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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
32th Bout ~Autumn of Change~
882/955

09 死中の活

「背筋をのばして、ゆっくり深く呼吸しろ。この一分間で、できる限りスタミナを取り戻すんだ」


 瓜子の手足を氷嚢でマッサージしながら、立松はそのように言いたてた。

 瓜子は椅子に座っており、首筋にも氷嚢が押しあてられている。蝉川日和がフェンスから身を乗り出して、瓜子の過熱した頭を冷やしてくれているのだ。


 瓜子の全身が熱を持っており、肺は焼けるように痛い。限界突破すれすれの状態で数分間を過ごした瓜子は、スタミナの消耗が甚大であった。

 それに、小さからぬダメージも負っている。試合序盤のレバーブローと、終盤のパウンドだ。あとは何度となく拳や蹴りにさらされた両腕も、鉛のように重くなっていた。


 こんな状態でインターバルを迎えたのも、やはり赤星弥生子との一戦以来である。それ以降はどれほど苦しい試合でも一ラウンド以内に決着がついていたので、当然の話であった。


「あんたの有効打は、アッパーの一発のみだっただわね。しかも、まったくダメージを与えられなかったんだわよ」


 背中から、鞠山選手の声が聞こえてくる。


「ただ、これまでイヴォンヌに有効打を与えられた人間は、数えるほどしか存在しないんだわよ。だからまあ、健闘してると言えなくもないだわけど……このままいったら、健闘どまりだわね」


「ああ。苦しいだろうが、折れるなよ。作戦通り、なんとか自分から手を出していくんだ。攻撃は最大の防御だぞ」


 立松のそんな言葉が、瓜子にひとつの疑念を抱かせた。


「すいません……今は、どんな試合になってますか……?」


「あん? どんな試合って……イヴォンヌ選手の、いつものペースだよ。お前さんだって、やっこさんの試合は死ぬほど見返してるだろ?」


 そんな風に言いながら、立松はぐっと顔を近づけてくる。


「もしかして、記憶がないのか? 頭のダメージが、そんなにでかいのか?」


 口をきくのもしんどい瓜子は、「いえ……」としか答えることができなかった。

 瓜子は試合の内容を、しっかり把握しているつもりでいる。ただ、傍目からどのように見えているかを確認しておきたかったのだ。


(イヴォンヌ選手の、いつものペース……あたしはあれだけ必死だったのに、なんの成果もなかったんだ)


 試合映像のイヴォンヌ選手は、いつも軽々と試合をこなしているように見える。瓜子との試合も、いまだその枠から出ていないのだ。つまりこのペースで試合を続けても、最後には判定負けが待っているだけであった。


(イヴォンヌ選手の裏をかけたからこそ、アッパーを当てられたけど……あんなていどじゃ、駄目なんだ。しっかりダメージを与えないと、イヴォンヌ選手のペースは崩せない)


 それに、立松も鞠山選手も何ら細かい指示を出そうとしない。

 それもまた、イヴォンヌ選手が平常通りであるという事実を示していた。何ら新しい発見も展開もないために、助言の送りようがないわけであった。


 誰よりも敏捷かつ的確なイヴォンヌ選手に、機動力と武器の多さで対抗する。

 それが、瓜子に与えられた命題だ。瓜子はそれを、ひとつも遂行できていなかったのだった。


「苦しいだろうが、とにかく手を出せ。顔でもボディでも足でもいい。自分の力を信じるんだ」


 立松のそんな言葉に、『セコンドアウト!』のアナウンスがかぶせられた。

 瓜子は最後にひと口だけ水分を補給してから、マウスピースをくわえなおす。立松は最後まで、氷嚢で瓜子の頭をかき回してくれた。


「いいか、絶対にあきらめるなよ! お前さんなら、絶対に勝てる! 機械だって、いつかは必ずぶっ壊れるんだ!」


 立松の指示は、最後まで具体性を帯びなかった。

 ただその激励が、瓜子の心にしみこんでいく。今の瓜子に必要であるのは、死地に飛び込む勇気と覚悟であった。


(あたしは、まだまだ甘かった。最初から、死ぬ覚悟が必要だったんだ)


『ラウンドツー!』のアナウンスと、試合再開のブザーが鳴り響く。

 瓜子は最後に大きく息を吸って、突進した。


 イヴォンヌ選手は、悠然たる面持ちで進み出てくる。

 その瞳は、むしろ期待に輝いているように見えた。


(イヴォンヌ選手は、あまり気迫が外にこぼれない。そういう部分は、ユーリさんに似ていて……だからあたしも、エンジンのかかりが遅かったんだろう)


 瓜子は相手の気迫を感じるほどに、集中力が研ぎ澄まされていく。

 今にして思えば、本日は最初の集中が足りていなかった。それでイヴォンヌ選手の猛攻にさらされる内に、ようやく限界まで集中が研ぎ澄まされたのだ。


 それはまさしく、ユーリとのエキシビションマッチと同じ流れであった。

 あの日も瓜子はユーリの寝技の圧力でもって、集中を余儀なくされたのである。


(だから、あの日みたいに深い呼吸を心がけて、長い試合にも対応できるようにって考えたけど……それが、甘かったんだ)


 あれは限界を突破するかどうかというぎりぎりのラインであり、だからこそスタミナの消耗も比較的ゆるやかなのである。

 しかし、イヴォンヌ選手を相手に、それでは足りなかった。瓜子はスタミナの消耗を恐れることなく、すべての力を振り絞るべきであったのだ。


(それで攻撃をしのがれたら、あとには地獄の苦しみが待ってるけど……サキさんのときだって弥生子さんのときだって、それを乗り越えたからこそいい勝負ができたんじゃないか)


 サキや赤星弥生子と対戦した際、瓜子は二度の限界突破を経験した。赤星弥生子との対戦ではそれでも決着がつかず、おたがいに死にかけているような状態でタイムアウトを迎えることになったのだ。


 瓜子に必要であったのは、またあの地獄のような時間を過ごす覚悟であった。

 死力を尽くしても決着がつかなかったら、何度でも死力を尽くすのだ。このイヴォンヌ選手を打ち倒すのに、それ以外の選択肢は見当たらなかった。


 瓜子は蹴りの間合いに踏み込むと同時に、右のハイキックを振りかぶる。

 隙の多い大技であるが、それもひとつの覚悟の表明であった。


 ずばぬけた敏捷性と反応速度を有するイヴォンヌ選手は、スウェーバックでハイキックを回避する。

 勢い余って、瓜子は一回転してしまった。

 その間に接近されることを想定して、瓜子はバックスピンエルボーも連動させている。

 しかしイヴォンヌ選手はそれすらも想定して、頭を屈めつつ瓜子の胴体に組みついてきた。


(……そうきたか)


 瓜子はバービーの要領で、後方に足を跳ね上げた。

 しかし相手が組みついているのは胴体であるので、それでは逃げきれない。両足が浮いている時間、さらに押し込まれるだけの話であった。


 一メートルばかりも押し込まれたのち、瓜子の両足がマットに舞い戻る。

 その落下の反動を利用して、瓜子はもういっぺんマットを蹴った。


 瓜子の身は、さらに後方に押し込まれる。

 その間に瓜子は首をねじ曲げて、フェンスの位置を確認した。

 フェンスは、まだ遠い。このままでは、フェンスの手前で押し倒されることだろう。


 よって瓜子は、三たびマットを蹴った。

 移動距離は、合計で三メートル。それでようやく、目的の位置にまで達した。


 瓜子の奇怪な動きに惑わされることなく、イヴォンヌ選手はさらにぐいぐいと前進してくる。

 その両肩に手を置いて、瓜子はめいっぱいの力で後方のフェンスを蹴り抜いた。


 さすがのイヴォンヌ選手も意表を突かれたようで、後方にひっくり返る。

 ともに倒れ込んだ瓜子はイヴォンヌ選手の腕をもぎ離して、いち早く身を起こした。


 そして、立ち上がろうとするイヴォンヌ選手の腹をめがけて、蹴りを繰り出す。近代のMMAでは滅多に使われることのない、サッカーボールキックだ。

 イヴォンヌ選手は両腕を十字に組み合わせて、その荒っぽい攻撃をガードした。

 瓜子はずっとMMAの常道から外れた動きをしているのに、惑わされている様子はまったくない。その黒い瞳は、いまだ期待にきらめいていた。


(あなたにとっては、暴れる子供を相手取ってるような心地なのかな)


 それでも瓜子は、動き続けるだけである。真っ当な攻防では勝機も見えないので、今はがむしゃらに仕掛けるしかなかった。


 瓜子は息をつく間もなく、身を起こしたイヴォンヌ選手に右のカーフキックを叩きつける。

 イヴォンヌ選手は左かかとを浮かせて、その衝撃を受け流した。


 瓜子は蹴り足を前におろして、右のストレートに連動させる。空手流の、追い突きだ。

 イヴォンヌ選手は首をねじって、それを回避した。


 そして、頭部をガードした瓜子の左腕に、重い衝撃が走り抜ける。

 カウンターの、右フックだ。鉛のように重い瓜子の左腕が、さらに削られた。


 そして気づけば、イヴォンヌ選手の身が沈んでいる。

 今度は、両足タックルである。

 瓜子は視界がかすんでいくのを感じながら、また後方に足を跳ね上げた。


 無茶な動きの連続で、瓜子の肉体はどんどん過熱していく。

 しかしそれに比例して、頭の中身がすうっと澄みわたっていき――瓜子は至極あっさりと、集中の限界を突破した。もとより瓜子はそのボーダーラインを保持していたので、限界は目の前に迫っていたのだ。


 両足タックルを回避されたイヴォンヌ選手は、瓜子の眼下で身を屈めている。

 その分厚い肉体から発散される力感が、これまで以上にまざまざと感じられた。瓜子の身に触れている箇所からは、筋繊維の微細な動きまで感じ取れるかのようだ。


 しかし、こんな状態は一分ももたない。

 そして第二ラウンドは、まだ始まったばかりだ。もしもあと数十秒で仕留めることができなければ、残りの時間はスタミナが枯渇した状態でイヴォンヌ選手の猛攻をしのがなければならなかった。


(それが、覚悟を決めるってことだ)


 瓜子は一ラウンド目と同じように、イヴォンヌ選手の首を抱え込もうとした。

 集中力の限界突破を迎えたがために、より正確な動作でフロントチョークを狙うことができる。イヴォンヌ選手が雑に逃げようとすれば、技を完成させることも夢ではないはずであった。


 だが――イヴォンヌ選手の肉体から、逃げようという気配は感じられない。

 そうと知覚した瞬間、瓜子は大急ぎで右腕の拘束を解除した。


 それと同時に、イヴォンヌ選手の上体がぶんっと持ち上げられる。

 そうして瓜子と真正面から相対したイヴォンヌ選手は、不思議そうに目を丸くした。


 イヴォンヌ選手は瓜子のフロントチョークが完成すると同時に、瓜子の身を持ち上げようと画策したのだ。瓜子が腕をほどかなかったら、そのまま空中で一回転してマットに叩きつけられていたはずであった。


(本当に、なんて判断の早さだ)


 瓜子は目の前にたたずむイヴォンヌ選手に、ムエタイ流の縦肘を繰り出した。今この状況では、それがもっとも手早く仕掛けられる攻撃であった。


 イヴォンヌ選手も瓜子に逃げられたことが想定外であったためか、反応が遅れている。

 しかしそれでも次の瞬間には、ぐいっと距離を詰めてきた。

 瓜子の肘は勢いが乗る前に、イヴォンヌ選手の胸もとに激突する。

 イヴォンヌ選手は痛痒を受けた様子もなく、瓜子につかみかかってきた。


(やっぱり、組み技か)


 瓜子が望むのは、インファイトの攻防である。だからこそ、イヴォンヌ選手は別なる攻撃を仕掛けてきた。

 瓜子はイヴォンヌ選手の胸もとにぶつかった右肘を支点にして、身をねじる。そうしてイヴォンヌ選手の両腕から逃げつつ、左フックを繰り出した。


 ほとんど密着した位置取りでも最大限の破壊力を発揮できるように、可能な限り肘をたたんで、コンパクトな軌道を心がける。

 これはさすがに、回避できないだろう。この領域にある限り、反応速度は瓜子のほうがまさっていた。


 狙い通り、瓜子の拳はイヴォンヌ選手のこめかみにクリーンヒットする。

 だが――イヴォンヌ選手の頭部は、小揺るぎもしなかった。

 まるで、木の幹を叩いたような感触である。

 一ラウンド目のアッパーと同じように、首を固めて衝撃に耐えたのだろう。イヴォンヌ選手の分厚い首には、それだけの頑丈さが備わっていた。


(これじゃあ、ダメージを与えられない。頭より、ボディか?)


 瓜子は左拳を引きながら、右拳を旋回させた。

 ボディでも、みぞおちやレバーにヒットさせない限りは、大したダメージも望めないだろう。右拳であれば、みぞおちを狙う他なかった。


 しかしイヴォンヌ選手の左腕は、すでにボディを守っている。

 信じ難いほどの、反応速度である。瓜子は集中力の限界突破を迎えたことで、イヴォンヌ選手の強靭さをいっそうまざまざと知覚させられていた。


(確かに他のトップファイターと比べても、ゼロコンマ数秒の差なんだろう)


 しかしその差が、イヴォンヌ選手を絶対王者に仕立てあげている。ユニオンMMAの面々が語っていた言葉は、どうやら正しく真実を言い当てているようであった。


(ただ、反応速度だったらサキさんや弥生子さんも負けてない。でもイヴォンヌ選手は、あの二人よりも頑丈なんだ)


 アトム級のサキはもちろん、バンタム級の赤星弥生子でも頑丈さはイヴォンヌ選手に負けることだろう。おそらくイヴォンヌ選手は赤星弥生子と同じぐらいのウェイトにリカバリーしているし、背丈が低いぶん分厚い体格をしているのだ。そして骨格も、日本人より頑健であるのだった。


 だからイヴォンヌ選手は、その頑丈な肉体で瓜子の攻撃に耐えることができる。

 それは、サキにも赤星弥生子にも成し遂げることはできない、イヴォンヌ選手ならではのストロングポイントであった。


(もっと力のある攻撃じゃないと、イヴォンヌ選手は倒せない。距離を取って、技の選択肢を増やすんだ)


 そうして瓜子が思考を巡らせている間に、ようやく右拳がイヴォンヌ選手の左腕にヒットした。

 やはりイヴォンヌ選手の身は、びくともしない。瓜子の硬い拳は痛かろうが、さしたるダメージでもないだろう。イヴォンヌ選手の前腕は、丸太のように太いのだ。


 瓜子は新たな選択肢を求めて、前に出していた右足を引く。

 すると、イヴォンヌ選手が同じだけ前進してきた。


 これもまた、瓜子が嫌がる行動だ。

 うんざりするぐらい、イヴォンヌ選手の行動は的確だった。


 そしてその目はきらきらと輝きながら、瓜子を見つめている。

 次はどんな攻撃を仕掛けてくるのかと、期待しているかのようだ。


 それで瓜子は、理解した。

 やはりイヴォンヌ選手は、心から試合を楽しんでいるのだ。

 そしておそらく、相手を叩き潰そうという意識を持っていない。この楽しい時間が一秒でも長く続くようにと願いながら、総身の力を振り絞っているのだった。


(やっぱりユーリさんとも、ちょっと違うみたいだな。それに……あたしとは、全然違う)


 瓜子が求めているのは、勝利である。

 勝利だけが絶対だとは言わないが、勝利するために死力を尽くしたい。瓜子は試合の攻防を楽しんでいるのではなく、正しい道筋で力を振り絞ることに楽しさを見出しているのかもしれなかった。


(まあ、そんな話は二の次だ)


 瓜子はイヴォンヌ選手から遠ざかるべく足を使いつつ、視界がどんどん白く濁っていくのを自覚している。酸素の供給をストップしている瓜子の限界は、もはや目前に迫っていた。


 しかしどれだけステップを踏んでも、イヴォンヌ選手との間合いは開かない。

 あちらは、瓜子よりも敏捷であるのだ。瓜子の機動力で、なんとか一定の間合いが保たれているに過ぎなかった。


(もう時間がない。この間合いで、なんとか有効な攻撃を叩き込むんだ)


 遠心力を利用したバックスピンエルボーならば、ダメージを与えられるかもしれない。

 だが、いきなりそんな大技を仕掛けても、あえなくガードされるだけだろう。攻防の中で相手の間隙を突かない限り、勝機はなかった。


(インファイトで、そのチャンスをつかむ)


 そんな覚悟を固めて、瓜子は迫りくるイヴォンヌ選手に右アッパーを繰り出した。

 それを左腕でガードしたイヴォンヌ選手は、右フックを返してくる。

 瓜子はダッキングでそれを回避したが、それを追いかけるようにしてイヴォンヌ選手も頭を下げてきた。


 瓜子のアッパーを防ぐなり、また組みつきを狙ってきたのだ。

 ことごとく、イヴォンヌ選手は嫌な方向から仕掛けてきた。


(そうか。それなら――)


 組みつきに対するカウンターは、瓜子もさんざん稽古を重ねてきた。

 そしてカウンターであれば、相手の突進力も攻撃力に加算することができる。

 一瞬でそのように判断した瓜子は、テイクダウンを取られるリスクを恐れずに右膝を振り上げた。


 このタイミングであれば、悪くない。

 それでもKOは難しいため、追撃も必要になるだろう。これだけ密着していれば、狙い目は肘打ちであった。


(右膝から、左肘。肘をかわされたら、右の――)


 瓜子のそんな思考が、白い爆発で四散した。

 何が起きたのか、理解できない。視界が一気に白濁して、上下の感覚が失われていた。


 研ぎ澄まされた感覚の余韻のように、右のこめかみ付近に空気の流れを感じる。

 おそらく――なんらかの攻撃で、右のこめかみを叩かれたのだ。先刻までの位置関係から、左フックと考えるのが妥当であった。


(タックルはフェイントで、本命は左フック……やられちゃったな)


 瓜子が集中力の限界突破を迎えた状態で不意打ちをくらうというのは、初めての体験である。

 イヴォンヌ選手は、それほどの実力者であったのだ。

 遠ざかる意識の中で、瓜子はいっそ清々しい心地であった。


(きっとサキさんや弥生子さんなら、イヴォンヌ選手にも勝てるんだろう。あたしだってサキさんに勝てたし、弥生子さんとは引き分けたけど……あの二人だったら、そもそもイヴォンヌ選手とインファイトでやりあわずに済むもんな)


 しかしイヴォンヌ選手よりも背が低い瓜子は、インファイトで勝機をつかむしかなかったのだ。

 その結果が、これであった。

 しかし――


(……メイさんだったら、どうなんだろう?)


 メイも背丈は、瓜子と変わらない。

 機動力は瓜子のほうが上だが、突進力はメイのほうが上である。多彩な打撃技ならば瓜子、組み技や寝技の技術であればメイ――背丈や骨格の出来が似ていても、ファイトスタイルには大きな差があった。


(メイさんなら、イヴォンヌ選手に勝てるかもしれない。それに――)


 意識が失われるその瞬間まで、試合をあきらめることはないだろう。

 瓜子もまた、それは同様であった。


(今、あたしはどういう状況なんだろうな)


 瓜子は四散していく意識をかき集めて、なんとか自分の輪郭を整えようと試みた。

 すると、おかしな角度でイヴォンヌ選手の姿が浮かびあがる。

 瓜子の視界の中で、イヴォンヌ選手は真横の体勢になっていた。


 しかしもちろん、イヴォンヌ選手が横たわっているわけではない。

 彼女は、左フックを振り抜いた体勢を取っているのだ。

 つまり、横になっているのは瓜子のほうであったのだった。


(でも……あたしがマットに倒れてたら、イヴォンヌ選手を見上げる角度になってるはずだよな)


 イヴォンヌ選手は、空中で真横になっている。

 であれば――瓜子は今まさに、横合いに倒れ込んでいるさなかであった。


(まだそんな段階だったのか。一秒も経っていない間に、どれだけ考え込んでたんだろう)


 瓜子は苦笑したいような気分で、さらに自分の輪郭を整えた。

 口から咽喉、咽喉から肺までのイメージを固めて、大きく息を吸う。

 途端に、夢心地であった意識に激烈な痛みと虚脱感が降り注いできた。


 頭が、焼けるように痛い。

 これは、左フックのダメージであろうか。あるいは、酸欠の症状であろうか。

 しかし何にせよ、その痛みが瓜子を覚醒させた。


 倒れ行く身体に、重力を感じる。

 その重力をてこの原理で利用するような感覚で、瓜子は上体を倒しつつ右足を振り上げた。


 イヴォンヌ選手は左フックを振り抜いたところであるので、頭部の左側はがら空きである。

 そしてその目は、倒れゆく瓜子の上半身を追っており――逆側から迫る瓜子の右足にはまったく気づいていなかった。


(……ただ蹴るだけじゃ、足りない。きちんと、スポットを狙うんだ)


 瓜子は歯を食いしばり、意識を集中した。

 正常なスピードに戻りつつあった世界の動きが、またスローモーになっていく。


 これは即時に、第二の集中力の限界突破を迎えたということであろうか。

 あるいは、限界突破のさなかにまた新たな領域に踏み込んだのだろうか。


 まあ、そんな非論理的な話を考え込んでもしかたがない。

 瓜子は振り上げた右足の指を反らして、中足で蹴り抜く姿勢を整えた。


 狙うは、イヴォンヌ選手の下顎だ。

 どんなに頑丈な首を持っていても、不意打ちで下顎を真横から蹴り抜けば、多少なりとも脳を揺らせるはずであった。


 だが――それでもおそらく、イヴォンヌ選手は耐え抜くだろう。

 こんな苦しまぎれの一発で逆転できるほど、イヴォンヌ選手は甘い相手ではなかった。


(……意識が切れるまで、あたしはあきらめない)


 瓜子は倒れ行く力を利用して、イヴォンヌ選手の下顎を蹴り抜いた。

 そして、迫りくるマットに左肘を叩きつける。


 その左肘を支点にして、瓜子は横合いに旋回した。

 マットにこすられた肘の先端に、熱い痛みが走り抜ける。

 そうして蹴りの勢いで一回転した瓜子は、舞い降りた右足でマットを蹴って、跳び起きた。


 しかし、向かう先にたたずむのは、呆然とした面持ちのレフェリーである。

 イヴォンヌ選手は視界の端で、上体をのけぞらせていた。


 しかしイヴォンヌ選手は、恐るべき頑強さで踏み止まっている。

 そうして彼女が身を起こそうとする動きに合わせて、瓜子は再び旋回した。


(これで最後だから、上がってくれ!)


 瓜子は右足を軸にして、左足を振り上げる。

 拳が届く距離ではなかったので、なんとか足を上げるしかなかったのだ。


 もはや、自分がどのような状態にあるのかも理解できない。

 いつしか瓜子の意識は現世に舞い戻っており、さまざまな痛みや虚脱感に全身を苛まれていた。


 それらの感覚に耐えながら、瓜子は左足を振りかざす。

 バックスピンの、左ハイキックである。

 瓜子の全身がみしみしと軋みながら、再び旋回して――そして、左のかかとに重い衝撃が爆発した。


 蹴りの勢いに負けた瓜子は、そのままマットに倒れ込む。

 そして――イヴォンヌ選手も倒れ込む姿が、かすむ視界の端に見えた。


 わんわんとした耳鳴りが、頭の痛みに加えられていく。

 客席の大歓声が、ようやく知覚できるようになったのだ。


 瓜子はそのまま突っ伏して、眠ってしまいたかった。

 しかし、試合は終わっていないのだ。

 瓜子は苦悶の涙をにじませながらマットに拳をついて、死に物狂いで立ち上がってみせた。


 ファイティングポーズを取る余力は、もはや残されていない。

 しかしそれでも、瓜子は立っており――イヴォンヌ選手は、大の字でひっくり返ったままであった。


 そんな二人の姿を見比べたレフェリーが、頭上で両腕を交差させる。

 その姿を見届けてから、瓜子はマットにへたりこんだ。


 すると――恐るべきことが起きた。

 イヴォンヌ選手が、ぴょこりと半身を起こしたのだ。


 イヴォンヌ選手は寝起きの幼子めいた面持ちで、きょろきょろと周囲を見回す。まるで、ここ最近のユーリのような挙動である。

 しかしその頃にはフェンスの扉が開かれて、リングドクターが駆け込んできていた。


 リングドクターはすぐさまイヴォンヌ選手のもとに駆けつけて、何か語りかけている。

 その言葉を聞く内に、イヴォンヌ選手の目が丸く開かれていき――そしていきなり、瓜子のほうに向けられてきた。


 イヴォンヌ選手はリングドクターの手を振り払って跳び起きるや、瓜子のもとに駆けつけてくる。

 そして、その丸太のごとき両腕で瓜子の身を抱きすくめてきた。


『グレイト!』だとか『ストロング!』だとか、そんな風にわめいているようである。

 瓜子には、それに答える語学力も体力もなかったが――とりあえず、心のままに笑うしかなかった。

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