーションの乱発である。ユーリの優美かつ獰猛なアクションに、いっそうの歓声が巻き起こった。
すると――信じ難いことが起きた。
レベッカ選手が、自らその暴風の真ん中に飛び込んだのである。
ユーリは間合いの外でアクションを開始したので、そのまま距離を取ればやりすごすことができる。そして、その動きの終わり際か繋ぎ目を狙って攻撃を繰り出すのが、これまでの対戦相手たちの対処法であった。
しかしレベッカ選手は荒れ狂うコンビネーションのど真ん中に飛び込んで、受ける必要のない右フックをガードして、そして――ユーリの顔面に自らも右フックを叩き込んだのだった。
思わぬ反撃をくらって、ユーリの身体が斜めに傾く。
するとさらに、驚くべきことが起きた。レベッカ選手がユーリの胴体に組みついて、足を掛け、マットに押し倒したのだ。
ユーリがすかさずレベッカ選手の右足を両足でからめ取ったため、ハーフガードのポジションとなる。
レベッカ選手はその拘束から逃れようという動きも見せず、上体をあげて、ユーリの顔面に拳を振り下ろした。
左腕をユーリの右脇に差して、右拳をユーリの顔面に打ち込んでいく。
ユーリは左腕で頭部をガードしつつ、なんとか右腕でエスケープの動きを取ろうとしたが、レベッカ選手の差し上げの力が強いようで、実を結ばなかった。
「寝技なら、チャンスだぞ! 慌てることはないから、じっくりと――」
立松がそのように言いかけたとき、ユーリが自ら足を開いて、マットを踏みしめた。
マウントポジションを取られるリスクを背負って、別なるエスケープを試みようという動きだ。何にせよ、動きを起こせば逆転の目が出るはずであった。
だが――右足が自由になるなり、レベッカ選手は何の未練もなく立ち上がって、距離を取ってしまう。
ユーリはなおも足を開いてグラウンド戦に誘ったが、レベッカ選手は間合いの外で動こうとしなかった。けっきょくレフェリーの指示で、スタンドから再開である。
そうして、ゆっくり身を起こしたユーリは――さらに、ダメージが深まっていた。
パウンドの何発かは顔面に入っていたし、その前から攻撃をくらっていたのだ。左右の目尻には血がにじみ、頬や顎にも赤みが残されていた。
「……どうやら、あの禍々しいコンビネーションの中に割って入った甲斐はあったようだわね」
鞠山選手が、内心を隠した声音でつぶやく。
レベッカ選手はケージの中央で、左腕を軽く振っていた。コンビネーションの渦中に飛び込んだレベッカ選手は、左腕で猛烈な右フックをガードすることになったのだ。
それでまた、レベッカ選手は多少のダメージを負ったようだが――それに倍するダメージを、ユーリの身に残していたのだった。