10 戴冠
第二ラウンド、三分十八秒、バックスピンハイキックで瓜子のKO勝利――それがのちのち聞かされた、試合結果であった。
瓜子はずっと深海でもがいているような心地であったが、実際には三分ていどしか過ぎていなかったのだ。今回は、とびきりの超常体験を味わわされたような心地であった。
なおかつ、イヴォンヌ選手は一時的に意識を飛ばされたようだが、目を覚ましたのちは元気そのものであった。準備された担架を笑って拒否して、力強い足取りで花道を戻っていったのだ。
いっぽう瓜子は当然のように自分の足で立つこともままならず、蝉川日和に支えられた状態で勝利者インタビューを受けることになった。
それにどんな応答をしたのかも、あまり記憶に残されていない。瓜子の身には、一滴の余力も残されていなかったのだ。
しかし――勝利したのは、瓜子である。
おそらく生き物としては、イヴォンヌ選手のほうがよほど強靭であるのだろう。だが、MMAのルール上、勝利したのは瓜子であった。
「お前さんもイヴォンヌ選手も、どっちも立派な化け物だよ! とにかく、よくやった!」
大歓声に見送られながら花道を踏み越えた後、立松は氷嚢で瓜子の頭をかき回しながら、そんな風に言ってくれた。その力強い感触と温かい笑顔で、瓜子もようやく勝利の実感を噛みしめることがかなったのである。
気づけば、瓜子の腰には《ビギニング》のチャンピオンベルトが巻かれている。
そんなことも気づかないまま、瓜子は数分の時を過ごしていたのだ。いったいどれだけ無防備な姿を全世界にさらしていたのかと、今さらながらに嘆息をこぼしたい気分であった。
そうして控え室に戻ると、ドアの前にユニオンMMAの三名が立ち並んでいた。
その中からグヴェンドリン選手が駆けつけて、瓜子の拳をそっとつかんでくる。グヴェンドリン選手は子供のように笑っており、少しだけ涙をにじませていた。
「ウリコ、モンスターです。そして、イダイなチャンピオンです。ワタシ、チャレンジ、ガンバります」
瓜子はまだ意識も朦朧としていたので、「押忍……」と答えることしかできなかった。
エイミー選手とランズ選手は、口々に「オメデトウ」という言葉を伝えてくる。瓜子は笑顔を返したつもりであったが、もはや表情筋の制御もままならなかった。
そんな瓜子の悲惨な状態を察してか、グヴェンドリン選手たちも多くは語らず引き下がっていく。
そうして控え室のドアをくぐると、ユーリ陣営の四名が取り囲んできた。
「ったく、綱渡りの綱がぶっち切れても、あきらめねーとはな。もはやホラー映画でも見てるような気分だったぜ」
「それでも、執念でベルトをもぎ取ったね。やっぱりあんたはすごいよ、猪狩」
「ウリコは、タイヘンだったねー。でもまた、セイチョウできたねー」
瓜子はやっぱり、ゆるんだ顔で「押忍……」と答えることしかできない。
すると、ユーリが瓜子の身をふわりと抱きすくめてきた。
ユーリの接触嫌悪症を知らされている蝉川日和は、大慌てで遠ざかる。
そうして瓜子の身を独占したユーリは、壊れ物でも扱うかのようにやわらかく力を込めてきた。
「おめでとう、うり坊ちゃん。今日もすっごくかっちょよかったよ」
瓜子は「押忍……」と応じながら、ユーリの温かい腕に身をゆだねる。
瓜子はそのまま安らかな眠りに陥ってしまいそうだったが、立松の声がすぐ横合いから飛ばされてきた。
「桃園さん、そのまま猪狩をマットに座らせてやってくれ。今日は入念にクールダウンさせる必要があるんでな」
ユーリは「はぁい」と応じながら、瓜子をマットの上にいざなった。
そうしてマットに座らされて、ユーリの温もりが遠ざかっていくと、別の誰かに背中を支えられる。瓜子は無意識の内にユーリのほうへと手を差し伸べようとしてしまったが、右腕も左腕もぴくりとも動いてくれなかった。
「いちおうドクターに問題はないって言い渡されているが、さんざんパウンドをくらったんだからな。明日は観光の前に、病院だぞ」
立松の力強い腕が、瓜子の全身を氷嚢でマッサージしていく。
その後には誰かの手でバンテージが外されて、動かない左腕を横にのばされた。
左肘のあたりに冷たいものを掛けられて、やわらかなものを押し当てられると、熱い痛みが走り抜ける。瓜子が軋む首を動かしてそちらを振り返ると、瓜子の左腕を膝の上にのせた鞠山選手が、肘のあたりに包帯を巻いているさなかであった。
「あんた、肘の皮膚がずるむけだわよ。トシ先生が悲嘆の雄叫びをあげる姿が目に浮かぶだわね」
「レバーのあたりも、青くなってきたな。蝉川、湿布を取ってくれ。鞠山さん、そっちが済んだら顔のほうもよろしくな」
瓜子は絶大な虚脱感に見舞われているばかりでなく、満身創痍であったのだ。特に治療が必要であるのは、マットの摩擦で皮膚が破けた左肘と、パウンドをくらいまくった顔面およびレバーであるようであった。
そんな中、視界の端ではユーリたちがウォームアップの締めくくりに入っている。誰も関心を寄せていないモニターからは、ひっきりなしに歓声が聞こえていた。
やがてすべての処置を終えた瓜子は、蝉川日和と鞠山選手の手によってウェアの上下を着させられる。これだけ時間が経過しても、まだ瓜子の身はまともに動きそうになかったのだ。この後にユーリの試合が控えていなければ、さっさと夢の世界に逃げ込みたいぐらいであった。
(本当に、イヴォンヌ選手は強かったなぁ……)
瓜子は今日、限界のさらにその先まで足を踏み入れることになった。これまでの試合でそんな状況まで追い込まれたのは、やはりサキおよび赤星弥生子との一戦のみであったのだ。
おそらくサキや赤星弥生子であれば、こうまでイヴォンヌ選手に苦しめられることはないのだろう。それは、体格やファイトスタイルに起因する相性によるものだ。しかし少なくとも瓜子にとって、イヴォンヌ選手はサキや赤星弥生子に匹敵するぐらいの強敵であったのだった。
(それで、メイさんは……きっと、この後に仲間入りするんだ)
瓜子とメイが対戦したのは、もはや三年前の話であるのだ。あの頃はおたがいに未熟であったため、この近年の試合と比較することも難しかった。
しかし瓜子は、メイがめきめき成長していく姿を目の当たりにしていたし――二年前のキックルールで行われたエキシビションマッチでは、瓜子が先にダウンをもらっていたのだ。あれがMMAルールであったならば、瓜子は今日と同じぐらい追い込まれていても不思議はなかった。
それにそもそも瓜子が集中力の限界突破などという得体の知れない領域を体験することになったのは、メイとの試合が引き金であったのだ。
そういう意味でも、今の瓜子があるのはメイのおかげであったのだった。
(今日の試合を観て、メイさんがガッカリしてないといいな……日本に帰ったら、テレビ電話でもさせてもらおうかなぁ……)
蝉川日和の手に背中を支えられながら、瓜子はぼんやりと思考を巡らせる。
そんな中、モニターからの歓声がいっそうの熱気を帯びた。どうやら、フライ級のタイトルマッチが終わったようである。
「どうやら王者が、崖っぷちで踏み止まったようだわね。なんとかかんとか、シンガポールの面目が守られたんだわよ」
「ああ。この次には、また余所者にベルトを持っていかれちまうからな」
立松が威勢のいい声で応じながら、ユーリのほうを振り返った。
「頑張れよ、桃園さん。チャンピオン様のポーカーフェイスを、木っ端微塵にしてやれ」
「ふふん。とにかくあんたは、大暴れすることだわね。勝機は、そこにしかないんだわよ」
「頑張ってください、ユーリさん! 猪狩さんと一緒に、ベルトを持ち帰りましょう!」
ユーリは「はぁい」と応じながら、瓜子のもとに歩み寄ってきた。
そうして瓜子の前で屈みこむと、グローブをはめた手で瓜子の手を握りしめてくる。その色の淡い瞳には、とても優しい光が宿されていた。
「それでは、いってくるのです。ねむねむになったら、夢の中で応援してね?」
「ユーリさんの試合中に、寝たりしないっすよ……頑張ってくださいね、ユーリさん……」
瓜子はこわばる指先で、ユーリの温かい手を握り返した。
ユーリは「うん」と無邪気に笑い、逆側の丸めた拳を瓜子の手の甲に押し当ててくる。
そうしてユーリたちは、控え室を出ていった。
ついに本日の興行も、メインイベントだ。ユーリがレベッカ選手の王座に挑戦する、バンタム級のタイトルマッチ――モニターからは、早くも歓声がわきたっていた。
「すみません……もうちょっと、モニターに近づいていいっすか……?」
「ああ。いっそマットごと引きずってやるか」
立松と鞠山選手の手で、瓜子をのせたマットがモニターの正面まで引きずられていく。その間も、蝉川日和がずっと瓜子の背中を支えてくれていた。
「そういえば、フライ級の試合ってどうなったんスか? あたし、ぜんぜん見てなかったんスよねー」
「3対0で、王者の勝利だよ。そこまで実力差はないように思えたが、終わってみればフルマークだったな」
「そうだわね。挑戦者の勢いを王者がうまく受け流した格好だわね。やっぱり地元で腰を据えると、《ビギニング》の王者はしぶといだわよ」
「でも、王座を守れたのはフライ級だけですもんねー。ユーリさんも、きっと勝ってくれるッスよ!」
人数が半分に減っても、控え室の賑やかさに変わりはない。
それにやっぱり瓜子が勝利したことで、みんな意気をあげてくれているのだろう。そんな風に考えると、瓜子の胸にじんわりとした熱が灯された。
(あたしはもう、《ビギニング》の王者なんだ……なんだか、これっぽっちも実感がないなぁ)
今は頭もぼんやりしており、まともにものを考えることも難しいのだ。王者としての自覚というものは、明日から身につけたいところであった。
(もちろん、ユーリさんも一緒にっすよ……頑張ってくださいね、ユーリさん……)
すると、瓜子の思いに応えるかのように、『Re:Boot』のイントロが響きわたった。
大歓声の中、花道がスポットに照らされる。そしてその輝きの中に、ユーリの姿が躍り出た。
ピンクとホワイトのウェアを纏ったユーリが、満面の笑みで花道を闊歩する。
やはり異国のタイトルマッチでも、ユーリの心持ちに変わりはないようだ。客席に手を振って、スキップするような足取りで進軍するユーリは、いつも通りの無邪気さであった。
ユーリがボディチェックのためにウェアを脱ぎ捨てると、いっそうの歓声が渦を巻く。
ウェアと同じカラーリングをしたハーフトップとショートスパッツで、そこからこぼれた白い肌から色香が匂いたっている。ユーリの場合は気合を入れれば入れるほど、色香ばかりがブーストされるように感じられてならなかった。
そうしてユーリがケージインしたならば、赤コーナー陣営からレベッカ選手が入場する。
こちらは、沈着なる面持ちだ。レベッカ選手はこれといって特徴のない無個性な顔立ちで、首から上だけを見ていたらファイターとは思えないほど柔和な印象であった。
しかしもちろん、その肉体は極限まで鍛え抜かれている。
ボディチェックのためにウェアを脱ぐと、その頑強なる肉体があらわにされた。
レベッカ選手の背丈は百七十センチで、すらりと均整の取れた体格をしている。
ただし、赤星弥生子やベリーニャ選手よりは遥かに逞しい。そちらの両名は平常体重で試合に臨んでいるが、レベッカ選手は大きくリカバリーしているのだろう。さらには骨格の頑健さも相まって、おそらくは赤星弥生子たちよりもひと回りは分厚い体格をしていた。
腕も足も、首も腰も、しっかりと太い。イヴォンヌ選手ほど極端な体型ではないが、どこにも偏りのない理想的なシルエットだ。彼女の場合は、外見からしてファイターとして完成されていた。
『パーフェクト・マシーン』という異名を持つイヴォンヌ選手に対して、レベッカ選手は『MMAマスター』と称されている。王道のファイトスタイルをつらぬく両名は、かたや機械、かたや達人と呼ばれているわけであった。
(まあ、そんな呼び方はどうでもいいけど……レベッカ選手もイヴォンヌ選手に負けないぐらい、スタイルが完成されてるからな……)
しかしそれでも彼女たちは、《アクセル・ファイト》の王座には届かないだろうと囁かれている。近代MMAの王道たるボクシング&レスリングは北米においてもはや研究され尽くしており、そこにもう一点なんらかの強みを持っていなければ通用しないだろうという話であったのだ。
しかしそれでも、レベッカ選手は《ビギニング》の絶対王者として君臨している。
王道のスタイルを完成させた彼女は、すべての挑戦者を下してその座に居座っているのだ。どこにも隙のないレベッカ選手のスタイルを、ユーリが持ち前の爆発力で突き破れるか――これは、そういう勝負であったのだった。
(あたしにだってできたんだから、ユーリさんだったら大丈夫です……自分の力を、信じてください……)
そうして、レベッカ選手もケージの内に乗り込んで――ついに、その一戦が開始されたのだった。




